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「崖の上のポニョ」の感想 −  けいじばん@委員会
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投稿者 児童小説 日時 2008 年 8 月 04 日 01:13:12: nh40l4DMIETCQ
 

崖の上のポニョ

監督   宮崎駿
制作   スタジオジブリ
封切日  2008年7月19日

※作品紹介

崖の上の一軒家に住む5歳の少年・宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョと出会う。アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたところを、宗介に助けてもらったのだ。宗介のことを好きになるポニョ。宗介もポニョを好きになる。「ぼくが守ってあげるからね」しかし、かつて人間を辞め、海の住人となった父・フジモトによって、ポニョは海の中へと連れ戻されてしまう。人間になりたい!ポニョは、妹たちの力を借りて父の魔法を盗み出し、再び宗介のいる人間の世界を目指す。危険な力を持つ生命の水がまき散らされた。海はふくれあがり、嵐が巻き起こり、妹たちは巨大な水魚に変身して、宗介のいる崖へ、大津波となって押し寄せる。海の世界の混乱は、宗介たちが暮らす町をまるごと飲み込み、海の中へと沈めてしまう――。少年と少女、愛と責任、海と生命。神経症と不安の時代に、宮崎駿がためらわずに描く、母と子の物語。

※感想

最近の宮崎アニメはトトロ以降の子供向けイメージを物色して、大人も共に楽しめる志向に変化している。前者を期待して千尋やハウルを見に行った親子連れの多くが「子供には難し過ぎる」と評価した。一方でコアなファンからは「いや、これこそ宮崎駿だ」という好意的な反応もある。宮崎作品は元々、子供向けの綺麗事では済まさない、大人でも見るに耐えない要素が満載しているからだ。(注:子供向け=悪いという意味ではない)

一部の人は、宮崎のことを平和と環境を大事する人物であると認識しているが実態とはかけ離れている。漫画版ナウシカでは科学文明と環境の両立を本気で否定しているし、もののけ姫のラストでは多民族と環境の共存を条件付ながらも事実上、否定している。ハウルでも戦争を楽しんでいると解釈できる余地を残している。

テーマだけではない。もののけ姫以降は宮崎の性癖の影響からか「触手」萌えや「ドロドロ」萌え、といった汚いシーンが満載だ。特に千尋では頂点に達している。庵野が千尋を見て「本音を描いてる」と絶賛したそうだが何となく肯ける話だ。

ポニョはどちらかというと「日本的」な側面もある。ほのぼのとした雰囲気はトトロのようだしストーリーも複雑ではないからだ。ハウルに比べれば娯楽性は高い。と、同時に宮崎の本音と思われる<難解な>テーマ性は健在だ。今回はこれを中心に書いておく。

テーマ性は、スローガンである「生まれてきてよかった」から容易に読み取れる。

オープニングの農場でフジモトが魔法?で人工的に生命を繁殖させている。目的は「命の水」で生命を爆発させて、いまわしい人間の時代を終わらせること。自ら自発的に人間になろうとしたポニョには「幼く無垢であればいい」と手厳しい。ポニョは「命の水」を不意に使って一時的に人間になってしまい、フジモトの計画は失敗に終わる。人間になったポニョは「灯り」に興味を持つ。灯りは文明の象徴としてよく使われる。インスタントラーメンも魔法のように描写される。その後、ポニョはトンネルに入ると弱まってしまい魚に戻ってしまう。海へ帰るか人間として暮らすかを再帰的に選択することになる。試練を超えて人間になろうとする。

これらの物語構造から、人工的にDNAに介入する考えは否定され、生身の「人間になる」ことが望ましいと解釈できる。ただ、そのための「出産」は大変だというワケだ。

それを裏付けるようなメタファーが満載である。ポニョは胎児、回りの小さいポニョは精子、包み込む泡は卵子で、破る描写もある。ろうそくは「命」のメタファー。トンネルは産道を逆から入るイメージだ。宗介が「通ったことある」と言いポニョ「ここ嫌い」と嫌悪する。ポニョは人間のままでいたいので元に戻るのは嫌なのだ。最後の球状のシーンで、洪水の被害を受けたはずの老婆が歩いているのは生と死の境にいるから。宗介とリサとトキは生きているためか、しゃべると泡ぶくが出る。泳ぐ素振りをするのは羊水を示しているのだろう。

「出産」の過程で発生する「洪水」の描写が特異だ。「洪水」は要するに「ハルマゲドンもの」なのだが「ほのぼの」とした雰囲気のため絶望感はない。街の水没したというのに、誰も悲観的になっていない。「ほのぼの」と描かれている。ポニョや魔物?といった不思議な存在にも、リサの「不思議なことがいっぱい起きてるけど今は何故なのか分からない。でもそのうち分かるでしょ」というセリフもある。

宮崎がパンフレットで神経症の時代に送ると書いていたが、なるほど確かに現代社会は不安神経症だ。とくに日本はくだらないニュースでバカ騒ぎ。統計上は増えていないにも関わらず少年犯罪のニュースが毎日、放送される。やれ教育が悪い、マスコミが悪い、若者が悪い、外国人が悪い、監視カメラをつけよう。GPS携帯で子供を守ろう。フィルタリングで有害メディアを規制しよう。毎日が不安との戦いだ。

こんな社会だからこそ「ほのぼの」とした「安心」が必要かもしれない。それはとても正しいメッセージ。洪水になったって別に騒がなくても良いじゃないか。苦しくても何とかやっていける。だから人間になることが良いように描くことができている。これが言いたいことだろう。

しかし、だ。

ちょっと待って欲しい。不安な社会に安心のメッセージが必要なのはわかる。だけど、取り方1つで、より危険な方向に行ってしまうのではないか。洪水でも人々が幸せでいられるのは何故なのか。見方によっては、単なる現状肯定主義に陥っているだけで「いや、洪水の人生もあるよね」と不幸を認めずに自己満足しているようにも見える。例えるならば、彼氏に嫌なことをされても好きだからと別れようとしない女性のようだ。極論すれば「苦しいことがあっても良いよね」は、ファシズム国家のプロパガンダと変わらないとも言える。

本来、悲観すべき箇所をフィクションとしての「ほのぼの」感で包み込み偽装している印象を受けてしまう。ポニョに限らず宮崎アニメ全体に共通していることだが「笑顔で、子供が親と会話している」こと自体が既に偽装だ。児童虐待が先進国中最高クラスに多い国が日本だ。虐待までいかなくても会話することにメリットを感じる子供は少ない。まして親を呼びつけにしたり、仲良くドライブなどするだろうか? ありえない光景である。保育園での元気にあいさつをする少女についても同様のことが言える。この状況下では「ほのぼの」感はリアルに感じられない。

この作品は「笑顔で親と会話できる幸せな人」だけが「ほのぼの」しているから「洪水」も受け入れられる。共感して「生まれてきてよかった」と思う。それだけの話だ。残された人にはメッセージは届くとは思えない。

「過剰な不安」はいらない。だけど「過剰な安心」もいらない。

減点要素も3つある。波の魔物がもののけ・千尋・ハウルでも登場したドロドロ系である。さすがにもう飽きたというものだ。お馴染みの環境への視点は「目に見えるタイプ」のゴミが描かれているが、最新の状況はむしろ「目に見えないタイプ」のゴミが主流である。公害問題の名残を残す必要があると感じたのかもしれないが、これも飽きてしまった。また、人工的な生命の否定も安易な感がある。

「命の水」の海へ帰ろうとする人が続出する現代社会において、真に必要なのは「生まれてこないほうが、よかった」という歴然たる現実を“理解”するメッセージだ。“理解”のない「安心」の押しつけはそれ自体が「不安」になりうる逆説である。希望はそれを踏まえた先にある。

点数:25点。

【25点】崖の上のポニョ − けいじばん@委員会
http://bell.so.land.to/?q=node/26  

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