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2008年10月26日(日)
動物化するポストモダン
たしか「2年間の獄中生活」の過程で読んだこの本を久々に読書会で読み返しているわけだが。
『青いムーブメント』で全否定した、大澤真幸や宮台真司の歴史観が前提となっているような本であり、間違いだらけではあるがそれでもかなり参考になる部分もある。そもそも、私のファシズム論にもこの本で提示された視点がかなり濃厚に反映されている。つまり東は「動物化」を必然的でやむを得ないものとしてどちらかといえば肯定的にとらえているのに対して、私はやはり「動物化」それ自体は東の云うように資本主義の高度化にともなう「必然」であるという認識には賛同するが、社会がそのような方向に進むことを何としてでも阻止する、「必然性」に「可能性」を対置する、「欲望(この本では区別して使っているが「欲求」でもいい)に「意志」を対置する、ファシズムとは先輩ヒトラーがうまいこと云ったように「意志の勝利」を目指すものである、といった感じに私は大いに東に影響された上でそれを否定する立場である。
それはいいとして、歴史観である。
東は、大澤の1945年から70年までを「理想の時代」、70年から95年までを「虚構の時代」とする(前者の極点に72年の連合赤軍事件が、後者のそれにオウム事件がおかれる)歴史区分をそのまま肯定し、95年以降を「動物の時代」とする。「理想の時代」とは「大きな物語」がまっすぐに信じられていた時代であり、「虚構の時代」とは「大きな物語」の失効を承知の上でその代替物の捏造に情熱が注がれた時代、そして「動物の時代」とは「大きな物語」そのものがその捏造物も含めて必要とされなくなった時代、ということになる。
しかし、東も言及しているとおり、実は20世紀そのものが「虚構の時代」でもある。ここでいう「20世紀」とは1914年から89年までを指す。自由や民主主義や科学技術の進歩といった近代的な理想への素朴な信頼が崩壊したのが第一次大戦という時代経験である、という指摘は、これはもういろんな人がおこなっている。あまり本を読まない私ですら、柄谷行人、笠井潔、福田和也その他、立場を異にする複数の論者たちの文章で何度もそういう話を読んだ。素朴な進歩史観を過激に乗り越えようとしたいわば虚構の実験がマルクス・レーニン主義だという話でもある。日本は第一次大戦に深くは関わらなかったのでこの歴史の転換にしばらく気づかず、だから大正デモクラシーなどという素朴な進歩主義が流行した時代が一次大戦の直後に現れるが、関東大震災という一次大戦の代替物のような経験を経たこともあり、欧米での一次大戦の前と後のような断絶が、大正と昭和の間に存在し、大正教養主義を否定する「野蛮な情熱」を抱いたプロレタリア文学者なんかが登場する。柄谷やスガ氏の本にそういう話が何度も出てくる。
しかし日本の場合この後さらに第二次大戦での敗北という特殊な事態があり、その戦前と戦後が断絶してしまう。近代的な理想への素朴な信頼が崩壊したことをふまえての試行錯誤という前提がいったん打ち切られ、そんな試行錯誤などなかったかのような「戦後民主主義」の時代が始まる。だから話がややこしくもなるのだが、しかし戦後の話に限ったとしても、1945-70、70-95という区切り方はやはり大間違いである。東君、笠井潔やスガ秀実の本をもっとよく読みなさい(いや東君、まずは柄谷行人を読みなさい)。60年安保闘争はあるいは戦後民主主義的な理想の極点だったかもしれないが、全共闘はその「擬制の終焉」を前提とした運動、つまり大澤や東の云う「虚構の時代」の運動である。その時代を特徴づける「フェイクな物語(「大きな物語」の捏造)」への情熱に関しても、全共闘運動の延長線上に「偽史的情熱」が生まれたと笠井の本にもスガ氏の本にもある。あるいは「大きな物語」の失効の自覚からその捏造へと向かう回路の過程で発生する、「大きな物語」への「小さな物語」の対置という話にしても、全共闘運動の70年代的形態の主流である反差別運動とはつまりそういうことであり、その転換点となった70年の華青闘告発が重要なのだという話も、これまたスガ氏の本に出てくる。
あるいはそのように60年安保までと全共闘とを分けなくとも、実はスターリン型の古典的マルクス・レーニン主義の運動に対抗して登場した新左翼運動そのものが「偽史的運動」だったという視点すら、スガ氏の本にはある。さらには大澤や東の注目する70年代80年代のサブカルチャーにしても、その初期においては全共闘的な問題意識や感性が基盤にあったことは、他ならぬ大澤や東自身が言及してもいることである。そしてそういう全共闘的な基盤が、80年代のどこかで失われたということも。
つまり、戦前のことはあえておいといて、戦後に限った話としても、「理想の時代」「虚構の時代」「動物の時代」の区切りを、1945年-67年(全共闘運動への画期をなす第一次羽田闘争の年)、67年-84年(サブカルチャー的な価値観の勝利、国教化≠ツまりは堕落が決定づけられたニューアカ・ブームの年)、84年-現在というふうに置き換えて、大澤や東の議論は読まれるべきである(「67年」はスターリン批判とハンガリー事件の「56年」としてもよい)。
てゆーか、笠井やスガ氏や柄谷の難しい本をあえて読まなくても、私の『青いムーブメント』を読めば分かることなんだけど。つまり東君は私の本を読んでもっと勉強したまえ、という話。
というわけで引き続き読書会は東浩紀の『動物化するポストモダン』。読書会の前の上映会は、今日は『チャイナ・シンドローム』。原発問題をからめたハリウッド・アクションである。
ちなみに昨日の3本目の上映に、塾生たちはインド映画『大地のうた』を選んだそう。渋い。資料として置いてるだけで、私もまだ観てないのに。私は「アメリカ大統領選挙演説」でも公言しているとおり、趣味がハリウッドに偏っているからなあ。
http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10156451146.html
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