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DIRECTOR'S WATCHING 第40号 2008.4.1発行 by矢吹 晋
チベット騒乱――ダライ・ラマの柔軟路線と胡錦濤の英断
ダライ・ラマ14 世がインドに亡命する契機となったチベット騒乱事件(1959 年)から49 年目の3 月10 日、約300 人のラマ僧がラサ市内でデモ行進の最中、警備当局に大量逮捕された。それをきっかけに事態は騒乱に発展、騒乱は中国・甘粛省、四川省などにも広がった。
中国の温家宝首相は3 月18 日の記者会見で「ダライ集団の策謀」と非難したが、ことはそう単純ではない。
テロを容認する青年会議派の存在など、亡命政府側の内部事情は複雑だ。チベット自治区党委書記の経験もある胡錦濤(国家主席)がトップの座にあり、高齢のダライ・ラマが柔軟路線を表明している今こそ、チベット問題解決の機会にすべきではないか。同問題の解決は、大国中国が世界に好意をもって迎えられるか否かの試金石である。
[1] 2008年3月チベット騒乱の経緯
3 月10 日はチベット人にとって「抗暴記念日」である。ダライ・ラマがインドに逃れ、亡命政府を組織する契機となった1959 年3 月のチベット騒乱事件に由来する。
あれから49 年を経た。来年の半世紀記念日を前にした2008 年3 月10 日、数百人のラマ僧がラサで平和的なデモを行ったところ、途中で行進を遮られ、数十人が逮捕された。このデモは計画されたものであり、他方で警備体制も整えられていたことは、様々の情報からして容易に見てとれよう。
翌3 月11 日(火)、前日よりも多い数百人のラマ僧が抗議に立ち上がり、逮捕者の釈放を当局に要求した。これに対して武装警察は催涙弾を用いて鎮圧するとともに、僧侶たちを寺院に封じ込めた。セラ寺(ラサ市の中心部から北へ約8 キロ)の僧たちはハンストによる抗議を始めた。2 人の僧は12 日(水)、大量の武装警察の面前で「断臂投地」(だんぴとうち)という過激な方法で抗議を表した。
これは断臂貞妻、すなわち五代周の王凝の妻李氏が臂を断ち切って貞節を示した故事に由来する。転じて何らかの思想に対する忠誠を表したり、願を掛けたりする際の、最も強い方法として用いられることがある。チベット最大のデブン寺を含む三つの寺が武装警察によって封鎖された。こうした状況の下で、14 日(金)には、略奪、放火など騒乱が発生し、世界中がラサにおける騒乱を知ることになった。
騒ぎはチベット自治区の区都ラサだけにとどまらず、青海省、甘粛省、四川省などの幾つかのチベット人居住地区でも連鎖反応のように類似の騒動が発生し、夏のオリンピックを控えて、今やその行方が世界中の注目を浴びるに至った。世界各地の中国大使館周辺では、中国当局のチベット人弾圧、宗教政策に抗議するデモも発生し、騒動の広がりを見せ付けている。この急速な広がりには、憶測だが、世界各地で活発な活動を展開している法輪功組織が一枚かんでいるのではないか。
[2] チベット問題の歴史的事情
問題の経緯を整理してみよう。
(1)毛沢東時代の中国とチベット
中国共産党が中華人民共和国を樹立したのは、49 年10 月1 日で、それから1 年半後に、新政府はチベット政府と協定を結んだ(51 年5 月23 日、「チベットの平和的解放についての協議」)。
当時はチベットの「平和解放」として平和が強調され、台湾問題についても「チベット方式による解決」が語られたりした。しかしこの「平和解放」の神話は、まもなく崩れた。59 年3 月1 日にチベットで反乱が発生したからだ。
中国共産党の進める一連の政策、とりわけ土地改革をめぐって、旧チベット勢力が反発し、大きな反乱が起こり、3 月31 日にダライ・ラマ法王がインドに亡命するに至った。法王を中心として組織された亡命政府は59 年4 月29 日ムスーリーに設立され、間もなく60 年5 月にインド北西部のダラムサラに移され、今日に至っている。
ダライ・ラマ亡命以後のチベットで、中国当局はパンチェン・ラマ(1938 〜 89 年)を巧みに使いながら、チベット支配を続けてきた。文化大革命期には、紅衛兵たち、あるいは造反派によってポタラ宮の破壊が行われたことも記憶に残る。68 年9 月5日にチベット自治区革命委員会が成立し、ようやく文化大革命期の秩序が再建された。この委員会は全中国で最後に成立した委員会であった。
(2)ケ小平時代のチベット政策
毛沢東時代が終わり、ケ小平時代がスタートすると、79 年3 月、対話路線が始まった。ケ小平は、3 月12 日ダライ・ラマの実兄(ギャロ・トゥンドゥップ)を招き、「完全な独立は許されないが、他のすべての問題は、話し合いに応ずる」と言明した。ケ小平が語ったことばのうち、一部は『ケ小平年譜』に収められているので、それを読んでみよう。
「ダライ・ラマの兄ギャロ・トゥンドゥップを接見した際に、ケ小平はこう指摘した。ダライが帰国することを歓迎する。単に様子を見るために戻るのでも歓迎だ。帰国したあと、再度出国するのならば、歓送する。もし彼等が帰国するのならば、政治面で本人にぴったりの任務を依頼したい。私は次の1 カ条を保証する。すなわち出国も帰国も自由だ、という点である。20 年も隔離されていて[1959 〜 1979]、様子も見ないということで済むだろうか」(原文は以下の通り。接見嘉楽頓珠[ 達頼喇嘛・丹増嘉措的哥哥] 指出: 歓迎達頼回来、只回来看看、歓迎: 回来後出去、歓送。如果他們回国、政治上会作很恰当的安排。我可以保証一条: 来去自由。二十年隔離、不看看怎麽行?(『ケ小平年譜』(上)492 ページ)。
これがケ小平のチベット政策であった。ケ小平の意を受けて、当時組織部長の胡耀邦はラサを訪れ、中国共産党のチベット政策( 宗教政策、民族政策) の極左偏向を痛切に自己批判した。そしてチベット工作会議を開き、偏向の是正方針を提起した。これに応えて同年8 月、カロン・ジュチェン・トゥプテン・ナムギャルが率いるチベット亡命政府の第1 次使節団がチベット視察に赴いた。80 年5 月にはテンジン・テトンが率いる第2 次使節団が、7 月にはダライ・ラマの妹ジェツン・ペマ率いる第3 次使節団もチベットを視察した。
81 年3 月、ダライ・ラマは3 次にわたる使節団からチベット視察報告を受けて、ケ小平に宛てて「この問題を様々な現状に則して、より良い方法で解決するためには、誠実な努力が必要だ」と書簡を書いた。82 年4 月、実地調査継続の中国側との交渉のため、3 人のチベット亡命政府の代表が北京に派遣されたが、これは実質的な進歩が見られなかった。84 年10 月、3 人の代表使節団が中国側と2 回目の交渉に入るが、やはり実質的な交渉に向けての進展はなかった。一説には、中国当局はダライ・ラマに対して全人代副委員長のポストを提示しつつ、北京への帰還に同意した。他方、ダライ・ラマは北京への帰還ではなく、ラサへの帰還でなければ意味がないと応答したと伝えられる。
(3)パンチェン・ラマ10 世の少数民族・宗教政策批判
パンチェン・ラマ10 世は文化大革命期の前後に9 年8 カ月にわたって投獄されていたが、80 年代半ばに民主化の動きが進む中で、87 年3 月28 日、全人代チベット自治区常務委員会において画期的な演説、中国の少数民族・宗教政策を批判する演説を行った。概要は次のようなものである。
「過去20 年以上にわたって少数民族地区で実行された左翼的政策は、非常に有害であった。その政策の後遺症は、今日ですらチベットに強く残っている」
「昨年のカム地方訪問中、大規模な無差別的濫伐によって国土が荒廃しているのを知った」「例えば、タクロ・トロン、ユナン地区には高収益を上げていた煙草工場があった。しかしその向上は熟練労働者不足と製品の低品質が原因でつぶされてしまった」
「少数民族地区には特別の注意を払うべきである。その地区の産業には国の援助が必要である。しかし政府が気付くのは、常にその産業が破産してからであった。原因は政府側の怠慢か、地区住民に一層の負担を背負わせようとする計画的策謀のいずれかだ」
「80 年、胡燿邦同志がチベットを訪れた時、彼は役に立たない中国人全員を本国に送還すると約束し、我々はその賢明な決定を歓迎した。我々が必要とするのは有能な人材なのだ」「チベットにいる中国人1 人を養う費用は、中国にいる中国人4 人分に匹敵する。チベット人民は、なぜ彼らのためにその経費を背負わされねばならないのか。なぜそのすべてをチベット自身の発展のために有効に使えないのか。チベット人民は、無能な中国人の大量移住政策のために多大の苦しみを被っている。数千人の中国人チベット移住で始まった人口は、今日その何百倍(訳者・山際素男注:現在までにチベットに移住してきた中国人人口は、700 万人を超え、チベット人600 万人を遥かに凌駕する)にも達している。初期の頃、勤勉に働いてきたたくさんの古参中国人が、今その実績を認められないまま朽ち果てているのもこの政策のためである。今日、中国人は一家もろとも移住してきており、あたかもアメリカへの出稼ぎ人同様、ひたすら“金”のために働き死んでゆく」
「チベット人民はチベットの正統な主人公である。チベット人民の願望、感情は尊
重されなければならない」
「チベットに新しく幾つかの学校が設立されたが、その教育内容は極めて貧弱である」
「ユナン地区の幾つもの学校で気付いたことは、時間割にはチベット語の時間があるものの、生徒はろくにその授業を受けていなかった」
(以下、略。 http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/pl_speaks_text.html)
(4)1989年戒厳令と秩序回復
しかし、89 年1 月パンチェン・ラマ10 世が急死した。これは自殺とも伝えられた。3 月初めにラサで大規模なデモが起こり、6 日には戒厳令が敷かれた。戒厳令は1 年後に解かれたが、実際には戒厳令に近い状況がその後も続いた。同年6 月には北京で天安門事件が起こり、中国当局はチベット問題の解決どころか、全中国への戒厳令を余儀なくされた。現在の中国共産党トップ胡錦濤は、88 年11 月にチベット自治区党委書記、同軍区党委第1 書記に就任し、92 年秋の党大会で政治局常務委員に昇格するまでこの地位にあった。
この間はパンチェン・ラマの急死とラサ戒厳令による秩序回復の時期と重なる。89年ダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞したことは、チベット問題に対して世界の関心を喚起する上では効果的であったが、中国当局は天安門事件後の秩序回復に手いっぱいであり、ノーベル賞はチベット問題の解決には役立たなかった。
それどころか95 年11 月には、パンチェン・ラマの転生者を選ぶ権利をめぐって、中国当局とダラムサラ亡命政府との関係は急速に悪化した。ダライ・ラマが第11 世パンチェン・ラマに認定したゲンドゥン・チューキ・ニマ少年は、認定発表の日から3 日後、中国政府に拉致されて行方不明になったままだ。
その後、中国共産党のトップが江沢民から胡錦濤に交代する前夜の02 年9 月、チベット亡命政府使節団がチベット入りし、水面下の接触が再開され、昨年夏には、ダライ・ラマは「高度な自治を求める」だけで、中国からの独立は要求しないと表明した。しかし、中国当局は「ダライ・ラマは独立を捨てていない」と疑い、対話は行き詰まっている。
今回の騒乱は、対話の行き詰まりの中で、青年将校派ともいうべき「チベット青年会議」が呼び掛けて行われたごとくである。すなわちダライ・ラマは「状況が制御できなくなれば、指導者の地位を引退することが唯一の選択肢だ」と微妙な発言を行っている。ダライ・ラマは今、亡命政府の元首のポストにあるが、このポストからの引退を示唆しているわけだ。
中国当局は「ダライ集団」とひとくくりにして、二つのグループの違いをあえて無視しているが、明らかに路線の対立がある。「青年会議派」から見ると、ダライ・ラマの立場が中国とチベット「双方の利益を図る中間路線」であるのに対して青年会議派の立場は「チベット側の利益のみを図る立場」である。彼らはまた、ダライ・ラマの「非暴力路線」に対して「テロを含むあらゆる手段を用いる」と公言している。とはいえ、彼らも精神的指導者としてダライ・ラマを尊重し、「法王の存命中は、法王の立場を尊重する」と付け加えている。これが亡命政府側の内部事情のようだ。
温家宝首相は3 月18 日の記者会見で、今回のチベット騒乱を「達頼集団」の呼称を用いて、ダライ・ラマの策謀だと非難しているが、これは対話の目を摘むものであり、妥当ではないと考える。
北京オリンピックの聖火リレーは、チョモランマ峰(エベレスト)を5 月に登り、6 月にラサを通る予定である。このコースは、聖火リレーの目玉としてかねて話題になっていたが、中国当局にとって思わぬ伏兵が現れたことになる。
[3] チベット騒乱に対する国際的反響
国際的反応を幾つか見ておくと、ニューヨーク時事電によると、国連の潘基文事務総長は3 月17 日、中国チベット自治区で起きた暴動をめぐり同国の王光亜・国連大使と会談し、「懸念」を伝達したことを明らかにした。これは国連本部で記者団に語ったもので、潘氏は「中国当局側に自制を要請するとともに、さらなる対立と暴力を回避するよう全関係当事者に求める」と強調した。AFP通信(時事電)によると、フランスのクシュネル外相は3 月18 日、中国チベット自治区での暴動が続いた場合、欧州連合(EU)が翌週の外相理事会で、北京五輪開会式の不参加を検討する可能性も捨て切れないと語った。国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」(本部パリ)が開会式ボイコットを求めたのを受けて記者団に語ったものだが、翌日、この発言を修正した。
ブリュッセル時事電によると、EUは3 月17 日、中国チベット自治区での暴動について、「強く懸念する」との声明を発表した。声明は、中国当局、抗議活動参加者双方に自制を求めるとともに、中国当局に対しては、武力行使を控えるよう呼び掛けている。EUの執行機関である欧州委員会のスポークスマンはこの日の記者会見で、「暴動を極めて懸念している」としながらも、北京五輪に関しては、「チベット住民の人権尊重に向けた努力をする上でボイコットが適切な方法だとは思わない」と語った。
19 日にはローマ法王も定例謁見で対話を呼びかけている。ペロシ米下院議長は21日、ダラムサラを訪問し、ダライ・ラマと会談した。アメリカの ブッシュ大統領 も26 日、胡錦濤主席に電話をして、ダライ・ラマとの対話を迫った。
これまでの国際的反響を見ると、現時点で北京オリンピック・ボイコットを決定しようとする組織は見当たらないが、今後の事態の変化によっては、予断を許さないところがある。温家宝首相は3 月18 日の記者会見に続く、英ブラウン首相との電話会談では、(1)チベット独立を要求しないこと(2)暴力を放棄すること−の2 点を条件に対話に応じてもよいと答えたが、これは歓迎すべき態度であろう。
実はブラウン首相は今年5 月にダライ・ラマと会見を予定しており、法王のこの2点についての態度は確認済みであり、温家宝の2 条件が誠心誠意のものならば、対話は実現できるはずなのだ。胡錦濤はブッシュ大統領に対しては、対話の条件として「北京五輪に対する破壊活動の煽動の停止」を付加した。
[4] 胡錦濤とダライ・ラマ
実は胡錦濤が江沢民の後を襲って、中国共産党のナンバーワンになることを見越して、2002 年以来、ダライ・ラマと中国政府の代表者との間で6 回にわたる会談が行われている。6 回目の会談(2007 年6 月29 日〜 7 月5 日) が上海と南京で開かれるに先立ち、ダライ・ラマによって「中国指導層に手を伸ばす」よう任命された団長として、ロディ・ギャルツェン・ギャリは、ワシントンのブルッキングス研究所で示唆的な演説を行ったが、それは次のような内容であった。彼の2006 年11 月段階での発言によれば――
「それまでの五回の会談は相互理解を深め」、「対話を新しい段階にもたらし」、「チベットと中国の人々の未来にとって相互に納得のいく決断に到達するのに不可欠なオープン性の気風を確立するのに大いに貢献した」。
より具体的にいえば、第一に、ダライ・ラマの代表者たちは、「胡錦濤指導部が『調和社会』の創設を重視するという方針に勇気づけられ(中略)また中国の『平和的な台頭』により『繁栄した民主的で文化的に進歩的な近代的社会主義国』として発展しようとする発想に勇気づけられた」。次に、ダライ・ラマの方針は、チベットと中国との関係を解決するために、「チベットの歴史を見る」のではなく「未来を見る」ことだと指摘した。というのは、「歴史をふりかえっても何の役にも立たない」からだ。ダライ・ラマの「中道方針」の核にあるのは「チベットが中華人民共和国の一部であるという現実を認知することであり、チベットについて相互に納得のいく解決策を構築するにあたり、中国からの分離を持ち出さない」ことだと明言した。こうしてダライ・ラマは、「中華人民共和国の一部としてのチベットを含み、全チベット人を一つの行政区域に統合する必要性を認め、中国憲法の枠組み内でチベット人民に正真の自治権を与える重要性を認識するような解決案」に献身するという方針を明らかにしている。
ダライ・ラマはまた 2005 年11 月には、独立ではなく、高度な自治の内容をこう語っている。
「(中国)中央政府は国防と外交を担当すべきである。チベット人はこの面での経験がないから。だがチベット人は教育、経済開発、環境保護、宗教について全権を持つものとする」。
2002 年からスタートした対話は、2007 年7 月に突然打ち切られた。理由は明らかではないが、中国では秋の党大会を控えて、胡錦濤が左右両派の意見をまとめるために、柔軟路線を引っ込め、強硬な、従来の路線に戻ることを余儀なくされたからではないかと思われる。果たして、強硬なチベット政策が打ちだした。すなわち中国政府は、チベットの活仏が、政府の許可なしに転生するのは、違法で不当な行為にあたるとする規則の施行を発表した。
中国当局の声明によると、2007 年9 月1 日に発表されたのは、「活仏の転生を管理するための規則」なるもので、次のような新たな宗教管理政策を含んでいた。「活仏が転生する寺院は、チベット仏教の活動施設として登録され、活仏を扶養し正しい支援を行なえるだけの能力を備えている必要がある」「この法律は、市民の宗教の自由を守るもので、チベットの活仏制度の伝統に敬意をはらうもの」だとする説明が行われた。
これは宗教内部の事柄に対する甚だしい干渉であり、関係者からの強い反発を招いた。対話の断絶のあとで、登場したのはこのようなコワモテ路線であり、このような断絶状況を踏まえて、チベット青年会議が強い行動を提起し、3 月騒乱が発生した。
私の見るところ、チベット問題に詳しい胡錦濤がトップの座にあり、高齢のダライ・ラマ(35 年生まれ、73 歳)が柔軟路線を表明している現在こそ、問題解決の絶好の機会、唯一無二の機会である。ダライ・ラマのラサ帰国を促し、国防と外交を除く高度な自治を保証すること、これ以外にチベット問題解決の道はあるまい。
胡錦濤の英断を期待したい。8 月8 日夜8 時の北京オリンピック開会式にダライ・ラマ法王を招待するのがよい。そのための話合いを直ちに始めるべきである。
Colum
資料: ダライ・ラマ法王のメッセージ 2008年3月18日
この場をお借りして、チベットで起きている悲しい事態を憂慮してくださる世界各国のリーダー、国際機関をはじめとする人々に心からの感謝を申し上げます。また、デモ参加者への武力行使を抑制するよう中国当局に説得を試みてくださっていることに深く感謝申し上げます。チベットでの抗議行動を私が指揮していると中国政府が非難していますので、事実を明らかにするためにも、中国の代表団を混じえたしかるべき機関による徹底調査を行なうよう要請します。そのような調査機関に、チベット自治区、チベット自治区外のチベット圏、インド・ダラムサラの中央チベット行政府を訪れていただくことが必要です。国際的なメディアが調査に加わるならば、国際社会はもちろん、無検閲の情報を入手できないでいる10 億人以上の中国人にチベットで実際に起きていることを明らかにすることができ、極めて大きな助けとなります。意図的であるかどうかにかかわらず、私は、チベットで起きていることは文化の大虐殺だと思っています。チベットでは、チベット人のアイデンティティーが絶えず攻撃に晒されてきました。チベットに非チベット人が大量流入した今、チベット人は自国に居るにもかかわらず、わずかな少数派へと減じています。 言語、文化、伝統などチベット独自の文化遺産が刻々と消えています。中国政府は国家を統一するどころか、チベットをはじめとする少数民族に対する差別を行なっているのです。チベットにおいて僧院はチベット仏教文化の宝庫であり、学びの場であることは知られたところですが、その僧院の数も僧侶の数も深刻なまでに減らされています。かろうじて残っている僧院においても、チベット仏教の本格的な勉強をすることが禁じられており、学びの要所である僧院に入学することすら厳しく規制されているのが現状です。現実問題として、チベットでは宗教の自由がないのです。わずかな宗教の自由を求めることさえ、分離主義者のレッテルを貼られることを覚悟しなければなりません。チベットには真の自治がありません。中国の憲法で保障されている基本的な自由すらないのです。チベットで起きているデモ抗議は、中国当局が地域住民の感情を公然と無視するなかで長年抑圧されてきた住民の憤りが自然発作的に爆発したものだと私は思っています。中国は、抑圧をさらに強化することが「長期の統一と安定」という目標を達成する方法なのだと誤解しているのです。我々側は、中道のアプローチを続行し、チベット問題について中国と対話を行なうことでチベットと中国の双方にとって有益となる解決を図る所存です。ゆえに、国際社会に対し、対話を通じてチベット問題を解決したいという我々の努力にご支援を賜りたく思います。そして、武力行使を最小限に控えるよう、また、逮捕者を公正かつ適切に扱うよう中国指導部に呼びかけていただくようお願い申し上げます。
ダライ・ラマ インド、ダラムサラにて
(http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/080318_release.html より)
記事URL
http://www.21ccs.jp/china_watching/DirectorsWatching_YABUKI/Directors_watching_40.html