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(回答先: <なぜ中村美里選手が負けになるのだ!>柔道女子52s級準決勝(三流読書人) 投稿者 gataro 日時 2008 年 8 月 12 日 11:15:13)
「日本国内でも、JUDOの競技会と「柔道」の競技会は別に開催する様にすれば良いのです。」というのは文中のコトバだが、この文章の主旨かどうかは分からない。たけ(tk)の意見なので、タイトルとした。
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http://ysaki777.iza.ne.jp/blog/entry/297474
今回の話(※)は、柔道が国際化した事によるジレンマとも言えるでしょう。発祥の国の競技として重視すべきものが無視または軽視される事はある国の歴史的文化的な見方や美学を反映していた競技から、文化や美学が蒸発していき、ついには、純粋な競技として明確に書かれたルールを元に発展していく場合には必ずついて回る問題点と言えます。
※:たけ(tk)注、2007/9/11 頃の「国際柔道連盟(IJF)は10日、ブラジルのリオデジャネイロで総会を開き役員を改選、教育・コーチング理事の再選を目指した山下泰裕氏(50)が落選した。IJFの執行部から日本人がいなくなったのは、1952年に日本が加盟して以来初めてで、世界の柔道界での影響力の低下が懸念され。」という記事
IJFに日本人がいなくなる事は、ルール改正が国際競技としてのJUDOの普及、発展のみを考慮して行われる事を加速しこそすれ、それが逆になる事はありません。
現代のスポーツの流れを考えればテニス、サッカーに見る様に、スポーツのショー化、商業化は避ける事の出来ない潮流になっています。その意味で、どうしても柔道が日本固有の武道であるという意識を頭に残した日本人は、見方を変えればアナクロニズムの信奉者という謗りを免れる事が出来ないのかも知れません。
オリンピック競技としてのJUDOと日本古来の(と言っても近代柔道は120年程の歴史になりますが)武道としての「柔道」は、違ったものになったと理解すべきではないかと思います。JUDOwareと柔道着が別物になりつつあるのですからそう考えた方が実情を反映しています。
日本国内でも、JUDOの競技会と「柔道」の競技会は別に開催する様にすれば良いのです。選手には、JUDOと「柔道」両方への参加を自由し、競技ルールは各々異なる様にするのです。つまりJUDOでは、階級別ポイント制とし、「柔道」では無差別一本制とする様な形です。
最初は違和感があるかも知れませんが、「柔道」を守ろうとするならば、そうならざるを得ません。
他の競技にはこの好例があります。例えば、今日、オリンピック競技のテコンドーと空手は別の競技と認識されています。しかし、韓国こそ、テコンドーは高麗時代からの韓国固有の競技と言っていますが、実際には、戦後、沖縄空手から発展した競技にすぎません。元々は同じ競技であったものが、現在では、別のスポーツとして発展しているのです。
更に、柔道と同じく武道として発展した剣道が、国際的にも一定の愛好者がいるにもかかわらず、スポーツ競技化を拒み、オリンピック競技への道を拒否しているのは、柔道とは好対照と言えます。
剣道は、日本文化と美学を維持していけるかも知れませんが、その替わりに国際競技としての発展の道を自ら閉ざしており、海外の剣道愛好家を事実上放棄している事も指摘せざるを得ません。実際、各国ではオリンピック競技になる事で、学校の課外活動の対象になったり、スポーツ振興資金が得られる様になる事が多いので、海外の剣道愛好家からは、剣道のオリンピック競技化が望まれているのです。
この点を突いて、韓国が剣道をコムドという名前で、韓国発祥の競技として、オリンピック競技化を働きかけています。もし、これが実現すれば、海外の剣道愛好家は一斉にコムド競技者に転向すると考えられています。(これは、一時盛んであった海外の空手道場がいまや殆どがテコンドー道場に変わっている事からも容易に類推できます。)
柔道にせよ、空手にせよ、剣道にせよ、日本固有の文化・美学を残したまま、競技の国際化を行う事は不可能と言えます。その意味で、IJFから日本人理事がいなくなった事は、JUDO国際化が新たな発展段階を迎えたものと積極的に捉え、それへの実際的な対応を考えるべきではないかと考えます。
そうでなければ、日本の「柔道」はフランケンシュタインの怪物に成長したJUDOによって飲み込まれてしまうのかも知れません。