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1月18日16時1分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090118-00000173-mailo-l03
下帯姿の男たちが無病息災をもたらすとして蘇民袋を奪い合う蘇民祭が、今年も県内各地で行われる季節になった。昨年「胸毛がセクハラ」とJR東日本がポスター掲示を拒否し全国から注目を集めた奥州市の黒石寺でも2月1日夜〜翌2日明け方に開かれる。「東奥の奇祭」と称されるが、この信仰、形は違えど全国各地で伝わっている。何を、どのように祭っているのか探ってみると……。
【山口圭一】
◇「蘇民将来」って誰?
蘇民袋の中にはコマ木と呼ばれる木片があり、「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」などと記されている。蘇民将来とは何者なのだろうか。
各地に伝わる説話や縁起によると、昔、旅する神仏が裕福な巨旦(こたん)と貧しい蘇民将来に一夜の宿を求めた。巨旦は断ったが、蘇民将来は喜んで引き受けた。神仏は巨旦に疫病の災いをもたらそうとしたが、蘇民将来が止める。「巨旦の元には娘がいるのです」。神仏は護符を出し、「持っていれば疫病から免れる」と伝えた――。
地域や寺社ごとに神仏は異なる。黒石寺は薬師如来だが、疫病の神・牛頭天王(ごずてんのう)や素戔嗚尊(すさのおのみこと)であることも多い。蘇民将来と巨旦は兄弟だったり、護符が茅(ち)の輪であったりもする。
話の原形は、インドから中国を経て伝わったとされる。同様の話は、奈良時代に書かれたとみられる「備後国風土記」にも登場するほか、長岡京跡から「蘇民将来」と記した札も出土しているので、平安時代には日本に伝わっていたようだ。
ただ長年伝わる間に蘇民将来自身が信仰の対象になるなど変化した。久慈市山形町には、マタギが狩りを行う正統性を示すため、自らを蘇民将来の子孫だと述べる古文書も残るという。県立博物館の川向富貴子学芸員は「明治時代、神仏分離令によって牛頭天王信仰が禁じられた際、信仰の対象があいまいになったのも一因では」と推測する。
◇説話伝来は3通り
蘇民将来にまつわる話はいつごろ岩手に伝わり、広まったのか。専門家は具体的には分からないとするが、県内の蘇民祭を調査した奥州市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸所長は、(1)律令体制と一緒に伝わり、民間信仰と結びついた(2)中世に鎌倉武士が御家人として全国に散らばった際に伝わった(3)江戸時代、藩から保護されるため寺社が自ら正統性を示そうと後付けした――に大きく分ける。
伊藤所長は(1)について「律令制と同時に、正月に厄を払う悔過祭(けかさい)が入ってきた胆沢城築城後ではないか」とみる。黒石寺には862(貞観4)年作の胎内銘がある仏像では日本最古の薬師如来座像が残っており、平安時代には伝わっていた可能性が高いとする。厄を払いみそぎを受けるには裸でないといけないのだ。
また蘇民将来と牛頭天王の話は、早池峰神楽にある「天王舞」にも伝わっており、修験者が広めた可能性もある。山形県米沢市の幸徳院の護符のように星印を書き込む例もあることから、安倍晴明で有名な陰陽道にルーツを探る見方もある。川向学芸員は「蘇民将来の話は勧善懲悪で分かりやすく、受け入れられたのでは」と広まった理由を話す。
◇「厄神経」守る旧家も
全国に広まった蘇民将来の話だが、祭りも地域によってさまざまな姿を残している。
県内の蘇民祭は、コマ木や護符が入った袋を奪い合うのが一般的だが、青森県弘前市の岩木山神社では、長さ1〜2センチ程度の木製の護符を十数個まとめたものをササにつり下げ、神主が振る。その落ちた数や具合から一年を占い、氏子が持ち帰って疫病よけのお守りとする。
一方、長野県上田市の信濃国分寺や米沢市の幸徳院のように高さ10センチ前後で、六角や八角の塔柱を檀家(だんか)が作り、参拝客らに売る例もある。
県内でも、江戸時代(1776年)の文献「風土記御用書出」に奥州市水沢区の鎮守府八幡宮で「蘇民」と判をついた札を持ち帰り、家の門戸に張って疫病よけにした話が残っている。現代でも、多くの寺社で札が配られている。
県北の沿岸部では、山伏の妻などの神子(みこ)と呼ばれる宗教者の女性らが、蘇民将来と牛頭天王の逸話を代々伝えてきた。久慈市などの旧家には、「厄神経」というお経として守ってきた所もある。
全国的に見ても、バリエーション豊かな県内の蘇民将来にまつわる信仰。伊藤所長は「土着の信仰と結びつき、地域の共同体も残っていたことが大きいのでは」と分析する。
1月18日朝刊
最終更新:1月18日16時1分