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私の本棚には、日ユ同祖論関係の本として、『「ユダヤと日本・謎の古代史」M・トケィヤー著 産能大学出版部刊』がある。
この本をお読みの方および、【ヘブライの館 2THE HEXAGON 3F古代ヘブライ研究室】(古代ヘブライ人の活躍や日ユ同祖論などを探究)
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F/_floorA3F.html
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html
をお読みの方には大半が語りつくされた内容も多いのだが、幾つか新たなことも書いてあった。その部分を少し紹介したい。
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P36.37
平安京の造成には、秦氏の尽力があったとされているのである。つまり、平安京は秦氏によって造られた都ということになる。
秦氏となったユダヤ人の国はイスラエル。その国の首都はエルサレムである。エルサレムは途中他国の支配下に置かれるものの、三千年前から現在に至るまでユダヤ人にとっての永遠の都である。
そのエルサレムをヘブライ語の発音では「イェルシャライム」という。これは、市や都を意味する「イール」と、平安を意味する「シャローム」が一つになってできた言葉である。つまり、「イール・シャローム一エルサレム)」を日本語に訳すと、「平安京」なのである。
少し話はそれるが、平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。イスラエルのエルサレムから少し北上すると、「キネレット湖」とよばれる湖がある。この湖は「ガリラヤ湖」ともよばれ、イエス・キリストが福音を伝えた場所として知られる場所である。
このヘブライ語の「キネレット」を訳すと楽器の「琵琶」や「竪琴」を意味する。つまり「キネレット湖」とは「琵琶湖」なのである。
平安京に住むユダヤ系の秦氏が近くにある湖を見て、祖国の湖を思い出し、同じ名前をつけたのだろうか?・
太秦に残るユダヤ人の足跡
秦氏の拠点があった京都太秦だが、「ウズマサ」という名前からして変わっている。関西人でもなければ、なかなか普通に「太秦」を「ウズマサ」と呼ぶのは難しい。太秦の名前の由来については、秦氏の研究の権威であられる佐伯好郎教授などによって、ヘブライ語説やヘブライ語の方言であるアラム語説等が指摘されている。
実際、私のイスラエル人の友人等によると、これはヘブライ語の「ウズ・マシアッハ」が変形して「ウズマサ」になったのではないか、という。
ヘブライ語の「ウズ」は、力とか栄光といった意味がある。そして「マシアッハ」は日本語でいうメシア、救い主の意味なのである。
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「イセ」とは「神の救い」? p100
大変興味深いのは、伊勢という地名だ。ユダヤ人の研究家であるヨセフ.アイデルバーグ氏によると、この「イセ」という言葉は、「神の救い」を表す「イェシュ」もしくは「イェシュア」から派生したヘブライ語だ、というのだ。
イエス・キリスドのイエスももともとはヘブライ語の「イェシュ」から派生した一言葉である。つまりイエスにも「神の救い」という意味がある。現在、イエスという名は世界各地で「イセ」や「イサ」というふうに呼ばれている。
つまり伊勢神宮の「イセ」という言葉は「神の救い」というヘブライ語の可能性もあるのだ。
そう言えば・伊勢神宮の神域を流れる川を「五十鈴川」というが、古来の呼び方は「イスズ川レでなく「イスス川」と呼んだそうだ。この「イスス」という名前も「イエス」を連想させる響きがある。イスス川では千年にもわたつて禊が行なわれている
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蘇民将来と過越祭P126
本章のはじめに触れた「祓園祭」は平安時代に疫病が流行し、その崇りを鎮めるためにスサノオノミコトを祀ったことに由来している。それでは皆さんは「蘇民将来子孫家門」と書かれた門符をつけた注連飾りを見たことがあるだろうか。これはその昔、突然訪れたスサノオノミコトに貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が一夜の宿を貸した。スサノオノミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残したという話に曲来しており、今も蘇民の子孫である証拠とした門符をかけるという。伊勢地方では正月だけでなく、この注連飾りを一年中かけたままにして、一年の無病息災を祈願しているという。
実はこの「蘇民将来」の伝説は、イスラエルの「過越祭」と内容が非常によく似ているのだ。
「過越祭」はイスラエルの民がエジブトで奴隷となって苦しめられていた時、神がモーセに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因する。その神の救いを記念して「過越祭」が行なわれている。
この「蘇民」という言葉は、「民を蘇らせる」という意味だ。過越しの故事は、奴隷状態で死んだような状態だったイスラエルの民の蘇りの祭でもある。つまりこの蘇民将来という言葉そのものが、過越しから始まる出エジプトの奇跡を思い起こさせるのだ。
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古代イスラエルの礼拝所 p144〜146
コーヘン氏が徳島を視察された中で、いくつかユダヤ人が彼の地に辿り着いたと思われる史跡があったという。中でもコーヘン氏が特に驚かれたのは、剣山の側にある古代礼拝い所磐境神明神社である。
私たちは普通、神社といえば社殿のような木造建築の礼拝所を想像する。しかし白人神社の礼拝所は、すべて石造りの古代遺跡なのである。そこに石を積み上げた東西約二二.五メートル、南北約七・三メートルの長方形の形をした礼拝所の磐境がある。
そこを訪れたコーヘン氏は、古代イスラエルの礼拝所かと思ったそうである。この磐境は、イスラエルにある古代ユダヤ教の礼拝所のアラッドなどとそっくりだからだ。そして子羊などの婚祭を捧げた祭壇を思わせるというのだ。
そして礼拝所の礼拝する方向を見ると、目の前に山があった。それもユダヤの伝統的な礼拝方法と同じであるということである。
タナフには次のような言葉がある。
わたしは山に向かって目をあげる
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を創られた主からくる。
(テヒリーム121・1〜2)
このように、古代イスラエルにおいては、山に向かって神に祈りを捧げ、神からの助けを仰いだことがわかる。コーヘン氏によると、古代のユダヤの礼拝所の側には必ず山があり、その山の方に向かって礼拝していた、というのだ。
そして驚くことに、二千年以上前にこの礼拝所の祭壇を築いたといわれる七十五人の宮人の子孫が、現在でも氏子としてこの神社を守っているのだ。この七十五人の氏子の人たちは、身を汚さないために、生涯汚れた仕事をしてはならない。彼らこそがイスラエルの礼拝を司っていた、レビ族の末蕎なのだろうか。神殿に仕えていた彼らレビ族は高貴な人々で、日本でいうならば皇室にお仕えする人々のことである。
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四国・徳島が建国発祥の地? p150〜152
古代ユダヤ人が渡来し、ソロモンの秘宝である「契約の箱」を埋めた、といわれる剣山。
その山のある四国の徳島とはいったいどのような場所なのだろうか。またなぜ四国なのか?
一説では、阿波こそ、日本建国の地であり、古事記、日本書紀に出てくる天孫降臨や豊葦原中津国もすべてこの阿波で起きたことだ、という。
本来、九州の霧島で天孫降臨があり、そこから神武天皇の東征が始まったというのが一般的な考えである。しかし二千六百年前の航海技術などを考えても、九州の霧島からよりも、四国の阿波徳島から神武天皇がお船出し、建国が行なわれた奈良の橿原に辿り着いた、と考えたほうが自然だ。
また徳島には「天の岩戸」のような日本の神話の舞台もある。平安時代の全国の神社の格付けを行なった延喜式神名帳などには、全国の約三千もの神社のうち、古事記に登揚する重要な神様を祭る神社で徳島にしかない例が数多くある。たとえば、イザナミノカミを祀る神社は、徳島の美馬市にしかないのだ。そのような理由から、「タカマガハラは阿波だった」と主張する人もいるくらいである。
その他にも、奈良県にある多くの地名が実は阿波徳島にあるのだ。吉野川をはじめ、天の香具山などがある。
たとえば『阿波国風土記』にも「大きな山が天から阿波国に降ったのをアマノモト山といい、その山がくだけて大和国に降り着いたのを天の香具山という」とある。つまり日本に渡来したユダヤ人が、日本建国の事業に参画したとするならば、建国の始まりである四国に辿りついたと考えられる。
古代イスラエル人たちが、アツシリアの占領により捕らえられ、その後姿を消したのが紀元前722年で、今から約2700年である。そして日本の建国が今から約2660年前の紀元前660年。イスラエルからの移動時間や、徳島から建国の橿原への東征の時代などを含めると、数字としては合う。
契約の箱を運んだイスラエル人たちは、吉野川を通り上陸し、剣山にそれを運んだのであろうか。
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高天原という言葉に潜む日本とユダヤの絆 p196〜197
もしもこれまで見てきたように、イザヤの子がイザナギであるならば、古事記や日本書紀に描かれている神話は、自分たちの神を礼拝できる東の島国を求めてやってきた、イスラエル人たちの苦闘の体験が織り込まれた神話ということができる。
そこには西アジアにあった祖国イスラエルを離れ、シルクロードなどのアジア大陸を横断し、はるばる日本にまで渡来し、神武天皇と共に日本の建国にも携わったイスラエルの人々の苦闘と想いが、記紀には込められていると言えるのだ。
ただ、この記紀には神話ではない部分もかなり含まれている。たとえば日本の神語に登場する、天上にあって神々がいる場所とされる「高天原」。なんとヨセフ・アイデルバーグ氏によると、この高天原がアジア大陸にあるというのだ。それはユダヤ人の始祖であり、三大父祖の一人であるアブラハムの出身地なのだ。
実はアブラハムがイスラエルに来る前に住んでいた場所は、西アジアのタガーマ州にあるハランという町であることはタナフにも書かれている。タガーマにあるハラン、それはタガーマハラン、つまりタガーマハラなのだ。
アブラハムは神の命に従い故郷であるタガーマハラを出発。それまで一緒にいた一族に別れを告げ、神の約束された約束の地を目指して旅立った。それから北イスラエル王国崩壊まで二一〇〇年、離散したイスラエルの人々は再び民族の出所に還ってきたのだろうか。
それともイスラエル人の問で延々と語り継がれてきた地名なのか、タガーマハラがタカマガハラとなって日本の神話に反映されたのかもしれない。
また、古事記には天つ神がタカマガハラで取れた稲を天皇陛下に与えられ、それを天皇が日本中に広めたと書かれている。西アジアのタガーマハラも麦などが大量に収穫されており、高度な農業の技術があったと思われる。
つまり、タガーマハラから来た人々が、高度な稲作技術などを日本にもたらし、広げたのかもしれない。
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このほかに、古代天皇の逸話と古代ユダヤの伝説の一致する点やらで、よくよく読むと、書きつくされた事以外、新たな同祖論を補強することが、思った以上掲載されていました。ご興味のある方には推薦の一冊です。
【Ddogのプログレッシブな日々】
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/23217366.html