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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu174.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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西洋の概念について、基本的には日本人が翻訳したものであり、
中国と西洋の間には、永遠に日本というものが挟まっているのである。
2008年8月30日 土曜日
◆現代中国語の中の日本語「外来語」問題 王彬彬(日本語訳:松永英明)
http://www.kotono8.com/2008/08/30chinese-japanese.html
http://www.kotono8.com/wiki/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%80%8C%E5%A4%96%E6%9D%A5%E8%AA%9E%E3%80%8D%E5%95%8F%E9%A1%8C
五(西方語翻訳にあたっての論争)
西洋の専門用語をどのように訳すかという問題について、当初、中国では論争があった。大体三種の観点がある。第一の主張は、できる限り中国独自の訳し方をし、日本語訳を無条件に借りるのに反対するというもので、厳復はこの観点の代表であった。第二の主張は、できる限り日本がすでに行なった訳語を借用するというものである。さらにもう一つの観点があって、西洋の専門用語の音訳を進めようという主張であった。
王国維は、日本に既にある訳語をできる限り借用しようと主張した。『論新学語之輸入(新しい学術語の輸入を論ずる)』という文章で、まず新しい学術語を輸入する必要があることを強調し、その輸入の問題については、このような見方を表明した。
王国維はつまるところ王国維である。日本にはすでに訳語があって、それは思いつきで作られた言葉ではなく、「専門家数十人の考究・数十年の改正を経て」最終的に確定したものである。それは実情に合っており、同時に中国人が日本語訳を借用すべき有力な理由だ、と彼は述べている。また、西洋専門語を翻訳するとき、日本人は二文字以上の言葉を組み合わせるのが習慣であり、このために中国人が単漢字を用いるのと比べて正確に原意を伝達できると指摘している。それは熟練した役人が一言で断罪するかのようである。実際、王国維のこの文章で、なぜ日本語訳が中国に全面勝利し、厳復の訳語が淘汰されて尽きてしまったのかを基本的に説明できる。
当時にあって、もう一つの非常に影響のある翻訳上の観点があった。それは、西洋専門語に対して音訳を進めよという主張で、章士サがこの観点の代表である。実際、いくつかの西洋専門語は、音訳方式が流行したこともあった。たとえば「徳謨克拉西」(民主=デモクラシー)、「賽因斯」(科学=サイエンス)などである。章士サが主に編集した『甲寅』では、西洋専門語は音訳を多用している。厳復もまた、西洋専門用語の音訳を試みて成功している。たとえば「Logic(ロジック)」を音訳して「邏輯(ルオチー)」とするのは、厳復によるものだといわれている。「邏輯」の二字は、音・形・意味の3つの選択が絶妙で、そのために定着した。「邏輯」に対して日本では意訳と音訳の両方があり、意訳は「論理」だが、後に音訳がさらに流行した。「邏輯」という漢語の言葉も日本に伝わって、現代の日本の著作の中でもこの二文字はよく出現するが「ロジック」と読み仮名がふられている(※訳注:これは筆者の誤認と思われる。日本では邏輯はほとんど見られない)。日本では「邏輯」という言葉は中国・日本・西洋の三種の文化が混血したものなのである。つまり、中国の字、日本の音、西洋の意味である。これはもちろん非常に味わい深いことだが、同様に興味深いことに、「邏輯」という音訳用語は厳訳用語の中で最も生命力を有しているということだ。このため、「邏輯」については探究する価値があると思われる。
厳復と日本の学者はみな漢語を用いて西洋語を訳した。西洋語のレベルでいえば、厳復は決して日本の近代の学者に劣っていなかった。漢文について、日本の学者は精通していたけれども、これは厳復にとっては母語であり、厳復の漢文の造詣が日本の学者のはるか上にあったことは疑いない。しかし、厳復は結局日本人に敗れたのだ。わたしは、その一因として、まさに漢語が厳復の母語であったからだと考える。母語であったために、その語意の精細な体現と深い理解があるため、かえってこれが一種の束縛となり、翻訳には漢語の原意によって厳しく限界が生まれたのである。これに対して日本の学者は、漢語にも精通していたが、それはつまるところ外国語の一種であって、漢語に対して決して厳復のような環状を抱くことはなかった。それゆえに自由に漢語を駆使することができたのである。二音の学者は大胆に漢語の原意を改造し、需要に応じて漢語に新しい意味を賦与していった。漢字を利用して新語を造り、甚だしい場合はある漢語のかつて伝えていた原意と完全に相反する意味を与えることもあった。こういった日本の学者の訳語をかみしめると、彼らは漢字・漢語に対して縦横に筆を揮っており、厳復はかえってそのような境地に達するのが難しかったといえる。
厳訳が日本の訳語との「生存競争」の中で淘汰された重要な原因は、王国維が指摘しているとおり、古雅にすぎることにある。「信・達・雅」は厳復が訳文に求めた三要素であった。「雅」は最後にあるとはいえ、厳復は翻訳実践の中で訳文の美を重視しており、「信」と「達」の下に置いていたのではなかった。彼は自分の訳文が必ずや絶対的な美文であることを求めており、読めばハーモニーとリズムがあって演奏感に富んでいる。西洋専門用語を翻訳するときに単漢字を常用したのも、訳文自体の語感が重要だったからだ。西洋専門用語を翻訳するとき、厳復は心血を注いでおり、彼自身の言葉を使えば「一つの名を立てるのに、旬月のあいだ踟躇した(行きつ止まりつ歩き回った)」。しかし、厳復は秦以前の文体を用いて翻訳したため、漢語を用いて西洋専門用語の「名を立てる」とき、正確さを考慮するだけではなく、語の雰囲気をも顧慮して、できる限り古雅を尽くそうとしなければならなかった。このため、厳復の作業は、日本の学者に比べて艱難を極めることとなったのである。厳復がこのように古雅な単漢字で西洋専門用語を訳出していたため、原意を伝えることはできなくなり、原意の伝達は非常に曖昧模糊としたものとなった。朦朧として把握されにくいものとなったのである。日本の学者はいささかも語の雰囲気を考慮する必要がなく、用語の古雅を追求することもなかったので、自由度は非常に大きかった。全面的に原意を伝えることをできるだけ正確に行なおうとしたため、二文字以上の語の組み合わせを用いることができた。しかも訳語を選ぶときにはそれが雅か俗かといったことも意に介さなかった。そのため、訳語は明快で直接的なものとなり、一目でわかるものとなったのである。こうして知らず知らずのうちに使うものとなった。このような競争者と出会っては、厳復の訳語が零落し、破棄されたのも仕方のないことである。
厳復は訳文の美を追究することに力を注ぎ、「立名」の雅を研究していたが、これはまさに苦心するものであった。当時、梁啓超も厳訳の文体に疑義を示している。厳訳は「あまりにも淵雅であり、先秦時代の文体を模倣しようと努力しているため、古書を多読している人でなければ、ひもといてもほとんどが難しくて理解しがたい」。また、このようにも述べている。「ヨーロッパ、アメリカ、日本の諸国の文体の変化は、つねにその文明のレベルと正比例している……これらの学理の深遠な書は、流暢で鋭い筆でなければ、どうして学童が利益を得ることができようか? 著書・訳書においては、まさに文明思想を国民に広めるものでなければ不朽の名誉とはならないのである」。西洋語の翻訳には、啓蒙の意味がある。訳文を使ってできるだけ多くの人に読ませるためには、このように、訳文が通俗的で流暢であり、理解しやすいことを求める努力が必要となる。これは厳復のやり方とはまさに正反対である。このような難詰に対して、厳福の回答は「わたくしの関わっているのは学理の深遠な書であって、学童にふるまって利益を得させることを望んでいるのではない。わたしの訳はまさに中国の古書を多読している人が待っていたものである」であった。もともと、厳復は根本的に学童のような浅学の人を自分の読者として想定しておらず、その訳文は学識ある士大夫が読むものであるというのである。厳復は、古書を多く読んでいて往々にして頑固守旧な思想を持っている人たちを改造することが、最も重要なことだと考えていた。このような人たちの思想改造が起こってから、社会全体の雰囲気にようやく変化が発生するというわけである。そして、中国の読書人はすべて文筆の美を追究しており、厳復は彼らに自分の本を読ませるために、まずは美文をもって彼らを征服する必要があった。あのような本を嫌って西洋の学問を排斥するような人たちに対して、オブラートに包んだ砲弾を送りつけたのである。
厳訳の専門用語は日本人の訳語に敗北したけれども、それは厳訳が全体的に失敗したということにはならないし、厳復が訳文の美を追究したのは道理のないことだったと言うことも当たっていない。今年(※1998年)は厳訳『天演論』(ダーウィンの進化論)の出版100周年である。100年前、『天演論』が世に問われたとき、知識界は激震に見舞われた。人々は奔走して語り、相争って読んだ。多くの人たちはこの作品を枕元の書とし、一読しては再読、片時も手放せないほど夢中になった。これはなにより、厳復の訳文の優美さと切り離すことができない。人々は争って厳復の訳書を読んだ。それは新しい知識を求めたということもあれば、美しい文を味わったということもある。西洋の学問に抵抗していた守旧者であっても、厳訳のこの作品の美文を鑑賞することを禁じ得なかった。中国の状況と日本の状況は同じではなく、厳復が訳文に対して日本の学者と異なったものを求めたのも不思議なことではない。
もし、1898年に梁啓超が日本小説『佳人之奇遇』を翻訳したのが日本語「外国語」が中国に輸入された発端だとすれば、現在まさに100周年である。これはもちろん記念すべきことである。
わたしたちが思考・演説・記述を行なうのに用いている概念の中で、実に70%が日本人の作り出したものであることを思うたびに、わたしはこの問題を考える。この事実は、100年来、中国人の思惟に対してどのような影響を生み出しただろうか? 言い換えれば、もし当初から日本のような隣国がなく、長期間にわたって、人々が厳訳概念だけを使い、厳訳概念を通して西洋思想を理解し、中国の問題を思考していたならば、日本で訳された概念を通過するのと差異があっただろうか、なかっただろうか? 日本で訳された概念の輸入がなかったとしても、もしかしたら厳訳は淘汰され、誰かが西洋文化の概念のためにもっと適合する訳語を探し出していたかもしれない。しかし、これとわたしたちが現在使っている日本の訳語は大多数がみな違っていたことだろう。もしこのようであれば、この100年来の中国人の思考と問題を論じる方式は異なっていた可能性があるだろうか? 最終的にこの100年来、中国の歴史の過程は完全に同じものとなりえただろうか? 具体的にいえば、「政治」「経済」「文化」「革命」「階級」「社会主義」「資本主義」といった概念に替わる言葉がわたしたちの眼前に出現していたら、わたしたちはこれらの問題の感受・理解について変化を起こしていただろうか?
日本語「外来語」の大量輸入は、100年来の中国人の思惟に対して、100年来の中国文化に対して、100年来の中国の歴史過程に対して、確かに影響を与えてきたといえる。しかし、現代中国語を用いることで全体の思考に与えているこのような影響は、厄介なことでもある。日本語「外来語」の影響を考えるとき、日本語「外来語」を使わなければならない。これは、一匹の蛇が自分のしっぽを咬んでいるようなものである。これは西方の中国学者にとっては極めておもしろい課題にほかならない。
日本語「外来語」の影響を全体的に論じることはできないけれども、具体的な例はいくつか挙げることができる。
中国古代に「資本主義」の萌芽はあったか否かという問題について、史学界では数十年間にわたって論争が続いている。しかし、論争が繰り返されても、実質的にはすべてが概念についての争いであって、分岐は「資本主義」という概念の理解におけるものである。同じ歴史事実について、ある人は「資本主義」の萌芽であると説明できると考え、ある人はできないと考える。これは「資本主義」の萌芽についての争いではなく、何が「資本主義」なのかという争いであるということになる。「資本」と「主義」の両方の言葉はどちらも日本人が作ったもので、資本主義は西洋語の「capitalism」を訳したものであり、それは日本人によるのである。もし仮に「capitalism」が別の漢語のことばで訳されていたら、この争議は発生しえたであろうか? 発生していたとしたら、表現方式上、異なるところはあっただろうか?
80年代以来、中国美学界ではいわゆる「丑学」という考え方が提唱された。「丑学」は「美学」に相対する言い方である。「美学」は日本人の中江兆民が西洋語の「aesthetics」を翻訳したものだ。ただし、「aesthetic」の原義は「感性学」である。もし「美学」という訳し方が最初からなく、たとえば「感性学」というように別の訳し方がなされていたら、いわゆる「丑学」というものは成立していたであろうか?
わたしたちは現在、短いものは数百字から長いものは数百万字の虚構の作品をすべて「小説」と読んでいる。ここには長編小説と短編小説の区分しかない。長編小説と短編小説という命名は、ただ作品の長さの区別を指すだけであり、これ以外に何ら説明をしていない。これに関して、いわゆる長編小説と短編小説の審美的な意義において、本質的な差異があるか否かという研究と論争がある。ある人は二つの意味は審美方式について違いがあることを意味していると言い、ある人は二者の区別は字数にしかないと言う。実のところ、わたしたちが現在使っている「小説」という概念は、日本の近代作家・坪内逍遙が『小説神髄』で英文の「novel」の翻訳をおこなったものである。英文の「novel」は本来、比較的長編の朔辺を指しており、短い作品については「shortstory」という言葉を使っていた。このように違った命名があるということは、これら二つが一つの分類ではないことを強調しているわけである。「小説」という言葉を用いて「novel」を訳すのは、原意の全体を伝えることはできないといわねばならない。もしわたしたちが長編小説と短編小説をひっくるめて「小説」と言わず、別々の異なる言い方をしていたら、わたしたちはこの二つの認識について最初から違っていただろうか、そうではないだろうか? 長編と短編の論争は、そもそも発生しただろうか?
例はいくらでも挙げることができる。最後にわたしは言いたい。わたしたちが使用している西洋の概念について、基本的には日本人がわたしたちに替わって翻訳したものであり、中国と西洋の間には、永遠に日本というものが挟まっているのである。
この意見を知らずして、筋が通るものであろうか?
(私のコメント)
この文は中国の王彬彬氏が書いた「現代国語中的日語“外来語”問題/現代漢語中的日語“外来語”問題」の日本語訳の一部ですが、中国における西洋語をいかに中国語に翻訳することの難しさを語っている。
明治維新の時期において日本から西洋に留学した留学生達は、日本語に翻訳しようとも出来ない言葉に直面した。夏目漱石などもその一人ですが、適当な漢字を割り当てて新訳語を作り出していった。中国人が翻訳した西洋語の訳語はあることはあったが、日本語の訳語をそのまま用いることが多くなった。
中国人にとっては漢字が母国語であるだけに、本体持っている漢字の意味にこだわりすぎて新しい訳語を作ることの困難に直面する。「経済」という言葉も本来は別の意味があるのですが、現代ではエコノミーの訳語として「経済」が使われている。中国人の知識人にとっては新しい訳語を作るうえでは障害になってしまう。
「民主」にしても本来の意味は「民たちの主」という意味であり、「国民主権」の意味とは逆の意味だ。しかし現代ではデモクラシーは民主と訳されている。結局分かりやすく言えば「経済」とか「民主」といった言葉は日本からの外来語であり、西洋語の意味に忠実に訳されているために中国に定着した。
ではどのように外来語が定着したのかと言うと、中国から日本に留学した留学生が小説などを翻訳した時に「日本語」がそのまま用いられて通用するようになった。日本語と言う外来語を用いることによって西洋語の訳語が普及した。つまり中国人にとっては日本が西洋の窓口になり翻訳が進むようになった。
なぜ厳復の翻訳した漢語が用いられずに日本語訳の訳語が用いられるようになったのだろうか? それは西洋の古典が日本語に翻訳されて、それが中国人留学生によって中国語に翻訳される事が多かったからだろう。だから厳復の翻訳した「計学」は用いられず「経済学」が定着した。
このように漢字本来の意味を用いて翻訳語を作ることは厳復も試みたが、日本語と言う外来語を用いたほうが西洋語の訳語として適当だったのだろう。このようなジレンマは現代においても続いており、日本においては漢字で翻訳されることは少なくなりカタカナで音訳されるようになった。
中国においても音訳が用いられていますが、コカコーラを可口可楽と言うような方法ですが、コカコーラのような形のあるものなら翻訳は可能だが、西洋語の抽象的概念となると漢字を用いて訳語を作ることは難しい。漢字本来のもつ意味が新しい訳語の概念を阻害してしまうのだ。
もし明治期に日本人が西洋語を全てカタカナで音訳していたらどうなっていただろうか? 現代はまさにそうなっているのですが、日本人が「パソコン」と呼んでいるものが中国では「電脳」と言う言葉に翻訳されている。もし中国人がパーソナルコンピューターを音訳していたらかなり面倒な文字になるだろう。
しかし現代は西洋からラッシュアワーのように新語が押し寄せてくる。日本語の場合はカタカナで音訳しているが、中国でも音訳で対処しているがどの漢字を用いるかが定着していない。西洋の地名や人名の音訳も厄介な問題であり、日本語のようにカタカナなら音訳だと言うことがすぐにわかるが、中国語だと混乱するばかりだ。
例えばアメリカは亜米利加なのか、亜美利加なのか、花旗なのか、弥利堅なのかいろいろあって混乱する。地名や国名でもこのように混乱するのだから抽象的概念語は音訳では西洋語に通じていないと音訳であることすら分からない。例えばデモクラシーを音訳すれば「徳謨克拉西」だが分かる人がどれだけいるだろうか?
だから西洋語の書物を翻訳する時には中国語に直接翻訳するのは困難を伴うが、日本語に翻訳されたものを中国語に翻訳したほうが容易だった。私は以前に中国はなぜ大量の留学生をアメリカに送るのか疑問に思ったのですが、それは英語の本を中国語に翻訳することは困難であり、中国人がアメリカに留学して英語をマスターしたほうが手っ取り早いからだと思う。
私自身は英語も少ししか分からず中国語もまったく分からないが、英語の意味を正確に中国語に翻訳するのは難しいらしい。英語の複雑な言い回しを日本語に翻訳することは可能だが直接中国語に翻訳するとなると名詞を動詞に変えたり時制を合わせたり考えなければならない。さらに固有名詞や抽象語をどのように翻訳するのかの問題も出てくる。だから中国では日本のような西洋の翻訳文化が育ちにくい。
次のような簡単な文章でも英語から直接中国語に直すのは困難であり、日本語からだと比較的翻訳しやすいようだ。
◆極めろ!何を?中文を!
http://keing.exblog.jp/
I flew to London then took a connecting flight to Paris.
の日本語訳は
私はロンドンへ飛んで、それからパリへの乗り継ぎ便に乗った。
ですが、わたしはこれを英語から中国語に訳すのは結構悩むと思います。日本語からだったらできますが、それでも一瞬考えるでしょう。ちなみにiKnow!中文版では
我先乘机飛到倫敦,然后再跨机到巴黎。
となっていました。ポイントと呼べるような点を挙げるとすれば、日本語では「乗り継ぎ便」と名詞になっている部分を中国語では「乗り継いで」のように処理することでしょうか。
(私のコメント)
日本語なら助詞や副詞や接続詞を用いて複雑な言い回しも出来ますが、中国語ではそれが難しい。日本語はイエスともノーとも取れる複雑な言い回しを玉虫色の表現と言いますが、英語に翻訳することはプロの通訳でも困難なことであり、だから外交交渉でも誤解が起きる。
日本の政治家が用いる「前向きに検討する」という言葉を英語に翻訳することは難しい。だから最近では日本語がそのままカラオケやカイゼンのように通用するようになった。言葉はその国の文化レベルを現しているともいえる。日本では英語やフランス語やドイツ語などの翻訳本が沢山あるが、日本語の本が英語に翻訳されることは希だ。それは日本語の意味を正確に英語に直すことが困難であることがあるからだろう。
大戦の末期に日本の首相が「黙殺する」と返答しましたが英語では「黙殺」という言葉を翻訳できない。新たに「モクサツ」という新語訳を作って理解しなければならない。しかし英語ではNOと誤訳された為に広島長崎に原爆が落とされることになった。