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座 頭 市 物 語
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投稿者 きすぐれ真一 日時 2008 年 12 月 17 日 00:03:19: HyQF24IvCTDS6
 

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座 頭 市 物 語 ・ 1

【解題】 著者・子母澤 寛(明治二五〜昭和四三年)。北海道生れ。

祖父は彰義隊に参加した徳川遺臣であった。大正末年、東京日日新聞の社会部に入り、『戊辰物語』をはじめ、囲みものの記事を取材執筆しているうちに幕末や遊侠の世界に目を向け、『新選組始末記』(昭三)『遊侠奇談』(昭五)を発表。以後『勝海舟』『父子鷹』『弥太郎笠』『国定忠次』など陸続と大作をものした。


「座頭市」といえば、すぐに勝新太郎の姿が浮かぶほど、勝の当たり役だった。 

座頭市という盲目のやくざで居合斬りの達人であった男を発掘したのは、子母澤寛である。子母澤の随想集「ふところ手帖」は、昭和三十年(一九五五)十月から十二月にかけて「週刊読売」誌上に連載された。この中の一篇に「座頭市物語」のタイトルで紹介されている物語に着目して映画化した大映京都撮影所の企画は、見事に当たり、長いシリーズとして続いた。

映画化された第一作「座頭市物語」は、以下の短い原作を脚色して、昭和三十七年(一九六二)に三隅研次が監督をした。最初の座頭市は頭を剃り青坊主であった。後に続く座頭市では頭は五分刈りくらいだった。 技巧派の三隅研次だけに、座頭市が揮う居合の妙技には迫力があった。座頭市と対立する笹川繁蔵方の用心棒平手造酒に扮した天知茂もすばらしかった。

以後、「座頭市地獄旅」「座頭市逆手斬り」等々が相次いで二十六本が映画化され、テレビ連続映画にも登場した。勝が見えない眼をむいたり、茶碗飯をがつがつ食う仕草、按摩をする所作などは誰も真似のできない絶品の芸だった。最近、北野武(ビートたけし)がリメイクの映画を監督・主演したが、芸では貫禄が違った。
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天保の頃、下総飯岡の石渡助五郎のところに座頭市という盲目の子分がいた。何処からか流れ込んで来て盃をもらった男だが、もういい年配で、でっぷりとした大きな男、それが頭を剃って、柄の長い長脇差をさして歩いているところは、どう見ても盲目などとは思えなかった。 

それだけに、物凄い程の勘で、ばくち場へ行っても、じっとしていてにやりと笑った時は、もう壷の内の賽の目をよんでいて、百遍に一度もそれが違ったことがなかったという。

壷ふりはちらッと市の顔色をうかがう、丁なら丁、半なら半、かねて打合せの合図で知らせる。これに狂いが無いんだから、市がその場にいるかぎり、ばくちの盆は全く壷ふりの思うようになった。

何処の生れか、どんな素姓の奴かわからないが、とにかく按摩で関八州を股にかけて渡った者で、みんな見た通りに座頭座頭といったが、市という名も市太郎か市五郎か、それとも出鱈目か、わからなかった。 

大酒をするが、かつて一度も乱れない。おたねという貧乏漁師滝蔵というものの若い娘を手なずけて、これと二人で滝蔵の納屋に少し手を入れてここに住んでいる。

こ奴、目あきよりも余っ程辛子がきいていて怖い。飯岡に世帯を持っている助五郎身内七十幾人、助五郎と妾およしの間に生れた堺屋与助、助五郎の本家、相州三浦都公卿生れの石渡孫治郎、横芝村一帯を預っている成田の甚蔵のような奴も、この座頭市には日頃も一目も二目もおいている。

 

何故かというと、市は、盲目でありながら、刀の柄へ手をかけただけで、対手が縮んでしまうという位に抜刀術居合がうまい。いや、うまいなんぞと一口で片づけられない大した腕で、その気合に入ると、知らず知らず四辺の者がしーんとするような、まことに不気味な鬼気が迫ったものだという。 

中年からの盲目だったらしく、その証拠には、物の色というものをよく知っていたし、多少の文字もあって、時にむずかしい言葉を使って、やくざ共へ講釈などをした。

助五郎の常ばくち場は、飯岡の川端というところにあって、間口五間、奥行八間の建物、その中に、煮込みおでんや小皿盛、菓子の常見世があり、横手に幅二尺足らずの浅い綺麗な川がさらさら流れていて、この岸にも、いろんな食物の見世があった。

助五郎の言いつけで、ここでは酒は一切禁じてあったが、それでも時々詰らない喧嘩などがある。座頭市が出て行って、割って入る。

「今おれが面白い事をして見せてやる。それがすんでから喧嘩をしろ」 

そういって小さな桶のようなものを、誰かに宙へ投げさせる。 

それが落ちて来る途端、きーんと市の長脇差の鍔鳴りがする。いつ抜いたか、いつ斬ったか―桶は真っ二つになって地上に音を立てる。市の刀はその間にちゃんと鞘に納まって、市は呼吸は元より顔色も変えず、にやにやしている。

ある時、この小見世の煮肴屋へ禁制の酒を持ち込んで飲んだ揚句に喧嘩をした奴がある。市はそれを知って酒徳利を出させて、これを宙へ投げ上げさせた。 

落ちて来るのを、真っ二つ。しかも、それが口を真ん中から底へ真っすぐに斬っていた。二つのかけらを合わせると、ぴったりと元のままの徳利になった。 

こんな訳だから、市が顔を出すと、どんな喧嘩でもすぐに納まった。だから飯岡の堅気の人達は「市さん、市さん」といって、この人にだけは好意を持ったものだ。

天保十五年辰年八月六日暁天に飯岡助五郎一味房丁船三隻に約五十人分乗して、利根川を遡り、外に陸行の二十人を加え、総勢七十人で笹川河岸の岩瀬繁蔵を襲撃したが、繁蔵方では、かねてこんな事もあろうかと、邀撃の準備を怠らず、本陣を笹川河岸から五、六町はなれた西光寺と定め、子分達は連日連夜、喧嘩仕度で寺の庫裡へ詰め合わせ、一方、船着場は元より、利根川筋の真菰の中のあちこちに見張をかくして置くという用心深さだったので、助五郎は僅か二十九名に足らなかった笹川方を相手に見事に失敗し、繁蔵方では用心棒の平田深書が一人死んだのに、味方は即死、利兵衛(三十五歳)金治(三十五歳)友蔵(四十一歳)の三名。帰りの船の中で絶命した代貸元洲ノ崎の政吉(四十三歳)、相当な手負は、親分助五郎の背中の疵をはじめ、甚助、伊七、太兵衛の三人という結果ばかりか、死人手負を自分の船に収容することも出来ずに敗走した。    

二          

助五郎は八州取締出役手先頭だから、繁蔵一家を御用召にするつもりだったが、当時助五郎は五十一歳、繁蔵は醸造家の次男坊の若旦那で三十三歳、何んといっても二十歳近くも年の違う若い者を対手だから、助五郎は後年(安政六年四月十六日六十八まで存生)神田伯電子という講釈師をよんで、自伝を都合のいいように吹聴し、それに明治十三年まで存生した野手の熊五郎という子分が、その記録に筆を入れたものが残っているが、今日何んとなく評判の良くないのは当時の八州取締出役の汚職小役人と結んで、巧みに世渡りをしたことや、第一自分の子の堺屋与助の女房お万は繁蔵が仲人で一緒にした位である。しかも十五年の喧嘩の後は、繁蔵は一家残らずを草鞋をはかせ二、三年も縄張を空けた。これは言わば助五郎へ一応遠慮したという形にもなる。 

それにもかかわらず、与助を先鋒にして、笹川へ潜入させ、しかもお万の父親岩井常右衛門というものも承服させて手先きに使い、弘化四年七月四日(繁蔵三十八歳)笹川はずれのびやく橋の大榎の下で、妾お豊のところへ通う繁蔵を暗殺し、胴と首を別々にして、首は飯岡へ持ち帰り、胴はかますへ入れて利根川へ捨てた。 

繁蔵は多少は八幡流の剣術も出来、思慮もある男だったが、狙われているのを薄々知り鎖かたびらを着たりしていながら、色慾の道に迷い、うっかり子分もつれずたった一人で淋しい道を妾のところへ行こうとしたのが誤りであった。が、助五郎から見れば小僧ッ子のような若い者をしつっこく追いかけて殺した。世の中は弱い者や、不幸な者へ味方をする。助五郎と繁蔵、どっちも所詮は世の中のあぶれ者のやくざだ、俄かにどっちが良い、どっちが悪いとは断じられない。只どっちが人間としての筋を通したか、これが問題であろう。 

ところで、話は脇道へそれたが、例の座頭市である。 

天保十五年の襲撃の時は、「目の見えねえ男までつれて来たと言われては、後々、飯岡一家の名折れになる」といって加わらなかった。 

滝蔵の納屋で酒をのんで寝ころぴ、若い女房のおたねが足腰をさすってやっていた。が大変な不機嫌で、「飯岡助五郎も、この辺がどん詰りだな」 ひとり言のようにそんな事をいった。

「どうしてですかえ」 

おたねが言うと、それには答えず、暫くして、

「どうだ、おたね、ひょつとするとおれぁ草鞋を履かなくちゃあならねえような気がするが、お前、どうする」 

とぷつりといった。

「どうするって、何んの事ですか」

「一緒について来るか、それともここへ残るかと言うことよ」

「何をいってるんです。わたしは、あんたの女房ですよ」

「それぁそうだ―がなあ。おれぁもう盛りを過ぎた年だ。それにお前おれについて歩いたら座頭の手曳きみてえで、恥かしいだろうが」

「わたしがお前さんと一緒になった時から、お前さんは盲目ですよ」

「こ奴あやられた。お前は、若けえに似ず、忌やに理屈が立つなあ」

「それとももう飽きたというなら棄てていらっしゃいよ」

「飛んでもねえ、おれぁ、近頃妙にこう、おれのような男にかしずくお前が可哀そうな気がしてなあ」

「手後れですよう」

「ほんとだった。すまねえ―」    

三 

笹川から失敗して、みんなへとへとで帰って来たが、市は誰にも「どうでした」とも訊かなかった。が、一家の中で、日頃遣る事も言う事も一番立派だった政吉が死んだと知ると、おたねと二人、とことこと下永井村の政吉の家へやって行って、いつ迄もその新仏の前へ坐っていた。 

帰り途で、 

「おたね、政さんは立派だなあ。おれぁ、あの人は、きっと生きてけえらねえだろうと思っていたよ」 

「どうしてですか」 

「今にわかるよ。おれが草鞋を履くかも知れねえといった言葉と一緒にな」 

「え?」 「政さんは、命を投げ出して、諸国の親分衆の前に自分の親分の汚名を帳消しにする気だったろうが、可哀そうだが、そうは行くめえ。政さんはほめるが、親分はやっぱり悪口されるよ。もう飯岡の若いもんだと旅を廻っても、今迄のような訳には行くめえな」

「そうですかJ

「人間はな、慾には際限のねえもんだ。親分も、金も出来、子分も出来、役人達もすっかり手に入ったとなると、その上の慾が出た。出たから人の道を踏みはずした。おれはな、親分の兄弟分松岸の半次が、八州さんの桑山盛助の旦那のお妾のお古を下げ渡されて大よろこびをしているときいた時から、これはもういけねえと思ったよ。な、やくざぁな、御法度の裏街道を行く渡世だ、言わば天下の悪党だ。こ奴がお役人方と結託するようになっては、もう渡世の筋目は通らねえものだ。おれ達ぁ、いつもいつも御法というものに追われつづけ、堅気さんのお情でお袖のうらに隠して貰ってやっと生きて行く、それが本当だ。それをお役人と結託して、お天道様へ、大きな顔を向けて歩くような根性になってはいけねえもんだよ。え、悪い事をして生きて行く野郎に、大手をふって天下を通行されて堪るか」

言葉の途中からひどくむかむかして来たようで、時々、足へさわった石ころを力任せに蹴ったりした。 

助五郎が繁蔵を暗殺したのは、それから三年後の話である。 

市は、川端のばくち場の戻りに、親分の家へ寄った。本妻のおすえは近頃からだが弱って二階でねていたが(安政六年九月十六日死去)、下座敷に助五郎の参謀役角力の行司くずれの信方の石松をはじめ重立った子分が集まって、酒盛りをやっている。

天蓋を深くかぶって虚無僧に化けて笹川へ潜入した与助は大胡坐で、自分達は松岸から仕立てて川を上って行った、舟を菰敷村散むらの真菰の中につなぎ、一先ずお万の実家にひそんで、それからその実家の手びきで、延命寺傍の伝七ノ常という笹川一家の三ン下を手なずけて、これに繁蔵の身辺をつけさせて、遂に目的を遂げた一切を得々としてしゃべっていた。 

市は黙ってきいていた。助五郎が何んと言うかと、そっちへ気を配っているようである。与助は元より孫治郎も甚蔵もひと通りいい気でしゃべって、さて言葉が終ると、

「みんなよくやった。繁の野郎もとうとう冥土かあ」

そういって、けらけら笑った。 

市は少し頬をゆがめた。そして、みんなはっと思った途端に助五郎の前に立っていた酒徳利が、ぱっと真っ二つに割れた。稲妻のように閃めいた刀はすでに鞘へ―。鍔鳴りだけがいつ迄も余韻をひいてそこに残っている。 

市はすっと立った。

「馬鹿奴らッ!盃はけえしたよ」 

みんな顔色を失ってがたがた慄え出した。

それっきり、市とおたねは元よりおやじの滝蔵も、飯岡から姿を消して終った。

その後の消息は確と知る由もないが、一説に足利在に住み百姓として静かな天寿を完うしたとも言うし、何んでも遠く岩代の安積山麓猪苗代湖の近くの小高い丘の辺りに住んだともいう。おたねは、湖に映る明月の夜を、座頭の妻として悲しんだかどうか。

(子母澤 寛、昭和三十年・週刊読売)  

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