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>>聖書解題(79)
創世記6:3
「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから』 こうして、人の一生は120年となった」
聖書には、人間存在の三重性が示されています。
すなわち、人間を構成する三つの要素である、霊と魂と体です。
霊は、人間が神と関係を持つための機関であり、人間存在の霊的次元・宗教的次元をなすものです。
体は、人間が物質的世界と関係を持つための機関であり、人間存在の物質的次元・身体的次元をなすものです。
魂は、人間が人間と関係を持つための機関であり、人間存在の社会的次元・精神的次元をなすものです。
これら三つのいずれを欠いても、人間存在は不完全となってしまいます。
最初の人間アダムとエバの謀反により、人間は神との交わりから背を向けてしまいました。
その結果、人間が神との関係を持つための機関である「霊」が、機能停止した状態になってしまいました。
これが、人間の霊的な死の状態です。
人間の霊的な死は、魂の機能や、体の機能にも、相当な影響を及ぼし、人間は「死すべき定めの人の子ら」として、衰え、老い、死を迎え、地上から姿を消すべき存在となってしまいました。
新約聖書の光の中では、主イエスキリストが、十字架と復活のみわざによって、アダムの末裔であるわたしたちの「全存在」を根本的に贖なってくださる、と約束されています。すなわち
「どうか、平和の神ご自身が、
あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
また、あなたがたの霊も魂も体も
何一つ欠けたところのないものとして守り、
わたしたちの主イエスキリストの来られるとき、
非のうちどころのないものにしてくださいますように。
あなたがたをお招きになった方は
真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」
わたしたちは、死後、人間存在から抽出された「霊」だけの姿になるのではありません。それであるなら、魂を欠いており、体をも欠いているのですから、人間とは言えないのです。
「神の御前で、わたしたちの霊と魂と体が全く守られる」とは、霊と魂と体の三つが一つも損なわれることなく、完全に癒され、完全に回復されることを、意味しています。
すなわち聖パウロが言うように
「わたしたちは皆、
眠りにつくわけではありません。
わたしたちは皆、
今とは異なる状態に変えられます。
最後のラッパが鳴るとともに、
たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると、死者が復活して朽ちない者とされ、
わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
この死ぬべきものが死なないものを
必ず着ることになります。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、
この死ぬべきものが死なないものを着るとき、
次のように書かれている言葉が実現するのです。
『死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか』」
わたしたちは、主イエスキリストに、信仰によって結ばれ、聖霊の働きを受け、わたしたちの身体的次元が癒され、わたしたちの社会的次元が癒され、さらに、わたしたちの霊的次元がいやされることができます。
主イエスキリストを信じ、救い主として受け入れるようにとの「福音の召命」は、全世界のあらゆる場所において、今も語られています。
ノアは、箱舟の扉が閉じられるまで、120年の長きにわたって「福音の召命」を説教し続けました。
主イエスキリストの福音は、最後のラッパが鳴り響いて、天国の門が閉じられるまで、世界のいたるところで、説教され続けなければなりません。>>