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アカデミー賞「おくりびと」は、元々は海外マーケットなんてことを意識せず、海外の映画祭なんてのも考えずに作られたのであろう
http://www.asyura2.com/08/bun1/msg/361.html
投稿者 TORA 日時 2009 年 2 月 26 日 15:33:58: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu186.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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アカデミー賞受賞 「おくりびと」は、元々は海外マーケットなんてことを
意識せず、海外の映画祭なんてのも考えずに作られたのであろう。

2009年2月26日 木曜日

◆広末涼子 Ryoko Hirosue - おくりびと 予告篇
http://www.youtube.com/watch?v=E_z0_MLvwvw

◆「おくりびと」(滝田洋二郎) 撮影監督の映画批評
http://pointbreak.blog66.fc2.com/blog-entry-195.html

オープニング、厳かな空気に包まれるなか、自ら命を絶ったらしいまだ若い女性の遺体と対面する大悟(本木雅弘)は、「美しいのに」とひとりごつ。その言葉を受けるように佐々木(山崎努)が一言「やってみるか」と声をかける。
 この佐々木の一言が一瞬ネクロフィリアじみて聞こえもするのだが、「はい」と答え粛然と納棺の儀式をすすめる大悟を目にして、不謹慎な考えだったと慌てて撤回する仕儀に。
 しかし、粛々と作業を続ける大悟の手が止まり、ないはずのものがあることを認めると、一気に下世話な雰囲気になる。前言撤回の撤回。「やってみるか」の一言に躓くのは、つづくオチへの目配せになっているからであった。

 オープニングの後、時は遡りそこに至るまでの経緯を描いていくことになる。大悟は迷いながらも納棺師としてやっていくことを決意し、オープニングのシーンに追いつき、それがリフレインされる。
 その契機となるのが「やってみるか」の一言である。
 もはやオープニングにあった躓きはない。
 オープニングにあった笑いの要素は省かれ、納棺師として成長した大悟の所作のみが描かれる。続くオチも、ニューハーフゆえの夫婦喧嘩ではなく、ニューハーフゆえに生前はまともに見ることのできなかった息子の顔をおかげで見ることができたという父親の感慨に変わっている。
 この全く同じシーンを、オープニングとは全く別ものにしているのは何か?
 それは、(それゆえオープニングなのだが)オープニングにはなかったこのシーンに至るまでに積み重ねられてきたシーンであり、その記憶である。
 あるいは、ニューハーフというダブルミーニング、遺体(死/体)という不在(死)の存在(体)が両義性の中心にあると言ってもいいのかもしれない

 意味を変え繰り返されるのは、これだけではない。
 妻の美香(広末涼子)が大悟の仕事を受け入れるのは、銭湯のおばちゃん(吉行和子)が亡くなり、その納棺の儀を勤める大悟を目の当たりに見るからだ。
 なぜ見ることがそれほどの説得力を持ち得るのか?
 それは正確に、大悟が佐々木のそれを見て納棺師になることを決意した眼差しに重なるからである。
 またラストでは、大悟が自らの手で実父に施す姿を、再び美香が見つめる。この美香の眼差しが、もしこの場になかったならば、これだけの感動もないだろう。なぜなら以前の眼差しとは、その意味を変えているのだから。
 そしてあのフラッシュバックも繰り返される、今度は像を結んで。
 納棺の儀を経て初めて、父親の顔を見ることができるのは、ニューハーフの息子の顔をようやく見ることができたと語った父親と重なる。
 
 繰り返されるものには、一度目の記憶(とそれ以降の記憶)が付着している。


◆『おくりびと』これは世界に通じる日本の良心といえる作品 9月16日 LACROIXのちょっと辛口 映画批評
http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20080916/p1

●前評判の高さは嘘ではなかった。非常にバランスよくまとまった良作である。

●本木、山崎、杉本、余、笹野と登場人物を演ずる役者の演技力が格段である。(広末は・・・・後述)

●死者の納竿前の最後の姿を飾り付ける納棺師の話しと聞いていて、しごく厳格なストーリーなのではないかと想像していたら、最初からちょっとオフザケっぽいジョークが入る。「これってなんだか話しにそぐわないな」「死というものをテーマに扱っているのに、こういう冗談はどうなのだろう? ちょっと不謹慎な感じだ」と思ってしまったのだが、そうではなかった。途中途中に含まれるお笑いは、納棺の前の飾り付けの”儀式”をより際立たせていた。もう動かなくなってしまった人にも、それぞれの生き方と人生があった、それを面白可笑しく見せてくれるお陰で、死んでしまった人への悲しみ、哀悼感がより深く心に染み込んで来た。楽しかった人生、可笑しかった人生、ヘンテコだった人生、それぞれの人生が終わってしまったんだなという悲しみが笑いと共に涙になってこぼれ落ちてきた。

●死というものを厳格に捉えただけの映画であったら息苦しく、見るのが辛かっただろう。それをこの作品では笑いを織り交ぜることで人生の最後の儀式に、優しさのベールを掛けて柔らかく包んでくれている。

●そしてこんなテーマの映画に、映画としての娯楽性までをも内包させている。なかなかだ。

●死というものは、日本であろうが、アジアであろうが、ヨーロッパであろうが、アメリカであろうが、普遍的な真理として存在する。国や宗教、文化の違いを越えて共通する絶対的な事実である。その死を日本という国の文化がこれだけ尊厳灼かに取り扱い、火葬される前の死人に生前と変わらぬ姿の化粧を施し、穢らわしさではなく、尊さを纏わせて送り出す。その行為に、世界中の人々は我々日本人と同じく、胸を打たれ、厳粛な気持ちとなり、心に感動の波を漂わせるであろう。日本は特異なカルチャーの国として外国から捉えられている。だが、この納棺師の仕事は日本という国にある一つの特殊な文化として捉えられたとしても、万国の万人に厳かで神聖な儀式として心して受入れられるであろう。その儀式を取り上げたこの作品は日本人として誇りをもって多くの国の多くの人に紹介したい一作である。

●納棺師や人の死という大きなモチーフの他に、親と子、父親と息子という家族の葛藤の描写も見落とすわけにはいかない重要な話しになっている。店の若い女といい仲になって、妻も子供も捨てて出ていった父親が、たった一人で身寄りもなく死を迎える。その最後の姿を生前のごとく美しく仕上げるのが捨てられた子供。途中から殆ど見え透いていた思った通りの展開ではあるが、やはり泣けてくる。結局映画、小説も、最後に辿り着くのは親と子、家族という部分だ。それこそが人間が生を営む上での最も大切な関係であるのだから。

●ストーリー展開での前振りや伏線となるエピソードはあまりに単純すぎて、それが後でこうなるんだろうなぁという予想が意図も簡単に出来てしまう、その位ちょっと話しの組み方としては単純、下手くそなのではあるのだが、伏線から繋がるオチを実際に観てしまうと、やっぱり涙が零れてくる。いいシーンが非常に多い。オフザケのエピソードや、人間の感情に振り回されたゴタゴタで、うーんと思っても、本木と山崎の二人が死者と家族の前で死体の体を拭き、顔を美しく整えて行く姿をみると、その度にジーンとくる。この二人の名演も見物だ。

●PRの予告編で広末が「穢らわしイ、ィ!」と言ってるシーンを見たとき、なんで広末なんかを使うんだろうなぁ、もっと他にぴったりの役者はいっぱいいるだろうに。もう広末は人を呼べるような役者じゃないんだから・・・・なんて思っていた。どこのどんな映画に出ても、いつも同じ演技しかできなくて、没個性。役柄は大きく違うのに、同じ喋り方と同じイントネーションと同じ顔つき、同じ唇の窄めた顔、唇を引き攣らせて横に延ばした顔しか出来ない広末に、こういった真剣な作品の役をやらせたら雰囲気が丸潰れになってしまうじゃないかと・・・。

●最初っから10代の頃と変わりないあの唇を横に引っ張ったような笑い方で出てきて、10代の頃と変わらない喋り方で、10代の頃と変わらない態とらしい笑顔で広末が出てきたとき「うわ、やっぱりダメだこれは、絶対にキャスティングが間違っている」「監督もなんでいつまでも同じなこの演技を修正しようとしないんだよ」と思ったのだが、広末を取り囲む名演技をする役者達との絡みを見ていたら、広末以外が実に演技が巧いもんだから、なんとか絡んでいる広末も見れるようになってきた。そして銭湯のおばさんの納棺の時、オバサンの家族と一緒に並んで納棺の儀を見ている広末は、ようやくなかなかまともな顔になって見えた。この映画に唯一つ危惧していたのは広末がせっかくの良い雰囲気をぶち壊してしまうんじゃないか?ということだったが、今回はなんとかなった。いや、ギリギリセーフのちょっと上くらいのところにはあった。相変わらず演技にバリエーションも幅もなく、画一的なキャラを一つしか演じられない広末だが、少しは成長した感じか。広末はもっと歳をとって50歳、60歳位になれば可愛いおばあちゃんというキャラでうまくいきそうな気がするけれど、今の段階ではやっぱりかなり苦しい。

●クリスマスに関するエピソードが二回出てくる。日本という国の、別にキリスト教を信奉しているわけでもない人が、クリスマスのお祝いをし、チキンフライを食べているシーン。銭湯の番台を守っていた山下ツヤコ(吉川和子)が火葬されるとき、その銭湯の常連であり、火葬場の職員であった老人の平田(笹野高史)が、ツヤコに頼まれてささやかなクリスマスパーティーをしたと息子に打ち明けるシーン。日本人にとってクリスマスとは宗教と全く切り離されたイベントであり、愛を語る日のようになってしまっているから、こういうエピソードになんら違和感を覚えないのかもしれないが、本来キリストの生誕を祝うお祝いの日であり、キリスト教を信奉する国の人がこのエピソードを見ると、ちょっと”?????”と思うのではないだろうか?

●どこぞの監督のように最初から海外を意識して作っているなら、ここまで日本式の葬儀の様子を描写しておいて、それと同時にクリスマスの話しというのはたぶん修正されたであろう。元々は海外マーケットなんてことを意識せず、海外の映画祭なんてのも考えず、日本での公開ということで作られたのであろう。それがモントリオール映画祭でグランプリ!ということは映画祭の選考委員も、日本の納棺の儀式の話しと、クリスマスの話しのちぐはぐさはあまり気にしていないということか? それともやっぱりその宗教儀式がごっちゃになった奇妙さが日本文化の興味深さと思ったのか? 

●まあ、苦言も呈しているが、着物を着てタップダンスを踊るような映画よりはよっぽどマシである。

●今のところ「歩いても、歩いても」に次ぐ、本年の邦画では二番目の良さである。


(私のコメント)
私はまだこの映画を見てはいないのですが、伊丹十三監督の「お葬式」のような映画なのだろうと思う。映画評論家もこの映画を絶賛していたし、アカデミー外国語賞を始めてとったという事は記念すべき映画だ。しかしアメリカ人好みの派手なアクション映画でもなければ、社会問題を深くえぐった映画でもない。だから受賞は難しいのではないかと予想していた。

私は映画評論家でもないし、「株式日記」は映画サイトでもないのですが、アメリカの映画を見ればアメリカが衰退しつつある国家である事が分かる。70年代頃まではハリウッド映画は優れた作品が多かったのですが、最近ではどんな映画がアカデミー賞を取ったのかもわからないくらいハリウッド映画は低迷している。

先週はテレビでジャック・ニコルソン主演の「カッコウの巣の上で」をNHKハイビジョンで放送していましたが、1975年のアメリカ映画だ。夜遅い放送なので録画してみるつもりでしたが、つい見入ってしまって最後まで見てしまった。75年度のアカデミー賞5部門を独占した映画で、ジャック・ニコルソンの演技力はすばらしい。

ストーリーは刑務所の重労働を嫌ったジャックが精神病の仮病を使って精神病院に入院するのですが、管理社会の化身のような看護婦長と対立して最後にはロボトミー手術を受けて廃人になってしまうという映画だ。ジャック自身はアメリカなら何処にでもいるやんちゃ坊主がそのまま大人になったような人物で、精神病院内で縦横無尽な勝手な振る舞いをする。

しかし精神病とはいえないので刑務所に送り返されようとするのですが、看護婦長はそれに反対をする。ジャックはヤクザ者ではあるのですが人間的魅力があり、周りの精神病患者を元気づけて病気を回復させていく。精神病はアメリカという管理社会が生み出したものであり、その結果心を病んだ人が出てくるのですが、ジャックの天真爛漫な行動が患者たちを元気づけて行く。

皮肉な言い方をすれば、自由奔放なジャックと、管理社会の権化のような看護婦長と、どちらが異常なのか分からなくなるのですが、現代のアメリカもイラクに戦争を仕掛けたり、アフガニスタンに兵力を増強したりと、テロとの戦いと言いながらアメリカ自身が一番のテロリストだ。70年代頃までのアメリカ映画にはこのような体制批判的な映画もあったのですが、今は星条旗はためく愛国映画ばかりだ。それだけアメリカは自信を喪失しかけているのであり、冷静に自分を見つめるゆとりを無くしている。

「おくりびと」や短編アニメの「つみきのいえ」がアカデミー賞を取ったので、日本のテレビは朝から晩まで大騒ぎですが、日本の作品が受賞やノミネートされなければアカデミー賞は単なるアメリカの映画祭に過ぎなかっただろう。去年のアカデミー賞の映画の題名をあげられる人はよほどの映画マニアだ。

なぜハリウッド映画がこれほど低迷してしまったのかは、簡単に言えば面白くないからですが、投資ファンドが映画製作に口を出すようになって金儲け第一主義になり、確実に当たる作品を要求するようになり、それがハリウッド映画をつまらなくしている原因だ。もちろん映画ファンドは確かに合理的だが、映画製作の中にまで口を出してくるようになり、どうしてもシリーズものになってしまう。

アメリカの金融破綻は証券化ビジネスの欠陥が招いたものであり、リスクを転売してしまえばモラルハザードが起きてサブプライムローンのような詐欺的商品まで生まれる事になる。映画ファンドも同じであり、映画製作のリスクを投資家が負うのならば、映画製作者はリスクを負わずに映画を作るようになり、短期間に惰性的に作られた映画が多くなる。

日本でも映画ファンドが作られて、幾つかの作品が作られましたがいずれもヒットせず映画ファンドは解散した。ハリウッド映画が堕落したのもウォール街の連中が金儲けのために映画を作るようになったからであり、素人のファンドマネージャーに映画という芸術作品が分かるはずが無いのだ。中には映画が失敗した時の保険まで出来ているのだから呆れる。

ではどうしたらいい映画が出来るのだろうか? 「おくりびと」はTBSが幹事になった製作委員会が出資して作っていますが、邦画が比較的元気なのはテレビ局が積極的に映画製作に乗り出しているからだろう。テレビ局は普段からテレビドラマなどを制作しているし、ヒットシリーズの映画化で儲けるシステムを完成させたからだろう。

100億円以上のヒットなった「踊る大捜査線」も元はテレビドラマのヒットシリーズだった。古くは「男はつらいよ」シリーズも元はテレビドラマだった。テレビでヒットしたシリーズドラマを映画化すれば当たる確率は高い。テレビ局はくだらないドラマを大量に制作していますが、どのようなドラマを作れば当たるかを試行錯誤してる。

アメリカでもヒットしたテレビドラマの映画化などされていますが、数は少ない。アメリカはもともと映画会社がテレビドラマを作っていた。アメリカではテレビ局によるコンテンツの製作が禁じられており、日本のようにテレビ局が自らのヒットシリーズを映画化するようなシステムになっていない。それだけハリウッド映画界の力が大きいのでしょうが、放送局と番組制作とがはっきりと分かれている。


◆テレビドラマの収益チャンネル(日本、アメリカ、韓国) 2007年11月13日 よしなしごと
http://d.hatena.ne.jp/crimsonstarroad/20071113/1194944666

アメリカでは、テレビ局による放送コンテンツの製作が禁じられている。テレビドラマは、基本的に映画製作会社が製作し、その作品から得られる収益を最大化するために流通チャネルが選択されることになる。

その結果として、始めにネットワーク局で放送した後、ビデオソフトや再放送市場での販売、インターネット配信など収益が得られる場に積極的な展開が行われる。

一方、日本では、テレビ局が放送するためにテレビドラマを製作する。

テレビ局の広告収入を最大化するために番組製作がなされるため、その後の利用についてはあまり考えられていない。作品を他メディアで展開するとテレビの視聴率が下がるといった(テレビ局にとっての)悪影響が懸念されるために、他の流通チャネルでの展開も積極的には行われない。元々二次利用が考えられていないために過去作品については権利処理ができていないという面も上げられるが、ここ数年の作品を見てもインターネットやケーブルテレビでの展開は行われていない。

最近では、大型コンテンツの映画化という展開がなされている。映画は劇場(=お茶の間の外)における流通コンテンツであり、その後テレビ放送ができる。つまり、テレビとはバッティングせずマイナス面がないこともあって、積極的な展開がなされていると見ることもできる。アメリカではテレビドラマの映画化は例外的なことであり、日本独自の動向といえる。

(私のコメント)
昔は映画といえばほとんどが洋画であり、邦画は映画ファンの対象外だった。ところが最近では邦画の方が興行成績が上回ってきている。邦画しか映画を見ないと言う映画ファンも出てきていますが、その原因は何なのだろうか? 日本ではテレビドラマの製作手法が映画に進出して行きましたが、アメリカでは映画会社がテレビドラマを作っている。

「おくりびと」はTBSが製作委員会に加わっていますが、TBSが加わった事で映画製作が出来たという事です。このように日本ではテレビ局が著作権を持っているからインターネットなどの二次使用が遅れている。ネットでテレビドラマや映画が放送されたらテレビ局は商売にさしつかえる。アメリカでは放送局と番組制作会社が別れているから作品の二次使用が盛んだ。

去年最も興行成績を上げた「崖の上のポニョ」も日本テレビが参加しており、テレビ局と映画製作とは切っても切れない関係が出来ている。もしテレビ局が映画に参加していなければ邦画はどうなっていただろうか? 日本方式とアメリカ方式とどちらがいいか分かりませんが、「おくりびと」のような映画が出来た裏にはテレビ局が大きく関与している。だからもともと海外で公開されることなど考慮されていない。それがアカデミー賞など海外の賞も沢山取っているのだから不思議だ。


 

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