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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu174.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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昨日の女子マラソンで感じた、中国の人々が北京オリンピックで
失うものは私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。
2008年8月18日 月曜日
一般観衆から隔離された北京オリンピックの女子マラソンの光景
◆【沿道ルポ】組織された応援、熱気も国際色もなく…マラソン女子 8月17日 産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/beijing2008/news/080817/gac0808172010021-n2.htm
中国選手が初の銅メダルを獲得したにもかかわらず、沿道の応援はこの日の気温同様、冷めていた。選手の名前も知らない「応援団」や「治安ボランティア」が大量動員され、すべての選手を平等に応援。その結果、友好的な中国が“演出”され、応援者同士のトラブルなども確認されていないが、マラソン特有の沿道の熱気は奪われてしまった。(北京 福島香織、野口東秀)
動員
「ここからは記者も立ち入り禁止。この先の道路にいるのは、『組織』の人だけだ」
出発地点の天安門広場南の前門で、警察官がこう説明した。再開発された中国風の街並みが選手の背景に映る。映像的には効果的な場所だからこそ、「組織」を配置したようだ。
「組織」とは、(1)社区(自治組織)などから動員された年配者ら(2)制服などを着た学生ボランティアたちのこと。こうしたメンバーのほか、地方から来た五輪観光旅行者たちが沿道を埋めていた。
特にスタート地点付近や、ゴールの国家体育場(鳥の巣)前の沿道では、およそ3分の2が動員・ボランティア応援の人々で占められていた。
このうち、動員組の応援の特徴は、社区などから配られた北京五輪の旗と中国国旗をもち、すべての選手に平等に声援を送る“文明的応援”を心掛けること。「警備」という役割もあった。胸におそろいのシールを張り、シールのない者が近づくと声を掛けていた。
西単の沿道にいた動員応援の男性(60)は、警備の厳しさについて「このくらいは普通。国際試合なんだから安全が第一」と話した。また、無職の女性(57)は「秩序だっていて、すばらしい応援!」と自画自賛していた。
ただ、年配者が多いだけに、中国選手の名前も知らない人がほとんどで、銅メダルの周春秀選手の名前を正確に言えた人は、30人中わずか1人だった。
組織のうち、ボランティア組の応援は治安維持も兼ねていたほか、疲れた様子で走る選手に「加油(がんばれ)!」と声などを掛けることも仕事だったようだ。中関村付近でリタイア寸前の土佐礼子選手にも、拍手と声援を送っていた。
外国人の応援はどうだったのか。沿道では、日の丸や英国国旗を掲げた外国人もちらほら見掛けたが、多くはなかった。
実は、外国の団体応援は公安当局に事前申請しなければならず、応援場所も限定され、隔離されていた。たとえば、北京在住日本人の応援団は36キロ地点の知春路地下鉄付近だった。
北京在住の日本人会社員は「やはり公安に許可を取らないと、安心して応援できない」と、中国流の応援方式にあきらめ顔だ。
天壇公園、北京大学、清華大学などの敷地内のコースからは、一般市民が排除された。大学構内のコースの応援は、学生か関係者に限られた。
マレーシアから五輪応援に来た男性(45)は「天壇公園の中に入ろうとしたら止められた。『中に入れるのは党幹部と動員応援団だけだ』といわれた」と不満そうに話した。
今回のマラソンのコースは、二重のさくに警官らが約20メートル間隔で立って警備に当たった。そして沿道の応援の中にも、動員された年配者や治安ボランティアたちが配置され、万が一に備える徹底ぶりだった。
大阪から来た日本人会社員(40)は、「盛り上がりに欠けますね。日本の場合は、もっとワイワイ騒ぐものなんですが…」と驚いた様子だった。
◆北京オリンピックに思うこと 8月5日 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2008/08/05_0958.php
今朝の新聞を読んだら、新彊ウイグル地区で爆弾テロがあった。
北京オリンピックは果たして無事に開催されるのであろうか。
毎日新聞に三ヶ月おきに書いている「水脈」という時事エッセイの締め切りなので、そのことについて書く。
北京オリンピックについては、二ヶ月ほど前にTBSの報道研究誌に寄稿を求められて、少し長めのものを書いたことがある。
あまり人目に触れる機会のない媒体であるから、その後半部分をここに転載しておく。
友人のビジネスマン平川克美くんは「中国人が北京オリンピックで失うものは、日本人が東京オリンピックで失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。私の実感もそれに近い。
中国の人々が北京オリンピックで失うものは私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。
こういう国家的イベントによって失われるものは「かたちのあるもの」ではない。むしろ、「かたちのないことが手柄であるようなもの」である。
日本の場合、それは「何となく風通しのよい敗戦国の脱力感」であった。中国の場合、それに相当するのは何だろうか。
考えてみたが、それは「貧しさとつきあう知恵」ではないかと思う。
端的に経済的に「金がない」ということではなく、貧しさを致命的なものとさせないための「生活の知恵」がこれまで中国にはあった。少なくともそのような「生活の知恵」が必須であることについての国民的合意はあった。
それが失われるのではないかと私は思っている。
「貧しさとつきあう生活の知恵」とは、「貧しさに対する共感」「貧しさに対する有責感」と言い換えることもできる。それは、貧しい人を見ていると、彼らを「私の同胞だ」と感じ、「偶然の幸運が私をそこから引き上げることがなければ、私もまたこのような赤貧のうちで苦しんだかもしれない」というしかたで想像力が働き出し、それゆえに、「この人たちを救う個人的な責務が自分にある」と感じることである。
もちろん、このような共感や有責感に実定的な根拠はない。なんとなくそう感じられるというだけのことである。けれども、貧しい人々がそれでも人間的尊厳を維持して生きるためには、この種の「錯覚」が国民的規模で根づいていることがどうしても必要である。
二十世紀の中国にはそのようなエートスが、少なくとも「そのようなエートスがなくてはすまされない」という考想がたしかにしっかりと存在していたと思う。魯迅や孫文や毛沢東が中国人に根づかせようとしたのは、そのような心性である。その歴史的実験はある程度の成功を収めた(そうでなければ、革命は成就しない)。
それが失われ始めた時期ははっきりしている。それは、ケ小平の「改革・開放」政策からである。ケ小平のこの政策を特徴づけるのは「先富論」という考え方である。
ある特定地域に資本と技術と労働者を集中させる。そこに経済活動の拠点ができ、そこに富が集中する。すると周囲の貧しい地域はその「余沢」に浴することができる。だから、まずどこかを誰かを突出させて富裕にすることが、全体が富裕になるための捷径である、というのが「先富論」の論理構成である。
みんなを貧乏でなくすためには、誰かひとりをまず金持ちにさせればよい、という考え方である。
不思議なロジックであるけれど、これは「中華思想」というイデオロギーから派生したものだから、実は中国人にとってはなじみがよい。
古来、中原には中華皇帝がいて、すべての権力と財貨と文化はそこに一極集中する。そこから「王化」の光があまねく「王土」に同心円的に拡がるのである(その外側には「化外の民」が蟠踞している)。
中華皇帝に一極的に集中されるリソースが巨大であればあるほど帝国の威信は高まり、結果的に皇民たちが享受できる「王化の恩沢」も増大する。だから、全員が文明を豊かに享受するためには、文明の精華を一人に集中させるのが効率的である、とするのが中華思想である。
繰り返し言うように私たちには理解のむずかしいロジックであるが、中国人は数千年来、この考え方に深く親和している。
毛沢東の「農村が都市を包囲する」革命論や「いま、ここ、私において、すべての知識と技術は体現されなければならない」という紅軍兵士論は、中国の歴史の中ではきわめて例外的なものだと私は思っている。孫文の三民主義から毛沢東の大躍進や文化大革命にかけての中国が「例外」だったのであり、ケ小平の改革開放論は清朝末期の洋化政策とほとんど地続きである。私はそう思っている。
先富論は中華思想の忠実な現代ヴァージョンである。だから、北京オリンピックもこの先富論の延長上に構想されている。
北京に国際社会が度肝を抜かれるようなハイパーモダンな都市を建設する。2008年時点で中国人が所有しうる最高に現代的なものを北京に集中させる。ハイパーモダンでない要素は「北京外」に掃き出す。
SF的想像をしてみるとわかるけれど、これは「西太后が北京オリンピックを主催した場合にしそうなこと」そのものである。
私たちは北京と北京外との文明的な落差を、ハイパーモダンな中国と前近代的な中国の悲しむべき位階差と理解するけれど、これは私たちの読み方が間違っているのである。そうではなくて、「2008年の北京」は全中国人がいずれ享受することになる物質的豊かさを先取りした予兆的な記号として読まれなければならない。少なくとも中華思想と中国政府当局は国民たちに事態をそう読むことを要請している。
北京オリンピックは沿海部に富を偏在させたケ小平の先富論のさらに昂進した形態、すなわち一極にすべての富と情報と文化資本を偏在させ、それによって中国全体の底上げを図る「ハイパー先富論」の実験である。
このアクロバティックな政略が果たして成功するのかどうか。私は懐疑的である。
ケ小平の先富論が成功したのは、一つには富が集中するエリアをかなり「広め」に取ったからであり、一つには、地方から都市に出て来て学歴を積み上げたり、ビジネスで成功したりした人々が「故郷に錦を飾る」という美風がまだ残っていたからである。それによって沿海部に偏った富は内陸部にも還流した。
けれども、「郷里に残された貧しい同胞」を救うことを動機づける「貧しさに対する共感」や「貧しさに対する有責感」は、「私もまたかつては貧しい人間であったし、これからも貧しい人間になることがありうる」という想像力なしには存立しない。ケ小平の時代までは、そのような想像がそれでもリアルだった。けれども、それから30年が経った。今の若い中国人の中に「私もまたかつては貧しい人間であったし、これからも貧しい人間になることがありうる」という想像力の使い方が身になじんだ人はもう昔ほど多くない。貧しさを一度も経験したことがなく、それを特別なことだと思っていない若い世代が急速にその数を増している。彼らに向かって、「貧しいものはあなたの同胞だ」と告げても、その言葉はあまり説得力を持たないだろう。その一方で、富を一極集中することの緊急性だけは国論として統一されている。
だが、こんなふうにして、「貧しさに対する共感」「貧しさに対する有責感」を涵養する教育的インフラを置き去りにしたまま、「富が一極に集中することはよいことだ」というメカニズムだけがひたすら昂進した場合、中国社会はどうなってしまうのであろう。
清末の洋化政策はみじめな失敗に終わった。それは、為政者たちには「強力で近代的な軍隊や社会的インフラを整備すること」の喫緊であることへの理解はあったが、それを動機づけたのが外国の侵略に苦しんでいる同胞の痛みへの共感や有責感ではなかったからである。彼らは「中華」の凋落を恐れただけである。だから中華は凋落した。
毛沢東がアヘン戦争以来100年の屈辱を晴らして、中国に国際的威信を回復させた事実は、その無数の失政を差し引いても評価されなければならない。そして、それを可能にしたのは、「貧しい同胞への愛と共感がすべての施策を動機づけなければならない」という原理を(実行されたかどうかは別として)毛沢東は譲らなかったからである。
先富論はたしかに原理的には効率的な分配のために構築されたメカニズムであった。私はその点ではケ小平の善意を信じている。けれども、「貧しさへの共感」「貧しさへの有責感」を失った先富論は効率的な収奪を正当化するイデオロギーに転化する。そのことの危険性に当代の中国の為政者たちはどれほど自覚的であるか。あまり自覚的ではないような気がする。
私が北京オリンピックについて感じる不安はこの「富の収奪と偏在を正当化するイデオロギー」の瀰漫に対してである。
北京オリンピックでは伝統的な街路である胡同(フートン)がそこの住民のライフスタイルこみで取り壊されたけれど、そのことに対する懐旧や同情の声は中国メディアではほとんど聴かれなかった。こんなふうにして、オリンピックを機に北京から中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素は一掃されるのであろう。けれども、それと同時に「中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素」に対する哀惜と懐旧の気分もまた一掃されるのだとしたら、私は中国人に対して、その拙速を咎めたいと思う。
私たち日本人もまたそんなふうにして、失うべきではないものを捨て値で売り払ってしまった。それがどれほどかけがえのないものであったのかを私たちは半世紀かけてゆっくり悔いている。
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ・・・そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に浸みて感じている。
私のこのつぶやきが隣国の人々に届くことはおそらくないだろう。けれども、北京オリンピックをビジネスチャンスや純然たる享楽の機会として心待ちにする日本人たちと、北京オリンピックによる中国の国威発揚がわが国の相対的な地位低下をもたらすことを恐怖して、オリンピックの失敗を祈っている日本人たちに立ち混じって、北京オリンピックが中国人にもたらすかもしれない災厄ができるだけ少ないことを祈っている日本人が少数ながら存在することを証言するために、寄稿依頼を奇貨としてここに書き記すのである。
(私のコメント)
昨日の北京オリンピックの女子マラソンを見ましたが、テレビに映し出された光景は想像されたとおりの光景が繰り広げられた。マラソンコースの沿道は妙に人が少なく完全に隔離された環境でのマラソンだった。武装警察官の数は妙に少なくこれで大丈夫かと思うほどだったのですが、動員された人だけなのだからアクシデントが起きる心配はないわけだ。
普通のオリンピックならば、マラソンは唯一入場券を買わなくても見られるのだから、どの大会でも沿道は黒山の人だかりになるはずだ。前回のアテネオリンピックでも妙な人が飛び出してブラジル選手の走りが妨害された。たとえ日本で行われたとしてもオリンピックのマラソンは特別だから妨害等のアクシデントは起きる可能性がある。だから沿道の警備は東京だろうが北京だろうが大変だ。
おそらく男子マラソンも同じように沿道は完全に隔離されて外国からの観光客でも事前に申請して、しかも場所も限定された場所でしか見られない。これくらい警備が万全ならば妨害やテロなどは100%無理だ。サッカーなどの競技場なども妙に中国の観客がおとなしくて礼儀正しいのが気にかかる。おそらくサッカーのアジアカップなどの例もあるので入場者は徹底した管理がされているのだろう。
IOCにとっても大会でアクシデントが起きれば責任問題になるから、中国の徹底した管理体制で行なわれることは好ましいものだろう。10万に近い収容人数のメイン会場でも観客が妙におとなしくて、オリンピック前の予想とは少し違うのですが、観客が荒れて騒ぎになる事はなさそうだ。
心配された天候や大気汚染なども無く青空が見られるようになった。テレビから見る印象としては新設された競技場もきれいで、競技の運営などもスムーズに行なわれて中国のイメージアップに大いに効果が上がっているように見える。現在の日本がオリンピックを行なってもこれほどの豪華で統制されたオリンピックは無理だろう。
中国は既に経済力では日本を上回り、中国は世界の工場となっている。だから北京や上海を始め都市整備が行なわれて超高層ビルが立ち並ぶ近代国家に変身したように見える。中国は共産主義国家でありながら資本主具を取り入れて、アメリカ以上の新自由主義経済を取り入れている。
だからいち早く事業に成功して億万長者になった者が続出して、高級外車を乗り回している人を日本のテレビはよく紹介する。この前もチベタン・マスティフの販売で成功した富豪が紹介されていましたが、まだ23歳で億万長者になれる社会が実現している。日本ではそのようなサクセス・ストーリーがほとんど見かけなくなってしまった。
しかし沿岸の都市部が経済発展してオリンピック景気に沸いていればいるほど、取り残された農村部や奥地の開発の遅れが目立つようになってしまった。ケ小平の改革開放政策は外資を大胆に導入して、なりふり構わぬ経済発展をすることで中国を近代化して均衡の取れた中国を目指すものだった。
しかし北京オリンピックで大盤振る舞いをして盛大なオリンピックを開催して、世界に近代国家中国をアピールすることは、従来の悪い中国の中華思想を甦らせてしまったような予感がする。これは毛沢東が目指してきた「貧しさに対する共感と有責感」の消失を思わせることになるのではないかと思う。
中国は核武装して有人宇宙船まで打ち上げてアメリカの後を追いかけている。国威発揚にばかりに無理をしている様子が手に取るようにわかりますが、国内の経済的な歪みは大きくなっていく一方だ。ケ小平が生きていれば有人宇宙船を打ち上げたりオリンピックを開いたりするような無駄な投資はせずに、遅れた地域へのインフラ整備に投資したことだろう。
中国は悪いタイミングでアメリカの持ち込んだ新自由主義経済に染まってしまって、豊かなものはより豊かになり貧しいものはより貧しくなって取り残されてしまうようなことが社会不安を巻き起こしてしまうだろう。日本でも小泉内閣が取り入れた新自由主義経済が無差別殺人事件や自殺を多発させる不安定社会を形成してしまった。
戦後の日本は先進国型の社会主義経済国家と言われるほどだったのに、税制や規制緩和をして自由競争が過熱してしまってワーキングプアーや非正規雇用が広がってしまって、いつまでも豊かになれない国民を生み出している。しかし中国に比べればましなほうであり、中国は貧しい農村部が取り残されて暴動騒ぎが年間8万件も発生している。
内田樹しによれば先富論は中華思想と馴染みやすい思想であると指摘している。しかし中華思想は戦前の洋化政策を失敗させた原因となっている。清朝末期においても中国は大国であり洋化政策によって軍隊の近代化もインフラ整備も行なわれていたが、貧しき民への政策は行なわれず洋化政策は失敗した。
北京オリンピックも一般の国民とは隔離された状況で行なわれており、満員の大スタジアムも動員されたものらしい。内田氏が言うように西太后が北京オリンピックを開催しても完璧に管理されたオリンピックが開かれていることだろう。そして北京にふさわしくないものは全て壊されて、好ましくない貧民は北京から追い出されている。
だから北京オリンピックが完璧に開催されればされるほど先富論が正当化されて、中華思想が正当化されることになるだろう。新自由主義経済では貧しきものは無能か怠け者であり、成功者は有能で勤勉だからと言う論理で格差社会は正当化されてしまう。
昨日の女子マラソンを見て、あまり見も従来の北京の印象とは違うので違和感を感じてしまうのですが、地元の人もマラソンの応援に出れないと言うような光景はちょっと異様だ。数年前のサッカーのアジアカップで荒れ狂った民衆はどこへ行ったのだろうか?