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「さかなのうた」に想う(神州の泉)
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投稿者 忍 日時 2008 年 3 月 24 日 11:55:14: wSkXaMWcMRZGI
 

「さかなのうた」に想う(神州雑感)

一、神州という言葉に惹かれて

 私がこのブログをはじめたのは、単純に言って、「神州」という言葉に強く感化されたからである。はじめて意識した神州という言葉が、眠っていた私の深部を奇妙に揺さぶった。それまでは私の意識の奥底に茫漠と沈潜していた日本の風景が、神州というキーワードによって一瞬鮮明な姿として脳裏に映し出されたのである。神州という言葉には不思議な光輝が宿っている。その古風な言葉は、今は忘れかけた淡くてすがすがしい日本のたたずまいを亡羊としたもやの中に浮かび上がらせる。それは現実的な風景というよりも、日本人すべてが、生まれながらの日本的霊性を凝集し、現実の風景を絵画的な風景に再構成したという感じである。他人に言ってもそのニュアンスは伝えられないかもしれないが、神州の絵画的イメージを惹起する鍵となるものが靖国神社の境内にある。それは参道の途中にある神門に飾られた直径一メートルはあろうかと思える大きな菊の御紋章である。この御紋章には神武天皇以来、日本人の心に燦然と輝き続けている霊的な日本の光輝がある。神州とは日本人すべての心に宿る原初的な精神原像のことなのだ。

 今から40年以上前の幼少年期、ふるさとの山野に遊んだ自分の原体験をもとに、日本の風景論や文化論を多角的に考えてみたいという単純な動機からこのブログを始めた。ところが、いざ始めてみると当初の思惑とは違って、政治や時事ニュースの感想ブログになっていた。その上、人間関係の綾なす織りは不思議なもので、いつの間にか、エコノミストの植草一秀さんを応援していたり、現在は日本経済復活の会の会長さんの積極財政論シリーズをこのブログで連載していただいたりしている。植草一秀さんが遭遇した身に覚えのない濡れ衣事件については、調べれば調べるほど、彼の良心が理不尽な迫害を受けているという結論しか出てこない。この日本が本来的な日本人の精神土壌から乖離して、アメリカ的な唯物主義、金銭至上主義的な方向へねじれて来たことが見えてくる。昨今の日本を囲繞する真の問題は新自由主義である。この新自由主義が根付いた土壌にはGHQが刷り込んだWGIPという東京裁判史観とマルクス主義の連結があった。戦後教育とこの連結史観によって、日本人の心から伝統的霊性が徐々に失われ、1970年代からは、その空白の精神土壌に新自由主義が静かに根を下ろしてきた。

二、新自由主義の台頭

 日本人は新自由主義を経済の一形態としてしか理解していないが、実はこれこそが伝統や固有の文化を根こそぎ無化する破壊的なイデオロギーだったのだ。小泉純一郎氏や竹中平蔵氏の欺瞞の構造改革によって、日本の基礎構造(国体)が揺らいでしまった。それほど彼らの採用した国策は国家の屋台骨を危ういものにした。私は経済にはすこぶる疎いのであるが、どういうわけか最近は経済のことがらに縁が深くなっている。小野会長にしても、植草さんにしても、城内実さんにしても、彼らは斯界にあっては、ずば抜けて優れた頭脳の持ち主であり、知的フィールドにおいては私のような凡庸な人間との共通性はない。しかし、一つだけ思いを同じにしている部分があるとするなら、それは壊れかけたこの日本を修復したいという切なる気持ちであろうか。このような優れた方々と私を結ぶ線があるとするなら、それは日本回復への情念だと思う。

 小野会長や植草一秀さん、城内実さんに共通することは、この青息吐息の弱った日本に万民幸福の原理を実現したいという願いであろう。わかりやすく言うなら、小野会長は日本人を貧乏にしてはいかんと言い、植草さんは弱者を掃き捨てるような社会ではなく、経世済民の実現を願っている。城内さんも弱者に優しく地方に暖かい万民幸福の政治理念を持つ。三者とも、同じ願いと展望をこの日本に抱いている。私がささやかながら関わったこのお三方が、然るべき地位に付き、病みつかれた日本を再生する大きな力になってくれることを願っている。今の日本は本気で日本を考える有能な人が叩かれてしまうことが多い。気をつけなければならないのは、マスメディアが好んで取り上げ、持ち上げる人物は国民を崖っぷちに導くハメルーンの笛吹き男の場合が多い。メディアは小泉純一郎を異常に礼賛し、御用学者たちはそれを援用した。その結果、日本にもたらされた惨禍は記憶に新しい。日本の崩壊は今に始まったことではないのだが、小泉政権によって急速に自壊速度が早まった。55年も生きていると日本社会の空気の変化がよくわかる。新自由主義という猛毒の潮流が日本を深部から痛めつけているのだ。

三、英霊の言乃葉(えいれいのことのは)

 ブログをやっていて、植草さんを嵌めた国を売る勢力が放っている瘴気紛々たるおぞましい気配を感じたり、日本人が人間としてだんだん劣化してゆく姿を日々のニュースで見ていると、気持ちが汚れた曇りガラスのようになる。今の日本の生活風景は醜悪である。都市に行っても、地方に行っても、私が少年のころの風景とはまったく異なった異様なたたずまいが目に入る。山も、川も、谷も、田んぼも、畑も依然としてあるが、それは以前のような清新な輝きを持たず、まるで日本列島全体が毒物を散布されて醜悪なただれを帯びたように、その光景はくすんでしまった。安倍晋三元首相は「美しい国へ」を政策基調のモットーに掲げた。しかし、小泉政権が敷いたネオリベ政策を踏襲したために、彼の理想とした国家構想は絵に描いた餅の域から出ることはなかった。それどころか、新自由主義の暴虐性は、戦後にかろうじて残存していた日本の良さや美しさを徹底的に破壊しつくしてしまった。日本を蚕食する真の問題は左翼や右翼思想というイデオロギーではなく、37年前に三島由紀夫が洞察していた無国籍化という現代思潮にある。

 それは左でも右でもなく、ネオリベラリズムである。経済政策として理解される新自由主義は、左右思想の枠を超えてイデオロギー化し、それは文明破壊の猛毒を秘めた代物だった。日本の再生を願う人たちは、今の日本の状況を左右思想の桎梏ではなく、社会ダーウィニズムを基調とした市場原理至上主義の問題として捉え、そこからの脱却を計らねばならない。ここで重要なことは、新自由主義を経済の一方法論として捉えることの間違いである。新自由主義はすでにイデオロギー化して日本人の心を野獣的な野蛮性に変えつつある。これを阻止して、もとの日本的霊性に日本人を軌道修正するためには、日本人が忘却つつある神州の風景を心に甦らせることである。神州という言葉は、戦後生まれにとっては大東亜戦争という言葉と同様に馴染みの薄い感じであり、その言葉を見てかすかに記憶にひっかかるものを感じたとしても、あえて意識の表層に乗せることを拒む言葉の一つなのであろう。私は四十路に達して、神州という言葉を目にし、大東亜戦争史観とは別に、景観論的な方向性からこの言葉に強く感応した。とは言ってみても、神州という言葉を初めて強く意識したのは、大東亜戦争史観とは不即不離である靖国神社が出版する「英霊の言之葉(1)」を読んだときであった。

 そこには、特攻兵器「回天」の訓練中、海底で事故死した若き海軍大尉の遺書があり、その中に「神州ノ尊 神州ノ美 我今疑ハズ 莞爾トシテユク万歳」という記述があった。海底に座礁した回天の中で死を待つばかりのとき、彼の末期の目に映った日本の尊厳や美しい風景は奇しくも「神州」という言葉で表現されていた。海底に座礁し、酸素の乏しくなってきた回天の絶望の中で、死が訪れるわずかの間、この若い海軍大尉は日本に神州の尊厳と美を確信した。そして最後の言葉を残して従容と旅立って行った。彼の死に様は特攻の潔い戦死ではない。無念の事故死であり、しかも狭い艇内、酸素欠乏で死ぬまで時間が残されているという地獄の状況にあった。しかし、それでも後輩に必要なことを書き残し、神州の美しさを讃仰しながら泰然として死に赴いた。私は彼の記述を目にした時、一晩中涙が止まらなかった。と同時に、私はある種の霊感に打たれ、この言葉をキーワードとして、日本の霊的な風景を垣間見る思いがした。神州という言葉には日本人特有の内面を構成する心象風景の原像がある。

 日本人は日常的な生活においては日本の風景を絵画的に意識することはない。それは田舎で野外作業に従事し、慣習的に自然の風景を見慣れている人にあってもそうである。しかし、死に臨んだときの日本人は、末期の目に映る風景として、一瞬のうちに、凝集的に日本の美を内面のスクリーンに垣間見るようである。吉田満の書いた「戦艦大和ノ最後」にも末期の目に映じた日本がある。日本人は内面が日本的な風景と一体化していたのだ。だからこそ、日本には欧米の観念が流入する明治まで独自の風景論がなかったのだ。ところで、特攻に関して気になることがある。最近は右派論陣の中にも、特攻という事象を美化せずにプラグマティックに捉えろという、ほとんど左翼的な思潮が主流になってきたようだが、私はまっこうからそれを否定する。なぜならその論調には日本人としての心象風景が存在しないからである。

 臆せずに私の解釈を言わせてもらうなら、特攻心情とは、祖国愛の静かなる表出として「もののあはれ」が究極的に凝縮したものである。その精神風景にはいっぺんの野蛮性も濁りも存在しない。この民族性のアーキタイプ(原型)が理解できないと、特攻と自爆テロを同位同列に捉えてしまうという間違いを犯してしまう。戦後の日本人は東京裁判史観の刷り込みによって、戦前思想や戦前の内面風景をことごとく喜捨する方向に進んでしまったが、民族には時代によって変わらない心の形があるはずである。戦前の日本人の心のあり方にはけっして捨ててはならないものがあったはずだ。現代日本人はこの心のアーキタイプを無価値化したために日常性が無国籍化してしまった。こう述べてもわからない人は大勢いるだろうが、我が国の長い歴史の中で、美しい風土とそこに住む人間の内面性の関係を黙考すると、特攻の基本心情が深く祖国を慈しむ詩情に満ち溢れたものであることがよくわかる。

 四、童謡、文部省唱歌にこそ、神州風景の原点がある

 風土とそこに住む者の内面との濃密な相関性。これこそ日本人の心象風景の基本形である。私はけっして難解なことを述べてはいない。たとえば、風土と内面の関係をよく表すものが最近までわかりやすい形としてごく身近なところにあった。それが戦後でも比較的最近まで学校で取り入れられていた文部省唱歌なのである。私の年代も子供のころ、よくなじんだ唱歌がたくさんあったが、戦前は私の知らないよい唱歌がたくさんあったと思う。文部省唱歌には、万葉の詩詠み人であった我々の祖先が目にしていた美しい自然への讃歌やもののあはれが、単純でわかりやすいメロディーや歌詞にさりげなく込められている。これが親しみやすい旋律や単純明快な言葉を通して、詩情豊かに子供たちの心にストレートに入っていたのである。

 文部省唱歌は子供たちの情操教育にもっとも直截に、効果的に訴える力を持っている。外で遊ぶ子供たちは、身近な里山や川辺の自然を親や仲間たちと一緒に過ごし、文部省唱歌に込められた自然のエッセンスを素直に内面に取り入れる心的行動様態を身に着けるのである。この在り方こそ徳育の基本である。ところで、私が城内実さんを応援する理由は、彼の筋を曲げない一貫性にもあるが、やはり彼の基本的な世界観を認めているからでもある。その一つには彼が童謡や文部省唱歌を評価していることも大きい。藤原正彦氏との対談で城内さんは童謡、あるいは文部省唱歌の復活を説いている。これだけでも彼が真の日本復活の展望を持つ政治家であることがよくわかる。ちなみに私が特に好きな歌は「紅葉(もみじ)」である。

紅葉(もみじ)
         高野辰之
一、
  秋の夕日に照る山紅葉、(もみじ )
  濃いも薄いも數(かず)ある中に、
  松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は、
  山のふもとの裾模樣(すそもよう)。
二、
  溪(たに)の流に散り浮く紅葉、(もみじ )
  波にゆられて離(はな)れて寄つて、
  赤や黄色(きいろ)の色さまざまに、
  水の上にも織る錦(にしき)。

 五、神州模様とは白砂青松、山紫水明

 話が逸れたので神州論にもどす。さて、「神州ノ尊 神州ノ美」であるが、 私はその記述を読んだとき、自分の幼年期に味わった自然体験の瑞々しい感動と結びついて、日本本来の風土や自然の美を強く意識し、日本人の精神性が豊饒な自然と不可分であることを悟った。ただ、日本人は明治になるまで自然(natural)という言葉を持たなかったということを考えると、それまでの日本人はあまりにも自然と深くなじみすぎていて、自然に対して我(われ)があるという対置的な客観性を持たなかったようだ。つまり日本人の精神性は自然と融合していたのである。我と自然が同化して日本人の精神を形作っていた部分は否定できない。あまりにも自然が内面的に入り込んでいて、欧米人のように対置的な視点で自然を捉える慣習はなかったのである。そのために、戦後における日本人の環境保全概念は最悪の様相を帯びた。

 つまり、日本人の気持ちには自然を保全するという感覚がないのである。それはあまりにも自然が内面化していて客観性を持たず、当然、それを保全するという思考が出てこないのである。もう少しわかりやすく言うと、日本人の自然観は徹底的に内面化されているために、心象風景の崩れはそのまま、外の周辺環境を醜くするのである。ドイツ人やフランス人など欧州人は自然を客観物として対象化するので環境保全概念は発達している。日本人は自然を内面の延長として意識するために、内面の荒廃がそのまま周辺環境の荒廃をもたらしてしまう。これは建築や街並みなどの人工物に対しても同様である。戦後日本の街路や街並みは気持ちが萎縮するほど醜悪である。戦後日本は秀麗な自然の山々の天然林を破壊して単調で無機的な人工林に置き換えてしまった。そのために杉花粉症に苦しめられていると言うが、もっと破壊的だったことは日本人の情操の破壊が起こったことである。もののあはれを伝統的に解する日本人は、その根幹的な情操を基にした審美的な眼を、アメリカ的な文明摂取とともに喪失するという歴史的な愚行に邁進してしまったのだ。

 白砂青松、山紫水明を自己的な生活風景として当然のように享受していた日本人は、戦後民主主義の到来とともにその感覚を喪失した。山野を開墾し、片っ端から日本全土の自然林をつぶし、産業に役立てるために美しく豊饒なる天然林を人工林に置き換えた。河川を堰き止め、川辺や海辺をコンクリートの人工護岸に置き換えた。そのために民族の原初的な情操、情感は破壊されてしまった。同時に子供たちから、美しい自然を讃美した童謡や文部省唱歌が失われていった。これが戦後教育荒廃の根幹的原因である。戦後教育に取り込まれた東京裁判史観によって精神の深部を蚕食され、同時に美しい天然林をつぶして人工林に置き換えたために、山や老木、岩などに対する畏れや信仰を失った。

六、徳育の基層には豊葦原瑞穂国の秀麗な情景がある

 我々は、教育と言えば、ともすれば学校の教室で教わる人文科学的な世界をイメージするが、人間に必要な教育は知育と徳育のバランスにあることを気付かねばならない。特に情操教育は徳育の基本である。日本人の徳育は、核家族化の前、三世代が同居する大家族時代には祖父母が孫に人として必要なことを教えていた。人倫の基本である。しかし、当時の日本人の徳育にはもう一つの重要な要素があったと思う。それこそが水田や河川の美しさ、そして里山や奥山の美しさであったと思う。欧米型の産業文明にあまり侵食されていなかった時代は、原初的な自然として、日本固有の秀麗な風景がいたるところに見受けられた。この美しい山村の風景が、子供のみならず大人たちの精神性にも大きな影響を与え、情緒的な意味で徳育の要素になっていた。つまり、自然の美しさが日本人の深い情緒性を涵養していたのだ。

 ここで話の流れを神州論に合流させる。特攻兵器「回天」の訓練中、機関の故障により海底に座礁し、救助の見込みのない中で、ただ死を待つばかりの最後に書かれた遺書には「神州ノ尊 神州ノ美」が書かれていた。若き海軍大尉の末期の眼には、「神州」の美しい情景が映っていた。この情景こそ、日本の故郷や日本人に対する尽きせぬ深い愛情である。この風景は特攻訓練をしていた当時の日本人の心だけにあったものではない。現代日本人の心にもきっとその心の窓は残っているに違いない。戦後の日本人はひどく劣化してしまった。もちろん、本物の教育原理が失われたあとでこの世に生を受けた若い世代も、当然のようにひどい劣化を起こしている。しかも、日本には本物の教育環境が損なわれた代わりに、新自由主義という殺伐とした非人間的な思潮が覆い尽くすことになった。最悪である。しかし、若い者のDNAには、悠久の時間で磨かれた民族の情緒的感性をしっかりと保っている者が次々と出ていることも事実である。これは絶望の中の希望である。

七、終章、「さかなのうた」・・・それは希望の轍(わだち)

ここまで荒廃、劣化した日本列島にも、まだ希望の光が輝くこともある。それは若い人の感性が美しく花開いているのを見つめる時である。ネットで偶然に見つけたが、公開されている動画にとても美しいアートがあった。それは東京工芸大学の犬尾さんという人の自主制作音楽アニメ「さかなのうた」である。最初何気なくこの作品を見ていたら、妙に気持ちが惹きつけられ、何度も見て音楽を聴いているうちに深く癒されてきた。なんというか、みょうに心の深部に入ってくるアートである。

 アニメも非常に洗練されていて美しい。空を飛ぶシーラカンスを思わせる幻想的でメカニックな魚がゆっくりと動くさまは、あたかも太古に流れていた時間が視覚化したような不思議な光景になっている。そしてこれも幻想的で暗い静かな森が出てくるが、そこにたたずむ少年の姿は、一幅の静かな絵画を眺めているようで、美しい。また音楽は作者自身が演奏し、歌っていると思うが、このフラクタルな波のような音楽は静謐さがあり、心地よい。そして内省的な気分に満ちている。視覚でも、聴覚でも、この作品は相当な完成度を持つというか、一つの高度な芸術作品である。作者がどのような思想で作ったのか知らないが、少なくとも現代の慌しい殺伐とした世界に流れる時間とはまったく異なる、人類が忘却した遠い太古のやさしい時間に誘(いざな)われるような気分になる。この作品のモチーフとなっている少年と空は永遠の時間を象徴している。

 しかし、繰り返して聴いていると、深い慰めを感じる不思議なアートである。昔、幼いころ、暗いブナの木々の中を一人で歩いている時に感じた清涼な孤独感と奇妙に共振するものがある。街に流れる時間とはまったく別種の太古の時間が見えるようだ。心の琴線に触れるという表現はよく聞くが、この作品はまさにそれである。私の神州論は大したものではないが、この「さかなのうた」は是非鑑賞して欲しいと思う。気持ちが何ともいえない深い静けさに満ちてくること請け合いである。日本人も捨てたものではないと思う。欧米の近代主義とは違う日本特有のスピリチュアルな美しい世界を少し覗いたような気がした。

   http://zoome.jp/inuo/diary/2/

神州の泉
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2008/03/post_bf77.html

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