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坂本龍一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80
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この項目では音楽家の坂本龍一について記述しています。プロ野球選手の坂本竜一については坂本竜一をご覧ください。
坂本龍一
Ryuichi Sakamoto
基本情報
別名 教授
出生 1952年1月17日(56歳)
血液型 B型
学歴 東京藝術大学
出身地 日本東京都中野区
ジャンル J-POP
フュージョン
テクノ・ポップ
ニュー・ウェイヴ
エレクトロニカ
アンビエント
イージーリスニング
ニューエイジ
沖縄音楽
ボサノヴァ
ワールドミュージック
映画音楽
クラシック
現代音楽
職業 作曲家、演奏家
担当楽器 キーボード
活動期間 1978年 -
公式サイト sitesakamoto.com
表・話・編・歴
坂本 龍一(さかもと りゅういち Sakamoto Ryūichi、1952年1月17日(56歳))は日本の音楽家。作曲、編曲、音楽プロデューサー、キーボーディスト。
目次 [非表示]
1 概要
2 来歴
3 社会活動
4 音楽活動
5 出版活動
6 「教授」という愛称
7 ディスコグラフィー
7.1 オリジナルアルバム
7.2 シングル
7.3 ミニ・アルバム
7.4 ベスト・アルバム
7.5 リミックス・アルバム
7.6 ライヴ・アルバム
7.7 コンピレーション・アルバム
7.8 TVなどのサウンド・トラック
7.9 映画音楽
7.10 バンド・ユニット活動
7.11 その他アーティストとのコラボレーション
7.11.1 映像作品
8 その他の音楽活動
8.1 提供曲
8.1.1 他のアーティスト
8.1.2 CM曲
8.2 ゲーム
8.3 テレビ
8.4 編曲
8.5 その他
9 書籍
9.1 主著
9.2 監修・聞き書き等
10 出演
10.1 俳優としての出演作品
10.1.1 映画
10.1.2 CM
10.1.3 ミュージック・ビデオ
10.2 TV・ラジオ
10.3 コンサート
11 関連項目・人物
12 外部リンク
13 出典・注釈
[編集] 概要
世界的に活動している日本人ミュージシャンである。その音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にはあるものの、民俗音楽、現代音楽にも造詣が深く、ヘビーメタルとカントリー音楽以外はすべて演奏分野の範疇にある。
幼いころから作曲を学び、東京藝術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。1970年代後半よりソロとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなる。YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、近年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表している。
自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。また、映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当したことをきっかけに映画音楽の作曲も手掛けるようになり、1987年公開の『ラストエンペラー』(坂本が書いたピアノスケッチ譜に基づいて、実際のオーケストレーションは、本人を含む、東京藝術大学作曲科後輩のアレンジャー川崎絵都夫、上野耕路、野見祐二、渡辺蕗子等が分担した)では日本人初のアカデミー賞オリジナル作曲賞を受賞し、以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。
代表曲は、『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」、覆面ボーカリスト「Sister M」を起用して話題となった「ジ・アザー・サイド・オブ・ラブ」、そしてテレビCMに起用されたピアノソロ曲「エナジー・フロー」などがある。
音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどのお笑い番組やバラエティ番組に出演する。
近年は各メディアで環境問題や平和問題をはじめとした諸問題について発言する機会も多く、最近はPSE問題において、坂本も中心人物として参加した反対運動が実を結んだ。近年は「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折している。
「教授」「世界のサカモト」とあだ名される。左利き。血液型はB型。現在はアメリカ合衆国ニューヨーク州在住。歌手の坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた、坂本にとっては次女。 身長171cm。
[編集] 来歴
1952年東京都中野区に生まれる。父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次などを担当した坂本一亀。母は帽子デザイナー。通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったため、3歳からピアノを習いはじめる。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。10歳で東京藝術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家は、ストラヴィンスキーであったという。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。
1959年から東京都世田谷区給田に育つ。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年東京都立新宿高等学校を卒業(塩崎恭久、野中直子と同期)。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。また風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏する。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。また学生運動にも、のめり込む。この時の闘争仲間に、後に「アクション・カメラマン」になった馬場憲治がいた。
1970年東京藝術大学入学[1]。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想がたしかにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。また坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。1974年東京藝術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程に進む。1976年修了。
1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。翌1976年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した他、初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一のアルバム『Niagara Triangle vol.1』などにキーボードとして参加。また、大貫妙子のLP『サン・シャワー』『ミニヨン』『ロマンティック』等にアレンジャー、プロデューサーとして参加。この時期を、後に坂本はアルバイト時代と呼んでいる。
1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(以下YMOと表記)を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の「イエロー・マジック・オーケストラ」を発売、続く「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」で爆発的人気を博す。またこの年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。また一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。また参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。
YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた(この番組にテープを送っていたリスナーで後にメジャーデビューしたのが、ジュラン、テイ・トウワ、槇原敬之らであり、またステッピン・イントゥ・エイジアでラップを担当した浅野智子もこの特集がきっかけで、同曲のレコーディングに参加することになった。ここで流された曲の一部が後に「DEMO TAPE-1」としてCD化されている)。また、この頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子等と「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。またこの年、矢野顕子と結婚。
1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと競演。出演の条件として音楽を担当した。同作がカンヌ国際映画祭に出品された際に、映画監督ベルナルド・ベルトルッチと出会い、これが映画『ラストエンペラー』への布石となる。この年、デヴィッド・シルヴィアンと組んでシングル「禁じられた色彩」をリリースした。同年、YMOは「散開」(解散)する。
1984年、矢野顕子らとMIDIレコードを設立。レーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、コン・スーとともに担当。これによりゴールデングローブ賞を日本人で初めて受賞し、アカデミー賞作曲賞も受賞する。以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという(「夜のヒットスタジオ」より)。
1989年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍する(しかしセールス的な成功を収めることはなかった)。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任にともなって契約を解消。1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲、自らも会場でオーケストラを指揮した。依頼料は1ドル。このときの楽曲は若干アレンジされ、後に「El Mar Mediterrani」として発表された。高橋幸宏によると「非常に嫌々やっていた」。1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。
1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「ゲイシャガールズ(GEISHA GIRLS)」をプロデュース。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、アホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。
1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。翌1999年、製薬会社三共のCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。また、自身初となるオペラ『LIFE』を公演。
この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人とその女性との間にいる子供の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんが好きな人はお母さん(矢野顕子)ではない」と告げたというエピソードも披露している。また「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供がいることも明かしている(4人のうち1人は矢野顕子の連れ子で、坂本と養子縁組はしているが血縁関係はない)。
2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好化に寄与したとして、ブラジル政府より国家勲章を授与される。2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表し、ネットで無料配信を行う。
2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。またこの年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。
オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。
[編集] 社会活動
坂本龍一政治思想に関する発言が多く、心情的に左派であることを公言している。新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久と馬場憲治の3人でバリケード封鎖を決行した。大学時代には武満徹を中傷する過激なビラを配ったこともあった。これについて坂本は、武満は当時音楽界の権力の象徴だったからと、武満の没後語っている。中傷された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と言い寄り興味を覚え、話をするきっかけになった。なお、坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラからインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを少なからず意識していた。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉の著書『風邪の効用』やオペラ『LIFE』の製作のための取材等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家や思想家など知識人との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目参照)。
1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った[1]。MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境・平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAY、Mr.Children、DREAMS COME TRUE、DJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE』[2]やアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。
2004年には音楽評論家高橋健太郎やピーター・バラカンらの呼びかけに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていた音楽レコードの還流防止措置(レコード輸入権)に反対を表明した[3]。
2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹、椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集[4]。経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。また、同年5月にはShing02、en:Christian Fenneszらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に反対し、青森県、岩手県の産品の不買運動を展開[5]するプロジェクトSTOP ROKKASHOを始め、河野太郎、保坂展人などの政治家、小室哲哉などのミュージシャンからも賛同を得ている[6]。
2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始めた。
[編集] 音楽活動
坂本のピアノ曲集『AvecPiano』に寄せられた解説文のなかで音楽評論家秋山邦晴は「なかなかピアノも巧い」と評している。また処女作千のナイフでは現代音楽家の高橋悠治との連弾を行っている。加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リストの難曲ラ・カンパネラを藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも本人は発言している。その一方、「ライディーン」のPVでは合理的に使えるポジションで小指を使わず、1から4への不自然な替え指をしているのも見られる。
音楽を担当した映画「ラストエンペラー」においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点を米国に移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌「GOETHE」で述べている。
現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントあり。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行ったが、そのときの作風は20世紀前半の近代和声の段階に「意図的に」留まっている。YMO散開後の1984年、題名のない音楽会においてオーケストラを用いて行われたニューアルバム『音楽図鑑』のプロモーションで用いた技法は1960年代に一世を風靡したフランク・ステラのような単色のミニマリズムではなく、時代遅れのものとされオーケストラの濁った音で奏でられるポスト・ミニマルであった。
学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学ができなくて挫折した。太田出版から出された「坂本龍一・音楽史」に、その試行の膨大なメモが掲載されている。多くの著書でジェルジ・リゲティやオリヴィエ・メシアンに言及しているが、自身の音楽語法はフィリップ・グラスやトム・ジョンソンのような簡明なパターンの羅列を好んでいる。
YMOでの活動は国内外のオーバーグラウンド・ニューウェーヴに革新を起こしたが坂本はそれと平行し、国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。NY帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhewのソロデビューシングルでのコラポレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名である。DNAの頃のアートと始めて出会ったときは満足に言葉も交わせず一方的に敵意をむき出されてしまっていたが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーしたらあっさり快諾、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。
J-WAVEにて2004年放送の番組「ゆく都市くる都市・新春放談」では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。
コンサートではほとんど年齢制限を設けたことはなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に判断をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。
[編集] 出版活動
1984年-1989年まで「本本堂」という個人出版社を持ち、自身の著書を中心に、独自の出版活動を行った。 また、1984年に、シリーズ<週刊本>から刊行された『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)も話題となった。その本で予告されたのは、浅田彰著/井上嗣也装幀『煉獄論あるいはゴダール・スペシャル』、南方熊楠著/井上嗣也装幀『男色と免疫疾患』、赤瀬川原平装幀『糸井重里児童文学全集』、武邑光裕編/細野晴臣装幀『往復書簡 ウィリアム・バロウズ-出口王仁三郎』、中沢新一構成/坂本龍一ピアノ/日比野克彦装幀『グルジェフ体操カセットブック』などの、50冊であった。
本本堂から、実際に刊行された書籍は以下のとおり。
長電話 高橋悠治,坂本龍一 本本堂, 1984年5月
水牛楽団休業 [録音資料] 浅田彰+坂本龍一編 本本堂, 1984年10月
音楽図鑑坂本龍一 坂本龍一 本本堂, 1985年6月
未来派2009 坂本龍一+細川周平監修 本本堂, 1986年4月
写真集『ラストエンペラー』 坂本龍一編 本本堂, 1988年4月
キリコのコリクツ 玖保キリコ 本本堂, 1989年4月
[編集] 「教授」という愛称
一般に「教授」という愛称で広く親しまれているが、これは高橋幸宏が付けたものである。
高橋がテレビ番組で語ったところによると、坂本と高橋が初めて会った時、坂本が東京藝術大学の大学院生だと聞いた高橋が驚いて、「大学教授にでもなるの?」と尋ねたことがきっかけ。アスペクト刊「イエロー・マジック・オーケストラ」には坂本が大学院生であることを知った高橋が「じゃあ、プロフェッサーだから『教授』」と名付けたとある。
坂本は修士課程を修了しているが、大学教授ではない。
「教授」と呼ばれる前、当時の坂本の風貌が野球漫画「あぶさん」の主人公に似ていることから「あぶ」と呼ばれていた。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] オリジナルアルバム
千のナイフ(Thousand Knives, 1978年)
B-2ユニット(B-2Unit, 1980年)
左うでの夢(Left Handed Dream, 1981年)
コーダ(Coda, 1983年)
音楽図鑑(Illustrated Musical Encyclopedia, 1984年)
エスペラント(Esperanto, 1985年)
未来派野郎(Futurista, 1986年)
ネオ・ジオ(Neo Geo, 1987年)
ビューティ(Beauty, 1989年)
ハート・ビート(Heartbeat, 1991年)
スウィート・リヴェンジ(Sweet Revenge, 1994年)
スムーチー(Smoochy, 1995年)
ディスコード(Discord, 1997年)
BTTB(Back to the Basic, 1998年)
コミカ(Comica, 2002年)
エレファンティズム(Elephantism, 2002年)
キャズム(CHASM, 2004年)
[編集] シングル
ウォー・ヘッド(War Head, 1980年)
フロントライン(Front Line, 1981年)
メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス(Merry Christmas Mr. Lawrence, 1983年)
ライフ・イン・ジャパン (Life in Japan,1983年) ※非売品。日本生命ノベルティ
フィールドワーク(Field Work, 1985年)
ステッピン・イントゥ・エイジア(Steppin' Into Asia, 1985年)
G.T.(1986年)
ビハインド・ザ・マスク(Behind The Mask,1987年)※12インチシングル
リスキー(Risky, 1987年)
アンドゥ#1(Undo #1, 1989年)
ユー・ドゥ・ミー(You Do Me, 1990年)
ウィー・ラヴ・ユー(We Love You, 1990年)
サヨナラ(Sayonara, 1991年)
タイナイカイキII(Tainai Kaiki II, 1992年)
二人の果て(1994年)※featuring 今井美樹
Movin' on(1994年)※国内盤未発売
08/21/1996(1996年8月21日)
El Mar Mediterrani(1997年)
ジ・アザー・サイド・オブ・ラヴ(The Other Side of Love, 1997年) ※「featuring Sister M」とクレジットされている、Sister Mとは坂本の娘の坂本美雨のことである)
ウラBTTB(Ura BTTB, 1999年)
ロスト・チャイルド(Lost Child, 2000年)
アンダークールド(undercooled, 2004年)
koko(2008年)
[編集] ミニ・アルバム
オネアミスの翼〈イメージスケッチ〉(1987年)
Music For Yoji Yamamoto Collection 1995(1996年)
[編集] ベスト・アルバム
グルッポ・ムジカーレ(1989年9月22日)
グルッポ・ムジカーレII(1993年6月21日)
ベスト・オブ・坂本龍一ヴァージン・トラックス(1993年3月31日)
ベスト・オブ・坂本龍一サウンドトラックス(1993年3月31日)
OPERA(1993年11月21日)
ベリー・ベスト・オブ・グート(1998年4月22日)
ピュア・ベスト(2001年9月27日)
US(2002年)
UF(2002年)
CM/TV(2002年)
[編集] リミックス・アルバム
ハートビート 〜リミクシーズ〜
ハード・リヴェンジ(Hard Revenge, 1994年)
スヌーティー(Snooty, 1996年)
ディスコード グートニンジャ・リミキシーズ(Discord gutninja remixes, 1999年)
LIFE IN PROGRESS(1999年)
ブリコラージュ(Bricolages, 2006年)
[編集] ライヴ・アルバム
メディア・バーン・ライヴ(Media Bahn Live, 1986年)
プレイング・ジ・オーケストラ(Playing the Orchestra, 1988年)
“スウィート・リヴェンジ”ツアー1994("Sweet Revenge" tour 1994, 1994年)
RAW LIFE OSAKA(1999年)※オペラ「Life」大阪公演の模様を収録
RAW LIFE TOKYO(1999年)※オペラ「Life」東京公演の模様を収録
AUDIO LIFE(2000年)※オペラ「Life」大阪・東京公演から、ベストテイクを収録
イン・ザ・ロビー・アット・G.E.H.・イン・ロンドン(In The Lobby At G.E.H. In London, 2001年)
[編集] コンピレーション・アルバム
1996(1996年)
GEM(2002年)※非売品(2002年に発売されたベストアルバム「US」「UF」「CM/TV」の初回盤のみの特典として、応募券3枚を集め送るともらえた”坂本龍一お宝音源”を収録したCD)
ワークスI - CM(2002年)
ワークスII - TV/Inst(2002年)
/04(2004年)
/05(2005年)
[編集] TVなどのサウンド・トラック
ピーチ・ボーイ -桃太郎-(Peach Boy - Momotaro -, 1992年)※童話「桃太郎」の英語朗読(シガニー・ウィーバー)のバックに流れる音楽を担当
ワイルド・パームス(Wild Palms, 1992年)※アメリカのテレビドラマのサウンドトラック。
L.O.L(Lack of Love, 2000年)※ドリームキャストのゲーム「Lack of Love」の音楽。坂本はゲーム自体のプロデュースも行っている。
変革の世紀(Henkaku No Seiki - Changing Century, 2002年)※NHKの同名番組のテーマ曲。
[編集] 映画音楽
戦場のメリークリスマス(Merry Christmas Mr Lawrence, 1983年) - 英国アカデミー賞受賞。
⇒ 『メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス』 を参照。
子猫物語(Adventures of Chatran, 1986年)
王立宇宙軍〜オネアミスの翼(Aile De Honneamise - Royal Space Force, 1987年)
ラストエンペラー(The Last Emperor, 1988年) - 米アカデミー賞、LA映画批評家賞、ゴールデングローブ賞、グラミー賞受賞。
⇒ 『ラストエンペラー (サウンドトラック)』 を参照。
侍女の物語(The Handmaid's tales, 1990年)
シェルタリング・スカイ(The Sheltering Sky, 1991年) - ゴールデングローブ賞、LA映画批評家賞受賞。
ハイヒール(High Heels, 1991年)
嵐が丘(The Wuthering Heights, 1992年)
リトル・ブッダ(Little Buddha, 1993年) - グラミー賞ノミネート。
⇒ 『リトル・ブッダ (サウンドトラック)』 を参照。
スネーク・アイズ(Snake Eyes, 1998年)
愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像(Love is the Devil - Study for a portrait of Francis Bacon -, 1999年)
鉄道員(ぽっぽや)(Poppoya, 1999年)
御法度(Gohatto, 1999年)
⇒ 『御法度 (サウンドトラック)』 を参照。
ワイルド・サイド(Wild Side, 2000年)
アレクセイと泉(Alexei and the Spring, 2002年)
ファム・ファタール(Famme Fatale, 2002年)
⇒ 『ファム・ファタール (サウンドトラック)』 を参照。
デリダ(Derrida, 2003年)
トニー滝谷(TONY TAKITANI, 2004年) ※サウンドトラックのリリースは2007年。
星になった少年(Shining Boy & Little Randy, 2005年)
⇒ 『星になった少年 (サウンドトラック)』 を参照。
バベル(Babel, 2006年) ※オリジナル・アルバムより3曲使用されている。
シルク(SILK, 2008年)
[編集] バンド・ユニット活動
YMOについてはイエロー・マジック・オーケストラの項を参照。
ディスアポイントメント・ハテルマ(Disappointment - Hateruma, 土取利行+坂本龍一, 1976年)
サマー・ナーヴス(SUMMER NERVES, 坂本龍一&カクトウギ・セッション, 1979年)
山下達郎、大村憲司、吉田美奈子、小原礼などとのコラボレーション。
い・け・な・いルージュマジック(忌野清志郎+坂本龍一, 1982年)※シングル
エンド・オブ・エイジア(the End of Asia, 坂本龍一+ダンスリー, 1982年)
アレンジメント(THE ARRANGEMENT, 坂本龍一&ロビン・スコット, 1982年)
バンブー・ハウス/バンブー・ミュージック(Bamboo Houses/Bamboo Music, デヴィッド・シルヴィアン・アンド・リュウイチ・サカモト, 1982年)※シングル
禁じられた色彩(Forbidden Colours, リュウイチ・サカモト&デヴィッド・シルヴィアン, 1983年)※シングル
ゼロ・ランドマイン(ZERO LANDMINE, N.M.L., 2001年)※シングル
カーザ(CASA, モレレンバウム2/サカモト, 2001年)
ライヴ・イン・トーキョー・2001(LIVE IN TOKYO 2001, モレレンバウム2/サカモト, 2001年)
ア・デイ・イン・ニューヨーク(A DAY IN NEW YORK, モレレンバウム2/サカモト, 2003年)
ワールド・シチズン(WORLD CITIZEN - i won't be disappointed, 坂本龍一+デヴィッド・シルヴィアン, 2003年)※シングル
vrioon(alva noto+ryuichi sakamoto, 2003年)
insen(alva noto+ryuichi sakamoto, 2005年)
Sala Santa Cecilia(christian fennesz+ryuichi sakamoto, 2005年)
revep(alva noto+ryuichi sakamoto, 2006年)
cendre(fennesz+sakamoto(フェネスサカモト), 2007年3月28日)※クリスチャン・フェネスとのユニット
Ocean Fire(WILLITS+SAKAMOTO, 2007年10月17日)※クリストファー・ウィリッツとのユニット
[編集] その他アーティストとのコラボレーション
誰も僕の絵を描けないだろう(友部正人, 1975年)
物語のようにふるさとは遠い(富岡多恵子, 1976年)
終曲/うらはら(Phew, 1980年)※シングル
死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対(サティ「ジムノペディ」の演奏)(スネークマンショー,1981年)
愛はすべてを赦す(加藤登紀子, 1982年)
「な・い・し・ょのエンペラーマジック」(山崎春美が率いたユニット「TACO」とのコラボレーションでアルバム「TACO」に収録, 1983年)
「VOLTEX OF LOVE」(小室哲哉とのコラボレーション, アルバム「avex dance matrix '95 Live TK DANCE CAMP」収録, 1995年)
「I WANNA BE DOWN」(m-flo loves 坂本龍一, アルバム「Astromantic」収録, 2004年)
[編集] 映像作品
TV WAR(浅田彰、RADICAL TVとのコラボレーション, 1985年)
D&L(映像作家・原田大三郎とのコラボレーション, 1995年)
[編集] その他の音楽活動
[編集] 提供曲
[編集] 他のアーティスト
School Of Thought(高橋幸宏)
Flashback/回想(高橋幸宏)元は明星・中華三昧のCM曲『黄金の都』
I Sing(矢野顕子)
ROCKET FACTORY/ロケット工場(シーナ&ザ・ロケッツ)
恋はルンルン(伊藤つかさ)
もしもタヌキが世界にいたら(遠藤由美子、シーラカンス)
今は平気よ(宮崎美子)
くちびるNetwork(岡田有希子)
眠れぬ夜のAQUARIUS(岡田有希子)
Grandma Is Still Alive(GEISHA GIRLS、ダウンタウンの変名)
少年(GEISHA GIRLS)
砂の果実(中谷美紀)
Everlasting Love ・ NOT CRAZY TO ME(中森明菜)
たかをくくろうか(ビートたけし)
雪列車(前川清)
テイキング・アイランズ・イン・アフリカ(ジャパン)
君に星が降る(竹中直人)
リセエンヌ(原田知世)
The letter after the wound(坂本美雨)
awakening(坂本美雨)
無国籍ロマンス(荻野目洋子)
Neo-Plant(如月小春)
Hell's Angels(ダンプ松本)
MAJI(ダンプ松本)
クリエイション・マイ・ハート(和田加奈子)
比呂魅卿の犯罪(郷ひろみ)
イノセント・ウォーズ(Kinki Kids、アルバム『B album』に収録)
[編集] CM曲
ニチレイ(2003年)
アジエンス(花王)(2004年 - )
海の道(東京海上日動)(2006年 - )
ルノワール+ルノワール展(Bunkamuraザ・ミュージアムで開催の美術展)(2008年)
ホクレン農業協同組合連合会(2008年)
(※坂本のアルバム『CM/TV』『ワークスI - CM』に収録されている楽曲は省略。)
[編集] ゲーム
ドリームキャスト(セガ)起動時のロゴマークで流れる起動音。
天外魔境 ZIRIA(1989年) タイトル音楽他3曲作曲。
Seven Samurai - ending theme(プレイステーション2用ソフト“SEVEN SAMURAI 20XX(2004年)”、キャズム収録)[2]
聖剣伝説4(スクウェア・エニックス)(2006年)オープニング・エンディングテーマ「Dawn of Mana」を担当
[編集] テレビ
朝日放送・オープニング(1989年 - 2000年10月) ABCラジオでは別アレンジが現在でも使用中。
(※坂本のアルバム『CM/TV』『ワークスII - TV/Inst』に収録されている楽曲は省略。)
[編集] 編曲
アメリカン・フィーリング(サーカス)1979年日本レコード大賞編曲賞を受賞。
ホームタウン急行(サーカス)TVドラマ「鉄道公安官」エンディングテーマ
夏に恋する女たち(大貫妙子)
ピーターラビットとわたし(大貫妙子)
在広東少年(矢野顕子)
David(矢野顕子)
めだかの兄妹(わらべ)
今だから(松任谷由実・小田和正・財津和夫, 1985年)
「ロゼ」(飯島真理)
夢の中で会えるでしょう(高野寛)
Time and Again(高野寛)
笑ってよムーンライト(美空ひばり)
夏のしずく(三田寛子)
「ピラニア軍団」(ピラニア軍団)半分以上の収録曲を編曲。
霧雨のあとで(朝比奈マリア)
愛の園(西城秀樹)
日付変更線、モンロー・ウォーク(南佳孝)
コンピューターおばあちゃん(酒井司優子)注:オリジナルは中学生バンド「コズミック・インベンション」の楽曲(こちらの編曲は小田啓義)。
借りものの海辺(山田邦子)
おやすみ -gumix remixed by 坂本龍一(リリメグ)注:シングル「おやすみ」2曲目。
風の谷のナウシカ(2007年、細野晴臣トリビュート・アルバム『Tribute to Haruomi Hosono』)。ヴォーカルは嶺川貴子。
ちいさい秋みつけた(2007年『にほんのうた 第一集』)。ヴォーカルは中谷美紀。
ノルマンディア(2008年、細野晴臣トリビュート・アルバム『Tribute to Haruomi Hosono 2』)。fenneszと共に編曲。
[編集] その他
風が睡る(1969年) 歌曲。吉本隆明の詩による。
ピアノ組曲(1970年)
梅の花(1970年) 混声合唱曲。詩は万葉集による。
ヴァイオリンソナタ(1971年)
弦楽四重奏のためのエチュード I ・ II(1971年)
弦楽四重奏曲(1972年)
天使のまなざし(1972年) オリヴィエ・メシアンの作品のオーケストラ編曲。
モチモチの木(1972年) 人形劇のための音楽。編成はフルート・チェロ・ピアノ。
オーケストラのためのコンポジション(1973年)
詩三篇によるうた(1973年) 女声合唱曲。詩は高野佳生・サッフォー・古事記による。
Polycircuitus(1974年) オーケストラ作品。
Metaphonem(1974年) ピアノ作品。
分散・境界・砂(1976年) ピアノソロ。高橋アキのために書かれた。
反復と旋(1976年) 室内オーケストラのための作品。東京藝術大学大学院の修士作品。初演は1984年、「題名のない音楽会」において行われた。
僕自身のために(1981年) ピアノ作品。
小説(1982年) 東京混声合唱団の委嘱による合唱曲。村上龍のオリジナルテキストによる。
Cantus omnibus unus(2005年) 第7回世界合唱シンポジウムテーマ曲。アカペラ混声四部もしくは同声三部。
日本科学未来館・液晶パネルの張られた巨大地球儀(正式名称ジオ・コスモス)付近で流れる曲をプロデュース。
Nokia 8800(ノキア)(2005年)携帯電話の着信音(着信メロディ)とアラート音。
Nokia 8800
Forest alarm tone(MP3ファイル)
Zamapara ringing tone(MP3ファイル)
Dharma ringing tone(MP3ファイル)(「ダーマ」、「ダルマ」)
Nokia tune(MP3ファイル)(Nokia Tune)
Nokia 8801(Nokia 8800 の北米市場向けデザイン)
Nokia 8801 Phone Demonstration(「Inspire」を選択すると試聴可能に)
NOKIA 8801(SWFファイル)
[編集] 書籍
[編集] 主著
「アヴェクピアノ」1983年 カセットブック
「本本堂未刊行図書目録」1984年
「水牛楽団休業」(浅田彰・坂本龍一協編、1984年)カセットブック
「長電話」(高橋悠治+坂本龍一著、1984年)
「音楽図鑑」(1985年)
「EV.Café」(村上龍との共著、1985年)
「音楽機械論」(吉本隆明との共著、1986年)
「SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法」(1989年)
「友よ、また逢おう」(村上龍との共著 1992年)
「ザ・ゲイシャ・ガールズ・ショウ(Ken&Shoとの共著) 幻冬舎, 1995.5
「モニカ」(村上龍との共著 1996年)
「Decode 20」1997年
「アフリカ・ノート」2000年
「ブラジル・ボックス」2001年
「少年とアフリカ――音楽と物語、いのちと暴力をめぐる対話――」(天童荒太との共著、2001年)
「反定義 新たな想像力へ」(辺見庸との共著 2002年)
「Life : fluid,invisible,inaudible…」(高谷史郎との共著 2007年)
[編集] 監修・聞き書き等
「音を視る、時を聴く」(大森荘蔵による哲学講義、1982年)
「未来派2009」(坂本龍一・細川周平監修、1986年)
「気分転換法77」(サワグチ・サイキック・センター著、坂本龍一監修、1987年)
「写真集『ラストエンペラー』」(バジル・パオ他写真、坂本龍一編、1988年)
「テクノドン」(後藤繁雄編・著、1993年)
「skmt」(後藤繁雄著、1999年)
「伝説の編集者坂本一亀とその時代」(田邊園子、2003年)
「坂本龍一・全仕事」(山下邦彦編、1991年)
「坂本龍一・音楽史」(山下邦彦編、1993年)
「楕円とガイコツ」(山下邦彦著、2000年)
「非戦」坂本龍一+sustainability for peace監修、2002年
「SN [静止画資料]」」(後藤繁雄編、2002年)
「エンデの警鐘 地域通貨の希望と銀行の未来」(坂本龍一+河邑厚徳編著、2004年)
「エロコト」(編集長:坂本龍一、ソトコト2006年11月号増刊)
「ラブコト」 (編集長:坂本龍一、ゲストエディター:蝶々、ソトコト2008年8月号増刊)
「坂本龍一の音楽」(山下邦彦編著、2008年)
[編集] 出演
[編集] 俳優としての出演作品
[編集] 映画
「戦場のメリークリスマス」
「ラストエンペラー」
[編集] CM
「リゲインEB錠」(三共)
「サムライ」(京セラ)
「新潮文庫」(新潮社)
「サントネージュワイン」(アサヒビール)
「セドリック」(Y31前期型)(日産自動車)
「サッポロドラフト」(サッポロビール)
「BSアリーナ」(東芝)
「ダイエーのギフト」(ダイエー)
「ALBA」(セイコー)
「ゆうゆう茶」(カルピス食品工業)
「AGFグランデージ」(味の素ゼネラルフーヅ)
「アリナミンA錠」(武田薬品工業)
「新青春の保険21」(日本生命)
「NTT電話機・ハウディ」(NTT)
「プリウス」(トヨタ自動車)
「NEW BALANCE」(スニーカー)
「サントリー山崎」(サントリー)
「ラガービール」(キリン)(2007年)※YMOとして参加
「年賀キャンペーン」(2008年、JP日本郵政グループ)※CM曲も提供
「サムスングループ」
[編集] ミュージック・ビデオ
マドンナ「レイン」(1993年)
[編集] TV・ラジオ
NHK-FM「サウンドストリート」火曜日(1981年4月7日-1986年3月18日、パーソナリティ)
TOKYO FM「サウンドビジュアート 不思議の国の龍一」(1986年10月5日-1987年10月17日、パーソナリティ)
TOKYO FM「TOSHIBA PREMIA 3」(1990年4月-1992年、山下達郎・氷室京介と週代わりでパーソナリティを担当)
J-WAVE「RADIO SAKAMOTO」(奇数月第1日曜 24:02-26:02、パーソナリティ)
フジテレビ「ダウンタウンのごっつええ感じ」(アホアホマンのゲスト・アホアホブラザー役)
毎日放送「Ryu's Barスペシャル21」(ゲスト)
日本テレビ「笑い飯の臭い飯 〜ザ・監獄漫才〜」(2005年6月)
NHK「サラリーマンNEO」2007年・年の瀬スペシャル(2007年12月30日、コント「私とNEO」にて本人役で出演)
[編集] コンサート
Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2002
[編集] 関連項目・人物
イエロー・マジック・オーケストラ(坂本もメンバーとして活動)
スネークマンショー(坂本も参加)
矢野顕子(元妻)
坂本美雨(娘)
村上龍(友人)
アート・リンゼイ(友人)
デヴィッド・シルヴィアン(坂本との共作を発表)
ナム・ジュン・パイク(坂本との親交あり、また坂本は「A TRIBUTE TO N.J.P.」という曲を作曲している:「音楽図鑑」参照)
テイ・トウワ(坂本も参加)
[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、坂本龍一 に関連するカテゴリがあります。sitesakamoto.com - 公式サイト
坂本龍一 @ WARNER MUSIC JAPAN OFFICIAL SITE
Sony Classical
KAB - 事務所公式サイト
commmons official website
J-WAVE RADIO SAKAMOTO
後藤繁雄・SKMT I&II
矢野顕子について、坂本龍一くんと話そう。 - ほぼ日刊イトイ新聞内
映画音楽《ラストエンペラー》のオーケストレーター:川崎絵都夫先生へのインタビュー(早稲田大学第二文学部機関紙記事)
exclusive web magazine openers
Fan Website
[編集] 出典・注釈
^ 坂本が東京都立新宿高等学校一年生の時、坂本の作曲の腕前に関して、高校の先輩の池辺晋一郎から「このままの実力でも(東京芸大に)十分受かる」と太鼓判を押された(当時の東京芸大作曲科の難易度は現在より遙かに高かった)。芸大受験に失敗した場合は、父の母校である日本大学芸術学部に進むことを考えていた。その理由は「当時の日大全共闘は一番ぶっちぎれていたから」。
^ Ryuichi Sakamoto PLAYING THE PIANO /05 2005年12月9日オーチャードホールにて「自分でもこういう曲は今までに聴いたことがない。“超”気に入ってる。」と発言している。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80" より作成
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