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資料庫・ 中野敏男「日本の「ろうそくデモ」報道から見えること――危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム」(『プレシアン』2008年9月8日掲載)
「暴徒、新聞社を襲撃」 日本の朝日新聞は、本年6月29日付けの朝刊に、韓国の「ろうそくデモ」についてこのような見出しの記事を掲載している。日本で三大新聞のひとつと数えられ、その中でも最もリベラルな論調で知られているはずの朝日新聞が、今回の「ろうそくデモ」に関する記事の見出しにこのように「暴徒」という表現を用いたことは、日本のマスメディアの現状を示すはなはだ徴候的な事態と言わなければならない。そこで、日本での「ろうそくデモ」報道をめぐるそんな状況を報告し、その意味を少し考えてみることにしたい。
「ろうそくデモ」報道の惨状
朝日新聞に限らず、日本のマスメディアにとって、ろうそくデモの大高揚に至った韓国の今回の事態が、まずはどうにも不可解な出来事と映じたことはおそらく間違いない。アメリカ産牛肉の輸入問題をめぐって、発足したばかりの李明博政権が批判に曝されていることだけなら、なんとか分かる。しかし、それが中高生に子連れの女性たちまで加わってここまで大規模な示威行動に発展するということは、政治報道に携わってきたこれまでのマスメディアの常識ではとても考えられない事態だったのである。そのためもあっただろうが、連日にわたるろうそくデモの激発にもかかわらず、日本での報道は概して小規模なものに止められている。
この「ろうそくデモ」報道の意外な小ささは、ちょうど同時期にあったチベットやモンゴルでの政治的争乱に関する報道と比較してみると、かなり明瞭に際だつものである。後者については、地方都市で起こって伝聞としてしか確認できないような事態まで報道しているのに対して、韓国の「ろうそくデモ」については、隣国の首都の中心で連日起こっている数十万を越える人々の示威行動であるのに、その扱いは思いのほか回数も少ないし、記述も警察発表などを基礎にした比較的短いものにとどまったのである。それをデモが盛り上がった6月一ヶ月間の報道で見ると、目立って多かった朝日新聞でさえ報道回数は合計10回。そのうちから問題含みの解説記事を除けば、事実報道は最大規模の示威行動となった6月10日についてでさえ翌日の朝刊国際面で23行だけの短い記述に過ぎなかった。
そんな報道の状況の中に、前述の「暴徒、新聞社を襲撃」なる記事が出されている。それは6月29日朝刊に掲載されたものだが、提携紙である東亜日報の本社が「襲撃」されたというその記事に添えられた写真(東亜日報提供)の日付は26日。つまりそれは、事実の速報というよりは、「過激な行動」の「エスカレート」という物語を作り出すために朝日新聞と東亜日報とが合作で構成した記事であることが明らかで、それゆえそこでは、何故そのように東亜日報・朝鮮日報・中央日報の三紙が抗議の対象になっているかの分析などひとつもないまま、「暴力行為」への非難のみが声高に強調されている。朝日新聞では、インターネットを活用して「朝・中・東」を批判しはじめた市民たちの動向を、それ以前の6月19日から、まずは朝鮮日報の記事をそのまま引用するかたちで「ネット市民らが、冷静な対応を呼びかける同紙(朝鮮日報)をはじめ大手紙に広告を出すのをやめるよう企業に圧力をかけている」と報じていて、そこでは始めから「朝・中・東」の方が被害者とされている。そしてこの論調は、7月1日になると、ついに「深刻、サイバー暴力」という見出しのかなり大きな解説記事にまでエスカレートした。ここで朝日新聞は、「モラルなきネット市民のサイバー暴力vs 冷静な対応を求めて攻撃に曝される3大紙(朝・中・東)」という対立構図を作り上げ、それをもってろうそくデモの背景説明としているのである。
日本のメディア状況が孕む問題
これが日本の三大新聞の中で最右派の読売新聞であるなら、たとえろうそくデモの「過激化」を非難し、「過激行動に走るのは国家保安法撤廃、在韓米軍撤退など北朝鮮当局と同じ主張を掲げる親北団体のメンバーらとみられる」(6月30日読売朝刊)などと断ずる報道をしても、それへの賛否はともあれ、いかにも反共保守主義らしい認識としてそれを「理解」することはできよう。しかし、リベラル左派と見なされてきた朝日新聞がろうそくデモをこのように認識し報じているという事実は、その立場と記事内容にずいぶん落差があると見えるから、日本のマスメディアの現状を顧みる上でも、日韓の言論の相互理解や相互関係を見直す上でも、しっかり留意しておかねばならない事態であるに違いない。
もっともこう言うと、それを韓国の側から聞けば、大手新聞社の論調がそのようであることについて、何を今更驚きあわてているのかと不思議に感じられるかもしれない。確かに日本の三大新聞は、朝日新聞は東亜日報と、毎日新聞は朝鮮日報と、読売新聞は韓国日報と、それぞれ提携関係を結んでいる。このような日本の従来型の巨大新聞社が、インターネット新聞やインターネット放送局など新しいメディア状況への危機感を共有し、この観点から韓国の朝・中・東を擁護する立場に立つのはむしろ自然な成り行きとも考えられるからである。マスメディアがマスメディアを擁護し、危機の時代にはそれらが連携して体制の擁護にも動くというのは、これまでの歴史に繰り返されたことではあった。
しかし、日本の位置から見ると、朝日新聞を軸にする「リベラル」な新聞報道がその内実では批判的機能を失って体制擁護的に作動しているという事態は、韓国における朝・中・東のことよりもっと深刻な危機の徴候であるかもしれないと感じられる。
というのも、まず日本の場合は、テレビ報道が、チャンネルごとに新聞社と系列化して独立性が低く、しかも実際には新聞よりもずっと心情迎合的で批判性が弱くなっているから、韓国においてテレビ報道が果たしているような役割を期待できないという事実がある。今回のろうそくデモでも、例えばMBCの番組「PD手帳」が果たした批判的役割の大きさを伝え聞くが、そのようなことを日本のテレビ局には期待しにくいのである。
また、日本と韓国とが異なるもうひとつの要素は、インターネットの批判的機能の違いである。インターネットの普及や利用度において韓国は日本より進んでいて、このネット上に生まれた言論が実際にろうそくデモへの人々の参加にも強い影響力をもったとされるが、日本ではこの力がまだ弱いのである。それどころか、日本には「ネット右翼」という言葉があって、現状でインターネットの力を言説の普及に多く利用しているのは、実は「右翼」の方だということがある。しかもその利用の仕方は、人権を無視した個人攻撃や根拠のない中傷を振りまいて他人の行動を抑え込むという類のものだから、まさに朝日新聞が言うような「サイバー暴力」への警戒心が一般には根強く、ネット上のコミュニケーションが社会批判の機能を持つようにはなかなかならないのである。
というわけで、現状において、朝日新聞に代表される日本の「リベラル」な新聞報道が体制擁護的に変質し、批判的機能を失ってしまうことは、日本の言説状況に深刻な打撃を与えかねない重大事であるといえる。そして事実、この間の「ろうそくデモ」報道ではその徴候が明確に現れ、それがかなり危険な水域にまで近づいていると見なければならないのである。韓国で「ろうそくデモ」の高揚を実際に体験し、そこに新しい形の社会批判の表現を見いだしている人々には是非とも認識していただかねばならないが、そのことが隣国=日本の多くの人々に知らされていないばかりか、むしろそれに悪い印象を持ちかねない状況が新聞報道を通じて作られているということである。
歴史問題と危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム
もっとも、問題はそこにとどまらない。というのも事柄はさらに根深く、日本のリベラリズムそのものの亀裂、そしてそれに伴う日韓の思想連繋の質変にまで及んでいると見えるのである。そもそもリベラル左派であるはずの朝日新聞は、いったいなぜ、民衆運動の新しい形を予感させる今回のろうそくデモを擁護せず、逆にそれに「暴徒」などと悪罵を投げつけるのか? そこには、単に提携紙である東亜日報などへの配慮があるばかりでなく、むしろもっと大きな理由として、このろうそくデモが揺るがしている李明博保守政権への彼らの屈折した期待が絡んでいると見なければならない。
朝日新聞は、6月3日朝刊に掲載したやや大きな解説記事で、ろうそくデモが新しい李明博政権を揺るがしていることに懸念を表明し、その末尾をつぎのように結んでいる。「(李明博大統領が)4月の訪日で未来志向を強調した日本との関係も、低支持率が続けば、変化してくる可能性がある」と。ここには、彼らがなぜろうそくデモを恐れるのか、その理由がとても明瞭に示されている。
ここで「未来志向」というのは、いったい何か。それは「過去事」についてあまり拘らないということである。そしてこの点について特に言及するのは、前政権である盧武鉉政権との違いに関わっている。かつて多くの期待を担って出発した盧武鉉前政権の実績全般については、さまざまな評価が有り得るだろう。しかし、この政権が少なくともそれ以前と異なっていた点に、「過去事」の整理に対するかなり原則的な姿勢がある。この政権下で進められた「過去事」に関わる立法措置や各種委員会の活動は、幾多の困難や妥協を含んでいたとはいえ、真実の糾明などの点で確かに重要な進展をいくつかもたらしている。そして、このような盧武鉉政権下の韓国の状況は、これとは対照的に同時期の日本の小泉・安部両政権下で進んだ靖国神社参拝や歴史修正主義の動きと厳しく対立し、それが日韓関係に鋭い緊張を生んでいたことは間違いない。韓国に新しく成立した保守政権は「未来志向」と言うことでこの点での態度変更を表明し、日本のリベラルである朝日新聞はそれに期待してろうそくデモがそれをまた元に戻してしまうと恐れたのである。
日帝の植民地支配に端を発する歴史とその責任の問題が、今日の日韓関係にもなお暗い影を落とし続けていることは間違いない。朝日新聞にもその影はかかり、とりわけ韓国や中国など東アジアに関わる記事を掲載する際には、このことを特に意識して紙面編集をしていると見受けられる。ろうそくデモに関する記事についても、その事情はまったく変わらないのだ。と思ってみると、実際に作られている記事は、親日派の徹底した清算や軍事独裁政権下の暴力のさらなる糾明を押しとどめようとする韓国の保守政権の「未来志向」に期待を寄せて、それの足を引っ張りかねないろうそくデモの激発にむしろ恐れを抱いていると分かる内容になっている。この事実は、独裁に抗して民主化運動を担い、その観点から日本のリベラル勢力に期待を寄せてきた韓国の人々を、おそらく落胆させることだろう。しかしそれが、日本で最もリベラルで公正な報道を誇ってきたはずの大新聞=朝日の現状、少なくともその一面の現実なのだと報告しなければならない。
朝日新聞に代表される日本のリベラルジャーナリズムのこのような危機は、2001年1月に起こった日本軍「慰安婦」問題を扱うNHK特集番組への与党政治家の介入とそれに呼応したNHKの自己検閲的な内容改ざん事件、そして、その時にその政治介入を追及した自社記者すら守れず後退した朝日新聞の自己防衛的な態度に、すでにその一端が露呈していたものであった。そしてこれは、もう少し広い文脈から言えば、日本の「戦後リベラリズム」そのもののさらに根の深い危機につながるものである。すなわち、日本のリベラル勢力は、第二次世界大戦後の時代にあって、侵略戦争の過去を清算し、その反省から生まれた「戦後憲法」の「平和主義」と「民主主義」を強く堅持してやってきたと自負していた。しかし、90年代以降に冷戦体制の崩壊が進むと共に、日本の「戦後民主主義」に含まれていたさまざまな欺瞞が見直されるようになってきて、その自負の根拠そのものが揺らいでしまったのである。日本の「戦後」は、「平和主義」と言いながら朝鮮戦争・ベトナム戦争とうち続く戦争に加担してきたのだし、その「経済復興」も韓国や沖縄などの軍事占領を前提とし、その「民主主義」さえ女性や在日朝鮮人・中国人などマイノリティの差別や排除を構造的に組み込んだものではなかったのか。このような現実にむしろ強く依存して成立していた日本の「戦後民主主義」とは、そしてそれを支えてきた「リベラル」とは、いったい何だったのか。「戦後日本」で「リベラル」であろうとしてきた人々は、いまあらためてこのような問いに直面せざるを得なくなっている。
「ろうそくデモ」報道で揺れる朝日新聞が、この問いを自らに真摯に差し向け、ジャーナリズムの批判性を堅持して真に脱皮を図ることができるかどうかは、なお予断を許さない。しかし、問われているのは朝日新聞だけではないのだ。この意味で、いま日本はひとつの思想的岐路に差しかかっていると見える。
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