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【日経BP】「中国動漫新人類」はどこへ行くのか(最終回)
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20080229/148545/
【最終回】「中国動漫新人類」はどこへ行くのか
2008年3月5日 水曜日 遠藤 誉
中国 主流文化 次文化 サブカルチャー 民主主義 日本動漫
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遠藤誉著、日経BP社、1700円(税別) 発売中
「たかがマンガ、たかがアニメ」が中国の若者たちを変え、民主化を促す−−? 日本製の動漫(アニメ・漫画)が中国で大流行。その影響力は中国青少年の生き方を変え、中国政府もあわてて自国動漫産業を確立しようとやっきになっているほど。もはや世界を変えるのは、政治的革命ではなく、サブカルチャーの普及による民衆の生活意識の変化なのだ。しかも、それを手助けするのはたやすく手に入る「悪名高き」海賊版なのである!
連載中から大反響の本企画がいよいよ単行本化。現代中国論としても、日中関係論としても、そして何よりサブカルチャー論としてもこれまでにない論点を提示し、かつ、膨大な取材に基づき驚くべき事実を掘り起こしたノンフィクションの決定版!
タイトルは『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』。ぜひお読み下さい。
(日経ビジネスオンライン編集部)
※最後に、筆者から読者の皆様へのメッセージがございます。
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(前回から読む)http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20080225/148026/
中国語では国家や民族としての正統派的文化を「主流文化」、改革開放以降出現したサブカルチャーを「非主流文化」「次文化」あるいは「亜文化」(亜流の亜)等と称して区別するが、ここでは言葉の対比の関係上、「主流文化」を「主文化」、サブカルチャーを「次文化」と定義して分析を試みたい。
この定義を用いて表現するなら、改革開放前までの中国には「主文化」しかなかったということができよう。マルクス・レーニン主義あるいは中国共産党の思想に忠実でない文化はあってはならず、あくまで共産党の思想に軸足を置いた「主文化」しか存在していなかった。
けれども、国民を思想統一して「向前看」(前に向かって進め)と指導してきた中国政府が、1970年代半ばの文化大革命の終焉、そして1989年の天安門事件を経て、90年代に入り、そのスローガンを同じ発音の「向銭看」(銭に向かって進め)という精神に切り替えてからというもの、大人は金儲けに邁進し、青少年は自ら好む娯楽を自主的に選び始めた。
そして、その娯楽として青少年が選んだのが日本の動漫だった。
●「たかがアニメ」が中国にもたらした「次文化」
中国政府はといえば、「たかが娯楽、たかが動漫、若者は変に政治意識が高くなるより、漫画やアニメにうつつをぬかしてもらっていたほうが、国家が安定する。そして大人は金儲けに現を抜かしてくれていた方が、社会不満を政治に向けてこない」とこのとき思っていた。日本動漫は政治性もなく、思想性もないということで安心したにちがいない。
しかし、「たかが動漫」は、中国政府が思っているよりはるかに大きな力を秘めていた。
それまで政府主導で押し付けてきた画一的な文化と思考、国家的道徳規範と価値観しかなかった主文化の中に、自由奔放な、多角的方向性を持った次文化が入り込んできたのである。
気がつけば、若者たちはみな、画一的なベクトルで選択させられていた「国家的道徳規範と価値観」から解き放たれて、「自己の道徳規範と自己の価値観」に基づいて選択し行動する観念を持つに至っていた。
天安門事件のときに民主を叫んだ若者の口を銃口でふさいでしまったとき、中国政府は「経済は開放するが、政治思想は開放しない」と決意した。
しかしいま中国は、結果的に「精神文化」を開放してしまったのだ。
政治思想は、中国においては体制が強要するものであるかもしれないが、人間の本性からすれば、「精神文化」が選ぶものである。建国以来、「党への忠誠」に貫かれていた道徳思想は、中国の若者たち子どもたちに「個人の主張」、「個人の欲望の追求」を最優先する観念と行動様式を芽生えさせてしまったのである。
改革開放が始まった初期、「窓を開ければ蝿だって入ってくるさ」と達観していた搶ャ平が指した「蝿」とは「アメリカの若者文化」であった。それはジャズであり、フォークソングであり、ディスコであり、そしてヒッピー風俗であった。
こうした開放政策が精神文化をめざめさせた結果、天安門事件で中国の若者たちが爆発した。あわてた政府は「崇洋媚外」(西洋を崇拝し、外国に媚び追随すること)を戒めて愛国主義教育を始めた。たしかにここにあげたアメリカ若者文化は、いわゆるカウンターカルチャーであり、反体制的な要素を多分に含んでおり、こうした文化の摂取は自由への渇望や現体制への不満とつながるのは容易に想像できる。天安門事件に直面した中国政府が警戒したのも当然である。
が、こうしたアメリカ若者文化とほぼ同時期に中国に入ってきた日本動漫は、天安門事件のような「民主化」につながる要素を何も持たないはずだ──そう中国政府は考えたわけである。くり返すが、彼らは「たかが漫画じゃないか」「たかがアニメじゃないか」「たかが子ども向けじゃないか」と思っていたのである。
そんな「たかが」的存在だったからこそ、日本動漫は、「民主」のことを中国語の発音記号の「Min-Zhu」の頭文字を取って「MZ」と表記しなければならないほどネット検閲の厳しい中国において、海賊版が市場にあふれ、テレビにばんばん登場し、自由自在にネット上で飛び交うことが許されたわけである。
なんという皮肉。日本動漫の、一見すると、思想性のなさ、政治性のなさこそが、結果的に「思想性」を生み「政治性」へとつながっていく潜在力を持つことになる。
中国の若者たち子どもたちは、物心つくころから日本動漫の世界にどっぷり浸ってしまった。かつてのアメリカ若者文化の摂取は、あくまである程度大人になってから消費するものだった。いわば借り物だった。だから中国政府もそれを「崇洋媚外」と表現した。
けれども、日本動漫と中国の若者たち子どもたちの関係は違う。彼らは自分の感性で好きな動漫を選び、その成長の過程で動漫に秘められた思想、発想、知識を吸収して自分の精神成長に結びつけていったのだ。
こうなるともはや「借り物」の文化ではない。彼らは自らの意思で選んだのだ。そして、そこから、「創造性」だの「自由自在な発想と選択」だの「多様性」だの「公正」だの「恋」だの「愛」だの「正義」だの「友情」だの「おしゃれ」だの「欲望」だの「忍耐そして平等」だのといった感性を育てていったのである。その多くは、中国の「主文化」がけっして教えてくれなかったものだった。
若者たちが自ら勝ちとった「一個人の個性」の発露、「個人の価値観」、それらこそは「民主主義へのステップ」ではないか?
すなわち、「政治性のなさ、思想性のなさ」から政府がノーチェックだった日本動漫は、天安門事件以上の底力を発揮し、中国の若者たちの「民主化志向」を醸成していったことになる。
日本動漫は中国の若者たちを精神的革命にいざなった、とでも言えようか。
声もない、デモもない、旗もない、流血もない民主化。
静かなる精神文化の「革命」だ。
●精神の革命をもたらした「日本動漫」
その意味で、今や中国政府にとって、日本動漫以上に「危険な革命思想」はないのかもしれない。動漫好きが中国国内に増えれば日中友好に利するだろうなどというレベルをはるかに超え、日本動漫は愛国主義教育および中国の思想の根幹を成す「主文化」を乗り越えかねない「次文化」の地位についてしまったのだ。
北京大学の張頤武教授は、「反日感情と日本動漫は平行線を辿り、重なり合わない」と言ったが(詳しくは書籍、P246〜をご参照下さい)、この感情のダブルスタンダードのありようは、私からみると「主文化」と「次文化」とのスイッチの切り替えを中国の若者たちが自分の心の中で行っているように思われてならない。
スイッチを切り替える「主文化」領域とは、中国という社会主義国家が築き上げる精神文化であり、画一的なものだ。自発的な内的欲求から生まれたものではなく、中華人民共和国という観念から来る社会道徳的規範に束縛されたものである。
それに対して、「次文化」領域とは、個人の内なる欲求が、個人の価値判断により選ばせた自由自在な文化で、これこそが大衆が選んだサブカルチャーである。日本動漫はそのサブカルチャーの中心にある。連載(「中国政府は日本動漫を、どう位置づけたか」など http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20071213/143116/ )で縷々述べてきたように、1995年以降、どれだけ激しい愛国主義教育が「抗日戦争」を中心として青少年たちに溢れるほど降り注がれてきたことか。そのような状況でもなお、新人類たちは日本動漫を選んだのだ。日本動漫が隆盛を極め始めるのが、まさにこの95年以降であることを考えると、その葛藤と渇望が、けなげではないか。
政府が勝つか若者が勝つか、いや「官」が勝つか「民」が勝つか。
21世紀に入り、日本動漫への熱狂はピークに達したことを考えると、民衆が勝ったのである。
●サブカルチャーこそ民主主義の基本
そして動漫のようなサブカルチャーの隆盛こそは、民主主義の基本だということに注目しなければならない。中国が動漫産業を振興させようと思えば、「次文化」の担い手である民衆の声に耳を傾けなければならなくなる。耳を傾けなければ中国国産動漫は産業として成立しないし、傾ければ民主主義的手法へと近づくことになる。それを恐れた結果、中国国産動漫が成立しなければ、若者の精神文化の形成は日本動漫に委ねることになる。それは中国の最も恐れる事態だろう。
となると、どちらを選んでも、そこには民主主義が待っていることになる。こうした流れを押しとどめることはもうできない。
中華人民共和国のすぐ先には、確実に本当の「民主化」が待っていることになる。ただ、そこまでたどり着くのに、「中国動漫新人類」たちは迷い、苦悩し、そして、もがいている。
【本連載は今回で完結です。書籍では大幅な加筆と修整を行い、若者たちの苦悩の実情や、その先にある国家としての中国の「トラウマ」にも迫ります:編集部】
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読者の皆様
『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』遠藤誉著、日経BP社、1700円(税別) 発売中
『中国動漫新人類』を執筆している遠藤誉です。長いこと私の記事をお読みくださり、誠にありがとうございました。皆様からのすばらしいコメントをいつも楽しみに拝読させていただき、多くのことを学ばせていただきました。日経BPから出版していただいた同名の単行本は、皆様からの励ましのお言葉に支えられ、示唆に富んだコメントに教えられながら完成したものです。皆様の温かいご理解とお力添えがなかったら上梓することはできませんでした。皆様に心から感謝いたします。
私の力不足で、日本のアニメ産業の実態にまで踏み込むことができず、アニメ産業を支えておられるアニメータの方たちが、どれほど苦労をなさっておられるかに関して現状分析をすることができなかったことを、最後にお詫びいたします。しかし、皆様のコメントにより、このまま放置すれば世界に冠たる日本のアニメも、衰退していくのかもしれないという危機感だけは抱くようになりました。その現実を掘り下げ、改善を図るための建議を、どなたかがなさって下さるとありがたいと思っています。そのために拙著がいくらかでもお役に立てば、望外の幸せです。
それ以外のことに関しては、皆様のコメントにお答えできる内容を単行本『中国動漫新人類』に込めたつもりですので、この連載の続きは、そちらでご高覧いただければ幸甚です。
皆様、長いことおつきあいくださり、本当にありがとうございました。
皆様のますますのご活躍をお祈りします。
(ウェブ記事連載に関しましては、日経BP社・日経ビジネスオンライン編集部の山中浩之様にひとかたならぬお世話になりました。山中様およびウェブ関係者の方々にも感謝いたします。ありがとうございました。)
遠藤 誉
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