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昔思ったこと。岡林信康は今何を考えているのだろう。興味のある­人だけどうぞ。こちらが読みやすいです。
http://www.asyura2.com/08/bd52/msg/702.html
投稿者 ヤハウエハのタタリ、祟りじゃ〜!! 日時 2008 年 5 月 02 日 06:32:52: DO6P.hRyTTh86
 

(回答先: 昔思ったこと。岡林信康は今何を考えているのだろう。興味のある人だけどうぞ。 投稿者 ヤハウエハのタタリ、祟りじゃ〜!! 日時 2008 年 5 月 02 日 06:16:28)

岡林信康(敬称略)について


(私の試論の結論)

 岡林信康はプロテスタントの反戦や反体制の旗手として見なされた時期がありましたが。確かに人を救済するという意味で、反体制のようなものと重なる部分があったかもしれない。しかし、本当は神の救いというものを社会の中で実際に生きてみて、牧師という自分の職業を見つめなおそうとしたのではないかと思う。彼が一時神学部を中退して、社会の中に入ったが、それは人々を救うとはどういうことかを試してみたかった。教会の中で教えを説くだけでは人々を救えないと思った。それが当時の学生運動と合わさる時期があった。しかし、そこでも救えないという事を感じ、それらから離れて自分探しの旅に出た。彼はキリスト教よりも何か旧約聖書のような世界に何か親近感を見出してのではないか。彼が岐阜県で農業を始めようと決め手、人々の前から自分の姿を消した。これが彼のいう自由への長い旅だった。彼によると、自然の中に回帰して行ったという。長いたびを終えて作ったアルバムは『金色のライオン』『誰ぞこの子に愛の手を』だった。旧約聖書のエピソードを入れて皮肉たっぷりに、又ある時は、慈愛の気持ちを添えて彼らしい曲が出来上がったような気がする。
 そして、今彼は何をもとめているのだろうか。


岡林信康の経歴  (ウイキペデイアより)

岡林信康の実家は教会。近江兄弟社中学を出て、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。在学中に、自らのキリスト教への信仰に疑問を感じた事がフォークに目覚めたきっかけだったとも言われている。1968年、山谷に住む日雇い労働者を題材とした『山谷ブルース』でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、『友よ』『手紙』『チューリップのアップリケ』『くそくらえ節』『がいこつの歌』などを作り、その内容から、多くの曲が放送禁止となった。「フォークの神様」と言われたが、労音との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップが
出来て、同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた。1970年になると、ボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどのバックで展開し始める。『それで自由になったのかい』『私たちの望むものは』『自由への長い旅』などの作品を発表する。

 1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。ロック路線のアルバム『金色のライオン』『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。


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(岡林信康の人となり)

 以上が岡林信康の概略歴であるが、この事を予備知識として、彼について私が感じたことを述べて彼の人となりを浮かべてみようと思う。


 私が岡林信康と言う人を知ったのは高校を卒業した頃で、東京の大学に進学した友達が田舎に帰省して来た。高校時代の仲間が集まって都会の話をしていた。すると、その友達がギターを手にして、「山谷ブルース」を弾きながら、うたい始めた。
 メロデイーと曲を聴きながら、簡素で素朴な感じのする歌だと思った。社会から追われて人生に失敗した男達の悲しさをうたったものだった。私は昔からこんな弱者の心にどういうわけか同情したり共感を感じる性質で、世の中には貧しい社会から捨てられた人たちの心を歌う人もいるんだと思った。友よ』『手紙』『チューリップのアップリケ』の曲はそんな人々の悲しみを歌っていた。
岡林信康 山谷ブルース
http://jp.youtube.com/watch?v=BqlvWISnxsg

 やがて、彼の歌は悲しみから、そんな人たちを生んだ社会へのメッセージを直接訴えるような曲に変わって行った。それらが「くそくらえ節」とか「がいこつの歌」などがその代表であった。人が社会から捨てられるとすれば、それはその人だけが悪いと考えるのではなく、社会の中にも問題があるというような風に問いかけていたようだ。私個人の感じでは、社会の構造のを変えることで、人間の救済を訴えるような歌詞だった。しかし、その歌詞の内容は単純でよくつたあった。
くそくらえ節 / 岡林信康
http://jp.youtube.com/watch?v=pbPBDIx_7ok

 しばらくすると、彼の歌詞と曲はまた変わって行った。社会の問題を追及してみたところで、人々の心と意識は変わらないということに気がついたのかもしれない。人々の反応が今ひとつだったのだろう。彼は社会を変えるには人々の心と意識を変える必要があると思ったのかもしれない。何か、人々の心がこの世の事物の体制に染まって自分というものを考えようとしない。人々はただ、社会の中で物を生産する企業の歯車になって、そして、自分というものを考えようとしない。人間というものはキリストの言った「人はパンのみにて生きるにあらず」で、人生や自分自身を考えなければいけない存在と思って、人々の心に訴えるような内容になっていった。この時代の作品が『それで自由になったのかい』『私たちの望むものは』というものだった。

 この時代の歌の歌詞がまた実に難解なのである。「それで自由になったのかい」という曲の趣旨は、会社に勤めて、給料があがって、部屋を飾ったり、子供を育てて大学へ行かして、年老いて死んでいく。会社と自分のことだけを考えて、毎日決まりきったせいかつをしているけれど、それが自由になったといえるのか?と問いかけているのだ。
 彼の心にあったものは社会へのメッセージのフォークシンガーというよりも、心の世界「生きる」というものだったような気がする。そこで、信仰とか生きるとかいう事が彼の中に甦って来て、人々に問いかけ始めたような風に思える。それが『私たちの望むものは』という曲である。これを聞いて彼の意味することを理解することは殆ど出来ないであろう。高校を卒業した私もこれは意味する所がわからなかったと思っている。

 岡林信康はキリスト教を通して神の道を歩き、それを職業としようとした彼は自らのキリスト教への信仰に疑問を感じたという。それは神や仏の道を職業とする者だけが感じる素朴な疑問なのであろう。毎日やってくる信者が生活に追われながら、生活が楽にならず、苦しみを持ち、そのような人たちに神の言葉を伝えても、彼らへの救いにならない。そんな彼らからお金をもらいながら、自分は生活をしている。人々の苦しみの支えになってやれない。そんなところの自分の生き方に疑問を感じのだろうと思う。教会という生活から遠く離れた閉ざされた世界から一歩でて、信者の人たちと一緒の場所に行き、何か自分の実体験から自分と自分の職業を問い直したいと思ったのでないかと想像する。だから、山谷のその日暮らしの社会から捨てられた労働者の町に行ったので
はないだろうか。生きているという現実感覚が欲しかったのではないか?これが彼が教会から一歩距離を保とうとして理由ではないかと内心思う。

 こうして社会へ出て、社会の空気を吸って、人を救うこととは現実の衣食住の生活を救うことが必要だが、心の側面から救うことが必要だと思ったのではないかと思う。「私たちの望むものは」というこの歌は心のあり方を問いかけたものだと思う。
 

 このように話を進めていますが、実に観念的な話しになってしまうので、退屈されるかもしれないですが、適当に流してください。岡林信康は次のようなことを曲の中で問いかけている。彼の言いたいことは以下のとおり。


私たちはみんな喜びをもって生きるべきである。
私たちは私たちが生きるに値する社会を作るべきである。
私たちは自分が積極的に何かの価値を見つけて生きるべきである。
私たちは社会のみんなが共に支えあいながら生きるべきである。
私たちはまだ見たことのない自分の幸せに向って生きるべきだ。
私たちは絶えず自分が変わっていくべきだ。
私達の望むものは社会の商業主義が作った私ではなく、私の本来の自分でありつづけることなのだ
私達が自分であり続けるためには私達は苦しまなければならない。
私達は社会の中に染まって自分を考えようとしないあなた(自分)を殺し、本当の自分に生き返るのだ。
そして、絶えず本当の自分を求めて前へ進み続けるのだ。
これには長い時間がかかるのだ。

 岡林信康はこの歌は「人は自由への長い旅をする」のだといい、「この旅は心の囚われやしがらみから自分を解放する旅」だと言っているように思う。では。以下のURLをクリックしてください。


私達の望むものは 岡林信康 作詞/作曲
http://jp.youtube.com/watch?v=kjAI9V1G6bA&feature=related

私達の望むものは生きる苦しみではなく
私達の望むものは生きる喜びなのだ

私達の望むものは社会のための私ではなく
私達の望むものは私達のための社会なのだ

私達の望むものは与えられるではなく
私達の望むものは奪い取ることなのだ

私達の望むものはあなたを殺すことではなく
私達の望むものはあなたと生きることなのだ

今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ

私達の望むものはくりかえすことではなく
私達の望むものはたえず変わってゆくことなのだ

私達の望むものは決して私達ではなく
私達の望むものは私でありつづけることなのだ

今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ

私達の望むものは生きる喜びではなく
私達の望むものは生きる苦しみなのだ

私達の望むものはあなたと生きることではなく
私達の望むものはあなたを殺すことなのだ

今ある不幸にとどまってはならない
まだ見ぬ幸せに今飛び立つのだ

私達の望むものは
私達の望むものは.....

(岡林信康の原典)

 「私たちの望むものは」の歌をうたう岡林信康の容貌を見てください。口の周りにあごひげを生やしています。このあごひげののばしかたはイスラエルのユダヤ人レビとか宗教人がしている姿と同じなのです。イスラエルの神はこのようなあごひげをのばすことを求めています。なにやら、前世ではイスラエル王国で神に仕える仕事をしていたのでないかと思ってしまいます。意外とイスラエル10部族の流れを汲んでいるのかもしれません。自分探しの旅は意外とこんなところから見えるかもしれません。キリスト教会から一歩退いたのもひょっとしたら、イスラエルの潜在意識がそうさせているかもしれません。

(自由への長い旅)

 「自由への長い旅」は聞いてもよく判らない、ある意味では実に難解な歌なのです。それは自分を取り巻く世間や他人の目に自分を合わせようとして苦しんでいた自分や自分らしさが自由にのんびり生きることが出来なくなったもの=自分の囚われからの自分が苦労して出て行くそんな精神の長い旅なのです。自分らしさを取り戻しのんびりゆっくり生きることができるための長い自由への旅なのです。こうして、岡林信康は牧師としての道を離れ、疑問に思っていたことを世の中に出て実践してみた。それは社会改革のようなものになったが、彼はそこにも人が幸せになれないと思った。人は自分の心を変えることで何か社会を、人を変えらるのではないかと思った。そのために、自分が変わらなければならないと思った。そんな中から生まれた曲がこれであると思う。


(自由への長い旅/作詞・作曲・歌/岡林信康
http://jp.youtube.com/watch?v=b2ox7zSzlDM

いつのまにか私が私でないような
枯葉が風に舞うように小船が漂うように
私がもういちど私になるために
育ててくれた世界に別れを告げて旅立つ 
信じたい為に疑いつづける
自由への長い旅をひとり
自由への長い旅を今日も

この道がどこを通るのか知らない
知っているのはたどり着くところがあることだけ
そこが何処になるのか
そこで何があるのか
分からないまま一人で別れを告げて旅立つ
信じたい為に疑い続ける
自由への長い旅をひとり
自由への長い旅を今日も

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