★阿修羅♪ > 文化1 > 240.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/
>>
ホームページ・メッセージ080928 小 石 泉
基礎をしっかり
--------------------------------------------------------------------------------
最近、色々な教会のクリスチャンの悩みを聞くことが多いのですが、そのたびに思うことは、あまりにも信仰の基礎がいい加減だと言うことです。救いの確信を持っていないのに、高度な問題に頭を突っ込もうとします。聖書も通読していないのに、神学校で学びたいと言います。(ただし例外はあります。ハワイですばらしい働きをしておられる、ウエイン・コデーロ師は、神学校に入ったとき、ギデオン協会の新約聖書しか持たず、旧約聖書のあることすら知らなかったと言っていますから。)
まるでセスナの操縦の訓練中に戦闘機や旅客機の操縦をしたがるみたいです。また、聖書信仰の基礎をしっかり学んでいないのに、奇跡やしるしを追い求めます。
アメリカの教会や“リバイバル”集会はラスベガスのマジックショーやロックフェスティバルのようです。日本のある教会の信徒と話したとき、そこの教会ではトッド・ベントレーを高く評価しているということでした。私が「あれは危険だ」と言うと「でも、奇跡や癒しが一杯起きているではないですか」と言いました。奇跡や癒しがあれば何でもかまわないのでしょうか。確かにイエス様は次のように言われています。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。ヨハネ10:38〜38
イエス様の言葉は何千年もの信仰の基礎を築かれたユダヤ人に向けて語られています。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。マタイ15:24
それは、神の国のことは信仰の訓練を受けた人々から伝えられなければ、誤って伝えられることがあるからです。他の民族の場合、どうしても長年の偶像崇拝や悪霊礼拝の宗教的な影響を受けやすいのです。確かに、イスラエルは主イエスを拒みました、しかし、イエスの福音を間違いなく書き記し、キリスト教の基礎を築いたのはイスラエル・ユダヤ人です。そして、選ばれた使徒たちは数千年の基礎の上に3年半主イエスと行動を共にして訓練を受けました。使徒パウロも救われて後に、数年間、一人でアラビヤに行って深く神と接して、それから働きを始めています。
私が多くのクリスチャンと接して感じるのは、救いの明確な経験がないか、あってもはっきりした理論付けが無いのです。特にペンテコスト派は体験を重んじるので、救いについての確実な理解がないままで育っています。次のことが明確になっていなければなりません。
1.救いは主イエスの十字架によってだけ与えられるもので、人間には全く起因しない。
2.救いは“感じる”ものではなく、聖書の御言葉によって証明されるものである。
3.救われた人がクリスチャンで無くなることはない。もしそうなったら、それは救われてい なかったのです。
4.洗礼は救われた人が受けるもので、洗礼を受けたから救われるわけではない。
5.クリスチャンになったからと言って、すぐに清くなるわけではない。キリストを通して清 いと認められるだけです。救いに関してはローマ人への手紙が最も重要です。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。ローマ3:21〜24
律法はユダヤ人が救いの基礎と考えていたものですが、パウロは、それがキリストの贖いのための基礎だったといっています。ユダヤ人も異邦人も等しくキリストを信じる信仰によってだけ救われるのです。
今、欧米諸国では別の問題が起こっています。日本のように神の明確な知識がない国ではなく、すでに数百年のキリスト教信仰によって培われてきた国々で、信仰からの離反、不信仰がはびこっています。それは、やはり救いの明白な理解がないからです。実は、私には何となく分かるのです。なぜキリスト教国の若者たちが信仰から離れていくのか。
私はクリスチャン・ホームに生まれました。幼いころから父や母の信仰を見て育ちました。集会や教会にもほとんどかかさず出席しました。しかし、高校生になったころから救いが分からなくなりました。私は救われているのだろうか。私は激しく悩みました。そしてその悩みは20歳ぐらいまで続きました。東京に出てきて、色々な教会や大会に出て、決心するのですが、どうしても明確な救いの経験が出来ないのです。神を信じていました。キリストの十字架の贖いも理解していました。洗礼も受けました。しかし、救われたと言う実感がなかったのです。周りの人々は「君は、もう、救われているんだよ」と言ってくれるのですが、自分は納得できないのです。
ある、夏の日、ある教会のサマーキャンプで真鶴岬に行きました。そこでも私は悩んでいました。夜、岬の突端の岩の上で、「神様救ってください!」叫んでいました。しかし、答えはありませんでした。東京に帰って、会社の寮の一室でふとある信仰書を読んでいました。するとそこに「キリストがやってしまった救い」と書いてありました。えー、やってしまった? なんで、過去完了形で書いてあるのだろう。私は今、救いを求めて必死になっているのに。そのために私の青春は真っ暗闇だったのに。やってしまった・・・?
その時でした。私は、はっきりと分かったのです。そうか! 2000年前にイエス様が私の為に十字架にお掛かりになり、私の身代わりとして罪の罰を受けてくださったのだ! だから私はもう救われているんだ! 私の救いは2000年前に終わっているんだ! その日から、私の長い暗闇は去りました。私は救いを確信しました。
私は思います。クリスチャンホームに育った人でも、キリスト教国でキリスト教の環境に囲まれている人でも、このように明確な救いの理解が出来ないのではないだろうかと。私のような、数年間の長いトンネルを通らないで、表面的な理解だけで救われたと勘違いしている人々が多いのではないでしょうか。今、思い出しても、あの不安感、闇の深さをもう一度経験したくありません。しかし、それなくしては、私の天の国籍は与えられなかったでしょう。
私は、あなたにお聞きします。あなたは救われていますか? はっきりとそう言えますか? どこにその保障はありますか?
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。ローマ10:9
この御言葉はあなたの言葉となっていますか? もしそうなら、感謝しましょう。次のように書かれていますから。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。ローマ8:28〜39
>>