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チベット問題を左翼はどう考えるべきか(2) (かけはし)
http://www.asyura2.com/08/china01/msg/254.html
投稿者 ダイナモ 日時 2008 年 8 月 22 日 23:24:33: mY9T/8MdR98ug
 

http://www.jrcl.net/web/frame080825f.html

深い後遺症を残した共産党の軍事力を
用いた革命輸出と民族問題のジグザグ

許 由(香港 先駆社)

 一部の左翼のなかでは、文革前後の中国共産党と同じように、民族問題を単純に階級問題の一部としてとらえる傾向がある。それは客観的には民族問題を抹殺してしまうことである。これはエセマルクス主義と真性大漢民族主義があがめるものである。この点については後で改めて論じる。

チベット仏教への弾圧

 一九八〇年代初めから、中国共産党はチベットに対して比較的温和な政策をとり始めた(訳注8)。しかしこれらの政策ではダライ・ラマに対するチベット人の信仰を取り除くことができないことを知った。それに加え一九八七年から八九年にかけてのチベットで発生した事件によって(訳注9)、比較的穏健な路線は放棄され、強硬路線がそれに取って代わった。
 この路線は、一九九五年にパンチェン・ラマ10世の円寂の後、生まれ変わりとされる転生霊童の認定と即位に介入するという事件に発展した。ダライ・ラマが選んだパンチェン・ラマの生まれ変わりとされる霊童を中国政府が秘密裏に拉致し、別な子どもを生まれ変わりの霊童であると認定するという事件である。この事件以降、中国共産党はダライ・ラマの影響を厳しく封殺するために、僧侶や寺院がダライ・ラマの肖像を掲げることを禁じ、ダライ・ラマを支持せず、中央政府を支持するという声明に無理やり署名させたりした。僧侶たちはさまざまな方法で抵抗した。

 共産党は無神論者を自認しているにもかかわらず、転生霊童(訳注10)に介入している。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」である(訳注 11)。もちろん、清朝の皇帝や中華民国政府も同じように転生霊童の認定と即位には介入してきた。だからといって現在の中国政府もそのような伝統を継承しなければならないということにはならない。実際、かつてのさまざまな慣習はすでに過去のものになっている。中央政府が転生霊童の認定と即位に干渉するという慣習は、なおのこと放棄されなければならない。
 なぜなら、それは政教分離の原則と根本的に相反するからである。僧侶に対してダライ・ラマに礼拝することを禁じ、ダライ・ラマを否定するよう強要することも、同じく信仰の自由に反することである。中国共産党のいうチベット仏教の信仰の自由とは、正確に言えば、ダライ・ラマ14世のいないチベット仏教の信仰の自由ということに過ぎない。しかしダライ・ラマ14世のいないチベット仏教はチベット仏教ではない。法王のいないローマカトリックがカトリックではないのと同じである。
 要するに、中国共産党の信仰の「自由」に関する政策は、信仰の「弾圧」に関する政策なのである。だが歴史が証明しているように、長い歴史がある宗教に対して、支配者が暴力と強制的な思想改造によってそれを抑圧しようとしても、それは必ず失敗する。

 つまり、中国共産党が今後もダライ・ラマへの攻撃を続けるのであれば、それは客観的にみて、彼の宣伝になるだけなのである。チベット仏教には四大宗派があり、他の三派はダライ・ラマとは確執をつづけてきた(訳注12)。しかし中国共産党があまりにダライ・ラマへの攻撃を強めるあまり、ダライ・ラマはチベット人団結の象徴となってしまい、一般のチベット人のみならず、他の三派の僧侶たちも、これまで以上にダライ・ラマを崇拝するようになってしまった(原注3)。自業自得とはこのことである。理性のあるすべての中国人民は、中国共産党のチベット政策が失敗したことを認めなければならない。そしてそれは変更されなければならない!

1国2制度、そして政教分離を

 中国共産党かダライ・ラマかにかかわらず、両者ともに政教一致を堅持し、そもそも間違った原則を前提に対抗している。実際には、双方が政教一致というそもそも堅持するに値しない原則を放棄しさえすれば、互いのあいだで交渉をする余地がないわけではない。中国共産党は、交渉の中で優位に立っている側であり、また抑圧する側でもある。それゆえ率先して和解案を提起する責任がある。
 この和解案は、ダライ・ラマの宗教指導者としての地位を尊重し、本当の信仰の自由を実現させるとともに、政教分離を原則にして、今後は転生霊童には干渉しないというものでなければならない。政治面ではチベットにおける一国二制度を受け入れ、チベット人民による高度な自治を実現し、本当の民主的選挙を行なわなければならない。そしてチベット自治政府では政教分離を実施するという取り決めが必要である。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」である。これは道理の通った要求であり、ダライ・ラマが拒否することは難しいだろう。彼にどのくらいの誠意があるのかを推し量ることはできない。しかし交渉が進めば遅かれ早かれそれは明らかになるだろう。
 政教分離とチベット人による民主的自治が実現されるのであれば、仮にダライ・ラマが宗教的指導者の権威を保持し続けたとしても、かつてのような政治的な権威は低下していくだろう。なぜなら、世俗化した民主的選挙では、必然的に多元的な利害関係と多元的な政治状況を生み出し、ダライ・ラマ支持者らによる一党支配にはならないからである。チベット社会の歴史的変革を再度振り返ってみれば、このような展望への確信をもつことができるだろう。
 六十年前、チベットの農奴は被抑圧者であったが、精神的には完全に中世時代の状態にあった。それゆえに、チベットでは経済的な意義における階級的分岐は存在していたが、政治的な意義におけるいかなる階級的分岐も存在していなかった。中国共産党は直接の軍事力を用いて革命を輸出し、農奴制を解体したが、あとには深い後遺症が残った。
 だが、農奴制の解体は、その後の個人的自由と権利意識の覚醒の部分的な基礎を打ち固めた。およそ六十年がたった今日、チベットでは近現代の多様な階級が並存した資本主義社会が出現した。人口が最も多い個人農民・牧畜民だけでなく、豊かな農民や牧畜民、商工業の小規模資本家、官僚集団、企業労働者などが登場した。それぞれの利害が異なるだけでなく時には相反するものになっている。もし真の政治的自由が存在し、貧富と階級の利害の相違と衝突があるとすれば、それは必然的に政治における多元性によって表現されるだろう。大部分の個人農家や牧畜民は、旧来の小生産方式から抜け出ることはなく、新時代の知識の獲得も困難かもしれないが、かつての時代に比べると切実な利害に関する意識は格段に増している。このような人々は、ダライ・ラマを崇拝しつつも、農奴制の復活を望むものはほとんどいないだろう(原注4)。
 文化的水準においても、非識字率はかつての半分に減少した。その他の条件などを総合的にみると、もし真の政治的自由と民主的選挙が実施された場合、すくなくともいくつかの政党への分岐が生まれるだろう。親中国共産党のチベット人政党の誕生も必然であることから、ダライ・ラマ支持の政党の一党支配にはならないだろう。ダライ・ラマ派とてチベット仏教唯一の宗派ではないのだから、なおのことである(原注5)。チベット人すべてが敬虔なわけでもない(原注6)。
 次に、現在のチベット人官僚集団の少なくない部分が、こっそりとダライ・ラマを信奉している。しかし、一旦政権の問題が焦点になった場合、チベット人官僚集団が、亡命政権にすんなりと権力を差し出すことはないだろう。また、自由選挙という環境においては、労働者人民に依拠した世俗的な左翼政党の緩慢な発展によって、労働者農民が徐々にダライ・ラマによる精神的支配から抜け出す支援ができるかもしれない。一九四〇年代のチベットにおいて、プンツォク・ワンギェルのようなチベット人共産主義者が、数百人のチベット人を組織することができたのであれば、今日それが不可能な理由はなにもない(訳注13)。

香港の経験をどう考えるか

 香港の経験もひとつの好事例となるだろう。中国共産党は香港を統治したことがなく、多くの香港人も中国共産党に対して警戒心を持っている。だが、親北京の政党である民主建港連盟は、香港議会の直接選挙において第二政党になっている。チベットにおいて一国二制度と民主的選挙を実施した場合、チベットが完全にダライ・ラマの手中に落ちてしまうと考えるのは、あまりに自信が欠如しているとしか言いようがない。もし本当にそのような結果になってしまうのであれば、中国共産党自身があまりに頑迷で、対抗勢力の中間派をも急進派の側に追いやってしまった結果であろう。

 一国二制度でチベット問題を解決するという提案は検討に値するものであり、中国共産党は積極的にダライ・ラマに応えるべきだろう。一九七九年に小平はダライ・ラマの代理人に対して、チベットの独立以外の話題であれば何を話してもかまわない、と語ったのではなかったのか(訳注14)。それ以降、ダライ・ラマは、チベット独立という立場を放棄したと言っているにもかかわらず、中国共産党はなぜダライ・ラマとの交渉を真剣に模索しないのか。四月十七日、人民日報は、ダライ・ラマの中道政策を一言で否定した。「主権問題を議論することは許されない」。そして、ダライ・ラマがチベットから人民解放軍を撤退させ、将来的にはチベットに外交権を与えるように希望しているがこれらは中国の主権を否定することであり、それゆえダライ・ラマの中間路線は実際にはチベット独立であると批判した。

 まず、仮にダライ・ラマがチベット独立への確信を持っていたとしよう。もし仮にそうなら中国共産党は彼との交渉を拒否することもできるだろう。だが、そうであっても共産党はみずからの提案を積極的に提起しなければならないし、少なくともチベット人の自治権を回復させなければならない。だが、いまだ何の提案もない。そんなことで信頼を得ることができるだろうか。

「ひとつの中国、それぞれの表現」

 次に「ダライ・ラマの主張はチベット独立である」と批判することは、そもそも牽強付会である。軍隊の駐留はそもそも主権問題の必要条件ではない。中国共産党は台湾政府との交渉において、解放軍は台湾に駐留しない、台湾自身の軍隊を維持する、などを含めた一国二制度の案を提示したではないか(訳注15)。
 ダライ・ラマが二十年前に提起した「ストラスブール提案」(訳注16)では、チベットを非軍事の平和的聖地にしたいという希望が提案された。すなわち中央政府は軍隊を駐留させず、チベット自治区自身も軍隊を保持しない、というものである。ダライ・ラマはさらに、非軍事化を実現する前段階として「中国は防衛目的の、限定的な軍事施設の存在を有する権利がある」と述べている(原注7)。どうしてこれがチベットに対する中国の主権を否定すると言えるのか。外交権に至っては、ダライ・ラマはそもそも主張すらしていない。彼の主張はこうである。「中国政府がチベットの外交の責任を負うが、チベット政府は宗教および文化面での国際関係を発展させることができる」。ダライ・ラマのこの自治案は、中国共産党の台湾に対する方案と比較しても、その自治の程度はかなり低いものである。それゆえ中国共産党がダライ・ラマの提案を「形を変えた独立」だと罵倒することは、無制限の言いがかりであり、理不尽な強弁である(原注8)。
 もし中国共産党の罵倒が成り立つのであれば、台湾に対する中国共産党の提案も同じく「形を変えた独立」であり、中国の主権を否定するということになる。もしそうでないとするなら、「ひとつの中国、それぞれの表現」(訳注17)という立場も中国共産党は受け入れることが可能であり、ダライ・ラマのチベットに関する立場も同様に中国の主権を否定するものではないことになる。それゆえ、中国共産党が口を開けばすぐにダライ・ラマを否定するという態度は、そもそも主権の防衛などとは全く関係のないことなのである。
 かれらがチベットに対して強硬な態度をとることができる唯一の理由は、台湾はいまだ手中に収めておらず、強硬な態度は台湾独立派を助けることにしかならないが、チベットは手中に収めてあるのでやりたい放題やってもかまわない、ということである。(つづく)


【原注】
(原注3)「ラサ事件の爆発は、チベット全体に反響をもたらし、ダライ・ラマは他の根本ラマ(弟子の心の本質を示したラマ)を凌駕し、最高の精神的な指導者となり、ダラムサラでダライ・ラマに拝謁することが最高の名誉となり、サキャ派の僧侶もまずダライ・ラマに拝謁してからサキャ派の法王に拝謁するようになった」(『最後的達頼喇嘛』林照真、二〇〇〇年、時報文化企業有限公司、台北、一四七頁)
(原注4)「ツレンジョマという女性から、旧チベット社会で受けた彼女の苦難を聞いた後、彼女にチベットの独立を希望しますかという質問をしたがその答えは『旧社会のチベットは独立していたでしょ。もしチベットがもう一度独立するなら、あの苦痛をもう一度受けるのですか?』というものであった。」(『天葬 西蔵的命運』王力雄、三三八頁)
(原注5)亡命者の内部団結は近年においては安定していない。ダライ・ラマが完全独立を放棄したこと、そしてシュデン派(訳注18)の仏神ドルジェ・シュデンを祀ることを禁止したことによる。ダライ・ラマの命を狙った事件も発生した」(『達頼喇麻與中国―西蔵問題的解決之道』メルヴィン・ゴールドスタイン、明鏡出版社、二〇〇五年、一九一頁)
(原注6)「旧チベット社会にはあんなにたくさんの寺院があり、われわれチベット人もみんなそれを敬ってきたが、良い生活を送ることができたとでもいうのか」(王力雄、前掲書、三三八頁)
(原注7)『最後的達頼喇嘛』(林照真、二〇〇〇年、時報文化企業有限公司、台北、付録)
(原注8)二〇〇七年、中国政府の発行した『チベットの主権の帰属と人権状況』白書は次のように述べている。「一九八八年六月、ダライはいわゆるチベット問題を解決する『ストラスブール提案』を提示した。この提案は、いわゆるチベットはこれまでも独立国家であるという前提であり、一国内部の民族区域の自治問題をいわゆる宗主国と従属国、保護国と被保護国の関係に変えてしまい、チベットに対する中国の主権を否定し、形を変えたチベット独立である。これはそもそも帝国主義が中国を分割してもてあそんできた陰謀であり、当然にも中央政府から拒否された。中央政府は、『チベットに対する中国の主権は否定することは許されず、チベット独立はいけないし、半独立はいけないし、形を変えた独立もいけない』と明確に示した」。
【訳注】
(訳注8)比較的温和な政策:「チベットでの文革政治は八〇年の胡耀邦(総書記)のチベット訪問まで続いた。チベットを訪れた胡はその悲惨なありさまに仰天したらしい。彼はチベットにかぎらず過去の民族政策にあやまちがあったことを認め、民族自治権の拡大、自民族出身の幹部を三分の二とすること、貧困克服のため税と現物の供出を三年免除すること、貧困地域への先進地域からの援助などの新政策を提起した。それによって寺院への参詣と巡礼が許され、まもなく若干の民族語の小・中学校が生まれ、投獄されていた人びとがかなり釈放した。国境の緊張も弛み、チベット人の合法的なインドへの出国留学と帰国、国境地帯の往来も認められるようになり、ネパールなどとの国境交易も復活した。七九年から中国は数次にわたるダライ・ラマ(代理)代表団の訪中を受け入れ、チベット問題について交渉する姿勢があることを示した。しかし宥和政策は定着しなかった。各地で自治あるいは独立の要求、民族独自の共産党の樹立といった議論が活発におこなわれるようになる」(『中国二〇世紀史』東京大学出版会、一九九四年、二百九十七頁)。「これに小平が強く反発した結果、八三年以降再び、民族政策は保守的傾向へと一時逆転することにもなった」(『知られざる祈り 中国の民族問題』(加々美光行、新評論、一九九二年、序章)。そして「一九八六年十二月から八七年一月まで、中国全土の一五〇の大学で燃え上がった学生の民主化要求運動を中国政府が弾圧したうえに、その責任を問う形で党総書記で民主派に同情的だった胡耀邦を失脚に追いやるという事件」を経てチベット政策は強硬路線を突き進むことになる。文革期およびそれ以降の対チベット(民族)政策については、『知られざる祈り 中国の民族問題』(加々美光行、新評論、一九九二年)序章、第四章の[〜\も参照。
(訳注9)一九八七年から八九年にかけて発生したチベットでの事件:「一九八七年九月二十七日から十月九日にかけて、チベット自治区の首都ラサにおいて、僧侶を中心とした『チベット独立』を要求するデモが行われ、デモの規制に出動した武装警察隊(軍事警察)とデモ隊との間に死傷者数十人という流血の事態が発生した。この事件が発生する直前、九月二十一日、ダライ・ラマはアメリカ上院議員議会の人権小委員会で講演し、そのなかでチベット問題に関して五項目の提案を行った。……(1)チベットを非武装平和地帯に変えること、(2)中国政府は中国人のチベットへの移民政策を放棄すること、(3)チベットにおける基本的人権と自由および自決権を尊重すること、(4)チベットの自然環境の保護と、核施設の撤廃および核廃棄物貯蔵計画の放棄、(5)チベット問題について中国政府との率直な交渉の開始、の五点である。さらに九月二十四日にもダライ・ラマはインディアナ大学での記者会見の席上、より明確に『チベットは中国の一部ではなく、一つの独立した国家である』と明言した。……胡耀邦が失脚したことによって、中国政府のチベット政策が再び決定的に、保守的な階級論的政策に逆戻りするのではないかとの懸念が強まったこと、そこに八七年のチベット紛争を発生させる誘因があったことは確かである」。
 「八八年末から八九年三月にかけてのチベット地域での一連の紛争の発端となる事件は、国連人権宣言記念日に当たる八八年十二月十日に起きた。この日、ラサ市内で数十人の僧侶(尼僧を含む)を中心としたデモ隊が現れ、これに武装警察が発砲して死者十二人、負傷者数十人(中国発表では十三人)の流血がひき起こされた。さらにその数日後の十二月十九日、北京の中央民族学院に所属するチベット人学生七十人が、天安門広場周辺で抗議のデモ行進を敢行し、虐殺抗議を訴えた。中央民族学院は、元来、中国共産党が党にもっとも忠実な少数派民族の党幹部や政府幹部を養成するために一九五一年六月、北京に設立した高等教育機関であり、その少数民族出身の在学生や卒業生はしばしば自民族同胞から『漢民族の傀儡』と蔑称されることが少なくなかった。その中央民族学院のチベット人学生までが抗議に立ち上がったということは、決して生易しいことではなかった」。
 「(それまでの極左路線の変更を掲げて八五年十一月に胡耀邦にチベット自治区党書記に登用された)伍精華は……八八年十二月二十九日に、この間の紛争事件の混乱の責任を問われてその職を退き、代わってより保守派に忠実な胡錦濤が起用されたのである」。「ダライ・ラマがこの間、非暴力主義と事実上の独立要求の放棄を主張するようになったのも、多分にこの伍精華の民族政策の転換に寄せた熱意が影響していたと見ることもできよう。パンチェン・ラマもダライと同様に当然、伍に望みを託していたと思われる。それだけに、八九年初めの保守派・胡錦濤の登場はやはり失望を呼ぶものだったに違いない。」
 「胡錦濤は、パンチェン・ラマがチベット入りして間もなくの八九年一月十九日、ラサにおいて前年三月の流血事件において逮捕中の僧侶たちを引きずり出して公開裁判にかけたのである。このとき、僧侶たちは多数のチベット民衆の面前で頭を押さえ付けられ死刑判決を含む重罪判決を言い渡された。当然、ラサ市外には次々に中共当局を非難するポスターやビラが出現した。」
 文革期に紅衛兵によって卒塔婆(霊塔)をあばかれて破壊されたままになっていたパンチェン・ラマ五世から九世までの慰霊を行うとともに、その亡きがらを合葬して卒塔婆を再建するために八九年一月にラサ入りをしたパンチェン・ラマ10世は、慰霊合葬と卒塔婆建設が終了した翌日の一月二十三日、チベット各地から集められた二百人余りのチベット人幹部を囲んだ座談会の席上、約五十分に及ぶ長い講話を行った。五日後の一月二十八日、そのパンチェン・ラマがチベットのシガツェ市で心臓発作で急逝した。「二月七日にラサの大昭寺、小昭寺の経堂などに、僧侶達の手によって再び『雪山獅子』の民族旗が掲げられた。それからはまさに連日のように僧侶・尼僧、学生などの呼びかけによる大小の規模の、デモ行進をはじめとした示威行為が続けられ、ついに三月五日から七日にかけて治安当局とデモ隊の間に大規模な衝突が勃発し、ラサ全市は騒乱状態に陥ったのである」。
 「三月八日午前零時を期してラサ全市に戒厳令が施行され、十二万人以上の兵力が戒厳部隊として投入されて鎮圧に当たることになった。こうしたチベットの緊迫した情勢は、当然ながら他の周辺民族地域にも影響を与えずには置かなかった。ラサに戒厳令が施行されて一ヶ月後の四月、今度は新疆ウィグル自治区に核実験停止を要求し、民族自主権の拡大を求めるデモが勃発し、北京在住の一部のウィグル人青年らもこれに呼応してデモを行うなどの事件が勃発したのである。周知のように、ほぼこの四月の時期から北京市で学生を中心とした民主化運動が活発化し、五月十五日のゴルバチョフ訪中を挟んで、悲劇の六四天安門事件へと事態は発展していったのである。」(以上、加々美、前掲書、序章)
(訳注10)転生霊童:ダライ・ラマは観世音菩薩あるいは釈迦牟尼の化身、パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、生まれ変わりによって継承される。ダライ・ラマおよびパンチェン・ラマが属するゲルク派の開祖ツォンカパ(一三五七〜一四一七)によって制度化され、のちのゲルク派による政教一致によるチベット統治の制度的な基盤となる一方で、生まれ変わりの認定をめぐり、ゲルク派の政治的な権力基盤の後ろ盾ともなった外部勢力の介入による混乱も招いてきた。
(訳注11)カエサルのものはカエサルに、神のものは神に:マルコによる福音書第12章13節〜17節
(訳注12)チベット仏教の四大宗派:ゲルク派(ダライ・ラマ、パンチェン・ラマが所属する最大宗派)、ニンマ派(初期密教の伝統を守る宗派)、サキャ派(ニンマ派から分かれた宗派で、かつてモンゴル帝国の庇護を受け勢力を拡大した時代もあった)、カギュ派(転生生活仏制度[生まれ変わり]を創設した宗派で、この制度はゲルク派をはじめ他の宗派にも広まった)
(訳注13)プンツォク・ワンギェル(一九二二年〜 )チベット東部のカム地方バタン出身のチベット人。一九三九年に重慶にある国民党の蒙蔵学院でマルクス、レーニンなど共産主義思想に触れ、チベット族共産主義革命運動グループを結成。学生運動を理由に同学院を除籍となり、それ以降チベット地域で活動を展開する。四二年、カム地方のダルツェンド(康定)で「星火社」結成。四三年、ラサで「チベット共産党」「全ポェパ民族統一解放同盟」を結成。四五年には、カム地方南部に接する雲南省のデチン(徳欽)で「東チベット人民自治同盟」を結成し武装蜂起を画策するも失敗。ラサに戻り活動するが四九年七月ラサ追放。雲南省北部の麗江に入り、四九年八月十五日に地域を制圧していた中共雲南西北地区工作委員会に合流し、チベット人の同志たちとともに中国共産党に入党する。その後、チベット民族自決の立場から中国共産党の対チベット政策に関わり続けるが、六〇年にかつての活動が「反漢」「反革命」であるとされ逮捕される。七八年に釈放された後も共産主義と民族自決を捨てることはなかった。彼の評伝『もうひとつのチベット史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(阿部治平、明石書店、二〇〇六年)は是非一読して欲しい。
(訳注14)小平の提案:小平が完全に実権を掌握した後の七九年三月十二日、ダライ・ラマの実兄、ギャロ・トゥンドゥップを招き、「完全な独立は許されないが、他のすべての問題は、話し合いに応ずる」と言明した。『小平年譜』によると「ダライ・ラマの兄ギャロ・トゥンドゥップを接見した際に、小平はこう指摘した。ダライが帰国することを歓迎する。単に様子を見るために戻るのでも歓迎だ。帰国したあと、再度出国するのならば、歓送する。もし彼等が帰国するのならば、政治面で本人にぴったりの任務を依頼したい。私は次の一カ条を保証する。すなわち出国も帰国も自由だ、という点である。二十年も隔離されていて、様子も見ないということで済むだろうか」。
矢吹晋「チベット騒乱――ダライ・ラマの柔軟路線と胡錦濤の英断」(http: //www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_40.html)より
(訳注15)台湾に対する一国二制度の提案:一九九五年一月に江沢民国家主席による「祖国統一の大業達成促進のために引き続き奮闘しよう」で、「ひとつの中国」「武力統一を放棄しない平和的統一の呼びかけ」「一国二制度」を台湾に提示し統一交渉を呼びかけた。一国二制度については次のように述べられている。「統一後、台湾の社会経済制度は変わらず、生活様式も変わらず、台湾と外国との民間の関係も変わらず、外国の台湾にある投資と民間の交流、往来は変わらない。台湾は特別行政区として大きな自治権を有し、立法権と司法権(終審権をも含む)を有し、みずからの軍隊をもってもよく、党、政府、軍のシステムはすべてみずから管理される。中央政府は軍隊、行政要員を台湾に駐在させないが、中央政府には台湾のために定員を残す」(http: //japanese.china.org.cn/ri-taiwan/6.htm)。当時の李登輝・中華民国総統は「両岸は二つの政府によって統治されている」として対話は事実上凍結され、九六年三月の台湾総統選挙直前の台湾海峡危機へと発展した。
(訳注16)ストラスブール提案:一九八八年六月十五日、フランス・ストラスブールでダライ・ラマが欧州議会議員に対して行った講演。前年の八七年九月二十一日にダライ・ラマは米国議会の人権問題小委員会で「チベットに関する五項目和平案」を提示(訳注9参照)。これがストラスブール提案の基礎となる。ストラスブール提案は「訳注13」にある小平の「完全な独立は許されないが、他のすべての問題は、話し合いに応ずる」を評価して交渉を呼びかけた。その後、中国政府と八九年一月に交渉再開の事前折衝を重ねたが、交渉団メンバーおよびストラスブール提案を巡り意見が対立、交渉は決裂した。
ストラスブール講演:http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/1988_strasbourg.html(日本語)
 チベットに関する五項目和平案:
http://www.tibethouse.jp/cta/5point_peace_plan.html(日本語)
(訳注17)一つの中国、それぞれの表現:一九九二年、香港で開催された中国と台湾との会談の中で示された中台共通の態度。「一つの中国」の原則の下、「表記は同じでもその内容は双方が判断する」と相互を政治的実体として認識し、「交流、対話、論争の中断」を行なうというもの。この会談の結果、台湾では中華民国行政院大陸委員会を代表する「海峡交流基金会(海基会)」が、大陸では中華人民共和国国務院台湾事務弁公室を代表する「海峡両岸関係協会」が相互に設置することが決定され、九三年にはシンガポールで最初の交渉が行われるが、九〇年代後半に入り、李登輝の「実務外交」に対する中国政府の反発、中国政府による台湾総統選直前のミサイル実験、九九年の李登輝による「特殊な国と国との関係」発言によって中国と台湾の政治レベルの関係は冷え切っていく。
(訳注18)シュデン派:ダライ・ラマから「カルト集団」と批判され信仰を禁止されているグループ。亡命チベット人社会では「反ダライ・ラマ」ということで異端扱いされている。亡命政府のあるインド、ダラムサラでは、シュデン派信者らしき者がダライ・ラマ側近を殺害するという事件も起きている。またダライ・ラマが海外で講演などをする際にも抗議行動を行っており、中国政府はこれを取り上げて、ダライ・ラマこそ信仰の自由を抑圧しているではないか、という宣伝に使っている。
 

 

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