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統合民主党が党名変更を推進している。「統合」を外し「民主党」にする。
1955年の民主党のイメージと共に、新千年民主党の伝統的支持層を取り付ける。
ワールドワイドなブランドにする狙いもある。
統合民主党が大統合民主新党と民主党のそれぞれ「統合」と「民主」を組み合わせた名前なので、「もとの民主党になって支持率が上がるわけじゃない」と反対意見もある。
http://news.hankooki.com/lpage/politics/200806/h2008062603103921060.htm
(KR)
参考:
民主党 (韓国 1955) - Wikipedia
1955年の、自由党の四捨五入改憲事件をきっかけに、民主国民党の保守派と自由党の脱党派、興士団等の反李承晩勢力が集まり、9月18日に創党された。
1. 一切の独裁主義排斥
2. 公正な自由選挙による代議政治と責任内閣制の実現
3. 自由経済原則
等の綱領を掲げ、代表最高委員に申翼熙、最高委員に張勉と趙炳玉、郭尚勲、白南薫を選出した。 四月革命により第一共和国が崩れて直後に行なわれた1960年7月29日の総選挙で大勝し、尹潽善大統領や張勉国務総理による第二共和国の与党となった。しかし、旧派と新派間の分党や党内分裂等で混乱し、1960年11月に旧派が新民党[1]を結成する事態となり、1961年の5・16軍事クーデターによって一度解散されたが、1963年1月に政治活動を再開、7月18日に朴順天(パク・スンチョン)が総裁に就任して再建された。軍政から民政への移管の為に行なわれた同年11月の第6代韓国国会議員総選挙では13議席を獲得し、第2野党となった。64年9月に国民の党を吸収した後で、第1野党である民政党と統合して「民衆党」を発足させた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_%28%E9%9F%93%E5%9B%BD_1955%29
※1955年の民主党によって作られた張勉政権は民主的改革に乗り出すが、
アメリカの援助をうけた朴正煕の軍事クーデターによって短期間で潰されている。
韓国はその後しばらく軍事独裁政権になったが、もし張勉政権が成功していれば
早い段階において民主化が実現していたはずである。
(アメリカのご都合主義的な外交にも注目したいところだ)
民主党 (韓国 1955) の前身は、韓国民主党である。
韓国民主党 - Wikipedia
1945年9月16日にソウルで結成された。 右派独立運動家・宋鎮禹が初代主席総務となったが同年12月に暗殺された。金性洙がその後を襲った。
韓民党は、民族主義・保守系勢力を、日本の植民地支配下で育った全羅地方の資本家・湖南財閥が中心になって結集・組織した政党である[1]。財界の支持を得ていたことから、呂運亨ら朝鮮国内にいた左派系・中道系の独立運動家たちによって結成されていた朝鮮建国準備委員会による政権樹立を拒否すべく結集し、重慶に亡命していた大韓民国臨時政府の支持を打ち出した。
韓民党は、1949年1月26日には反李承晩勢力を糾合した民主国民党へと再編されていった。朝鮮戦争により、湖南財閥の中心企業であった京城紡績の設備が著しく破壊された上に、李承晩は京城紡績の預金引き出しを停止し、圧力をかける。京城紡績は与党自由党に資金供給を行うようになり、韓民党は湖南財閥の支持を失い、金性洙も政治の表舞台から姿を消していく。
1955年には民主党へと再編・改称され、張勉政権の与党となった。
韓民党の流れをくむ政党は、第六共和国に至るまで野党勢力の中核をなして政権と対立しつづけた。そのため、李承晩と韓民党との連合は後の目から非常に奇妙なものとして映っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A
※つまり、民主党系の根源は、民族主義の「右翼」であり、「民主派」というわけだ。