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06/09/2008
第278号 ダライ・ラマの言葉と現実
>>日々通信 いまを生きる 第278号 2008年6月10日<<
発行者 伊豆利彦
ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
ダライ・ラマの言葉と現実
チベット問題で揺れた中国は、今度は想像を超えた大地震で大揺れだ。震源地の四川省ブン川やその周辺はチベット族、チャン族の自治区で、アバ地区は僧たちが民家や店舗に投石放火して軍に鎮圧され、その記事が東京新聞(2008年3月19日)に掲載されていた。チベット問題についての報道がイデオロギー的偏向が目立つなかで比較的客観的なように思われるので、この事件の真相を知る上で参考になるのではないかと「日々通信」275号
http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2008/04/275_4b41.htmlに紹介した地域である。この地域が大震災で大きな被害を受け、その救援活動の様子が大きく報道された。
人民軍をはじめとする政府機関だけでなく、義援金を集める子どもたちまで一般国民の献身的な救援活動は、被害者住民だけでなく、周辺のチベット族やチャン族住民からも大きな共感ト感謝をもって迎えられたと思う。政府機関の対策の遅れを批判する声も少数民族の中国政府に対する期待の現れであり、中国人意識の高まりを示すものだと思う。
3月の暴動、聖火リレー妨害などで極度に悪化したように見えたダライ・ラマと中国政府関係は、両者の対話もはじまって改善の可能性が開けたよに見えるが、この災害に対する中国政府ならびに中国人民の献身的な救援活動は、中国人の国民意識を強め、対話の前途に明るい展望ヲ開くのではないか。
元来、ダライ・ラマは暴力活動に強く反対し、自分たちの運動は独立をもとめるものでなく、武力による人権弾圧に反対し、文化的宗教的活動の自由をもとめるものだと強調して、繰り返し対話を求めていた。「チベットに自由を」と叫ぶ国際的な運動の拡大には、反中国キャンペーン謀略の匂いもあるが、中国政府にも大きな影響をあたえ、両者の対話の前途に希望をもたらしたと思う。両者の信頼関係を深め、新しい関係を開くことを期待する。
中国政府側はダライ・ラマは言葉は美しいが行動は醜いという。非暴力を強調し、中国の暴力による弾圧、虐殺を攻撃するダライ・ラマはアメリカのCIAと結びつき、反中国活動の拠点にされた。また、ダライ・ラマのもとに結集する青年僧侶たちがしばしば暴力的行動に走った。今度の武力弾圧も、そのきっかけは僧侶たちの民家や商店に対する投石・放火だった。オリンピックで世界の注目が集まっている時を狙っての挑発行動だったといわれても仕方ないが、海外メディアはひたすら中国に対する非難に集中し、ことのきっかけは無視されがちだった。こうしたメディアの反中国的動向が、メディアに対する中国の閉鎖性を強めた。今度の災害が中国の開放性を強めるなら、それはあたらしい展望を開くことになる。
体調が悪くてぐずぐず時を過ごすうちに早くも6月になり、梅雨となった。私としては死ぬ前に多喜二論と漱石論をまとめておきたいのだが、一度はじめた日日通信も、世界の動きが気になってやめられない。ことに最近はダライ・ラマの思想に興味を持ち、ダライ・ラマを通して漱石の思想を新しく発見しなおす思いがしている。ダライ・ラマは近代の矛盾、その暗黒を鋭く照射しているので、フランスなどでは大変に歓迎されたらしい。しかし「ダライ・ラマ」というのは個人の固有名詞ではなく、日本でいえば天皇にあたるような宗教と政治を統合する特別な地位をあらわす。決して一思想家にとどまるものではなく、そのためにその政治責任が問われることになる。ダライ・ラマと青年僧たちの関係は日本の天皇と右翼青年将校たちとの関係にも似ていて、天皇の個人的思想のゆえに戦争責任をまぬがれないのと同様だろう。問題なのは天皇制という制度であり、チベットでは「ダライ・ラマ」制という政治・宗教制度にあると思う。
金銭万能の能率主義社会を批判するダライ・ラマの中国批判には聞くべきことも多いが、それはまた、現実を誇張し、歪曲する偏見をまぬがれない。これはまた中国側にもいえることだと思う。双方が相手を敵視し、対立意識に駆り立てられている現状では仕方のないことだが、自己を絶対化し相手を全否定する状態では対話は成立しない。対話が成立するためには相互に相手を認めあうことが必要だ。ダライ・ラマは言葉では自分が偏見に満ちていることを強調するが、対中国,ではひたすら中国非難に没頭していて、対話の条件を欠いている。これは中国側も同様で、ダライ・ラマを悪の権化として罵倒するのなら対話は成立しない。
一神論の西欧のキリスト教やムスリム教、そして社会主義と違って仏教のダライ・ラマは多元的であり真理の相対性を強調する。これが対話と平和共存の基盤になるはずだが、思想的にはそうでも現実にはどうなるか。漱石は英国へ赴く船中でキリスト教に対する東洋の空と無の思想の優位性を英文で下記認め、キリスト教への執拗な改宗勧誘を退けた。ダライ・ラマの場合、単に宗教者、思想家にとどまらず、政治との関わりが強い「ダライ・ラマ」という位置が問題を複雑にし、困難にしている。
これまで日本ではダライ・ラマについて論じられることが少なかった。私は上田紀行氏の著書に触発されてダライ・ラマ自伝や関連著書を読み始め、その思想に共鳴するところが多かった。しかし、同時にいかにも観念的でトリックに満ちた詭弁にも気づかされた。ダライ・ラマが政治にもかかわる存在である以上、そのことばだけを信じるわけにはいかない。今後、漱石との関連で少しずつ究明していきたい。
梅雨時で不順な気候が続きます。お体に気をつけてお過ごしください。
伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/