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KAL007便の生存者:その証拠と彼らの行方
公に、現時点において可能な限り最大限の方法で、また今の段階の調査結果に基づいたKAL007便の乗客の行方と状況に関して提示しています。「可能な限り最大限の方法」は始めに適格であるかどうかという事を必要としているのです。あなたがこれから読もうとしている事柄は、情報源からの詳細な文書調査というよりはむしろ、主に結果についてなのです。次の事柄からそう言えます。
いくつかの場合において、救出委員会が乗客の家族に対して為した決定的な秘密の関与があります。私達はその事の公表許可を待っています。これらの私達の関与は家族のために、そして継続されている協力関係のために敬意を払われるべきなのです。
追跡調査と追跡確証はいくつかの場合において、現在進行しています。
今なお、情報提供者の安全は危険にさらされている状況にあるのです。
この文の情報は、調査結果、直接そして間接の証言、そして「知識に基づいた憶測」を伴っています。この記事が、救出委員会に直接つながっていない情報源を含んだものの所で、その事実は書き留められているのです。いくつかの情報は十分詳述されているでしょう。そして他の情報は不十分に記されているでしょう(上記に挙げられた理由故に)。私は十分、詳述されたものとそうではないものとの間の対比による、不十分さを承知していますし、場合によってこれは陳腐な印象を与えるものであることも理解しています。情報確認を切に求める印象を必要としていますが、私はこれについては何もすることができません。神は数多くの国々の数多くの人たち、見捨てられ連れ去られた後、捜されていない多くの子供達の長く忘れ去られて胸が張り裂けるような状況に対して新しい徹底的な調査が為されるように働いています。あまりにも時間が経ち過ぎたと言う人たちにとって、その事は「過去を掘り返す」努力に値するのでしょうか? 私はそういう人たちに対して疑問に思って答えるでしょう。あなたは問題を解決するのにどのくらい時間を提供してくれるのですか?そのような出来事の後のどの年まで調査を続ければいいのですか? 事実を掘り返すのは新しい調査に値することでしょうか?私達の愛する者をあきらめるのにどのくらいの年月が適切なのでしょうか? 他の誰かの愛する者をあきらめるのに?
まず第一に、一般的な認識に反してKAL007便の撃墜の後に、乗客と彼らの家族との接触は存在したのです。最もドラマティックで衝撃的な事は、かなり前に起こったのですが、最近、私達の注意を引くようになってきています。
1991年、KAL007便の乗客だった子供の母から、KAL007便に乗っていた乗客の妻である女性が、撃墜の直後に夫から電話を受けたが会話はすぐに切断されたという事を私達は知らされました。彼女はこの女性とその夫に関する同一証明の情報を提供しましたが、私達は接触するための手段はとりませんでした。なぜ私がその事柄を追求しなかったのかということを理解するのは今もなお難しい事です。乗客名簿から乗客の身元の相関関係を作るのは可能だっただろうと私は思います。
ともかく、約1年前にKAL007便生存者救出委員会は乗客の1人の娘から手紙を受け取り、さらに最近、その同じ乗客の姪から手紙を受け取ったのです。その娘は私達に、彼女らが若かった時にお母さんが「私はあの撃墜の事件の後に、夫から電話を受け取ったの」と語った話を語ってくれました。姪はさらにその情報に付け加えて、彼女の叔母(そのお母さん)が旦那さんからの電話を記録したものを音声分析してもらうために送付したと語ってくれました。これら2人の女の子は、その事があった時(電話がかかってきた時)は、十代でした。現在、もちろんですが、彼女らは大人の女性です。これらの明るみになった詳細から、その電話を受け取った女性は実に私達が1991年に話を聞いた女性だったという事が更に明らかになったのです。
私達はついにその乗客の妻と接触し、最初は私達とのコミュニケーションにおいてためらいを見せていたのですが、彼女は前述のとおりの事を話し、私達に次の事柄を語ってくれました:彼女が出かけていた時に電話が来て、その内容は留守電機能に記録されていたのです。彼女は帰宅するや否やその内容を聞き、彼女の夫の声を聞いたのですが、その電話の声はすぐにほとんどの部分が切断されてしまっていたのです。彼女はそのテープを弁護士に送り、その弁護士は行政機関の「適切な」当局にそのテープを送りました。そのテープが、以前記録された夫婦の会話の「傷んで聞き取りにくいテープの一部分」であったと彼女が教えられたので、そのテープの音声は明らかに彼女の夫からのものであると分かりました。彼女は、テープは留守電に入れたばかりの新しいテープであったので、これは本当ではないと知ったのです。そのテープには以前の会話というものはなかったのです!その音声は「私達は ...いるだろう」というもので、そして最後の言葉は切断されていたのです。しかし最後の言葉は「家に」または「調子がよく」というものだったのでしょう。この女性は今なお電話が留守電に記録されないで、その時家にいて受け取っていればと自分を責め、この事を外に公表するのに長い時間が費やされた後、初めて後悔したのです。そして今でもテープの切断についても悔しい気持ちを抱いているのです!
私達は現在、その会話を記録した最初のテープ、もしくは次善のコピーを得ようとしています。その事により、再びその事件を調査する事に進展が見られるでしょう。しかし、この女性は各方面からの妨害、彼女が電話の事を明かした最初の年に起こった妨害により、かなりひどく精神的苦痛を受けたのです。
この事件は委員会が受け取った他の報告にとても類似しているのです。今回は第三者からの報告です。
「...KAL007便が撃墜されて数週間後、私はサンフランシスコの「KGOトークラジオ」を聞いていました。私は、KAL007便の運命について語ろうと電話してきた若い女性が、彼女の親友の婚約者がKAL007便に乗っていたと語るのを聞いて驚いてしまいました。彼女はKAL007便がソ連の迎撃機によって撃墜された後に、婚約者が電話してきたことを明かしていました。彼(婚約者)は彼女に、自分は安全だがもう二度と彼女に会えないと悔やんで報告したのです。この種の情報をあなたの組織のウェブマスターに知らせてきた人はいましたか? 他の乗客が愛する家族、友人に接触してきたのでしょうか? このラジオを聞いた後何年間経っても、この若い女性の話したことは私の心につきまとっています。彼女は真剣そうに見えましたし、彼女の通った状況に圧倒されているようでした。私の夫はPOW(戦争捕虜)で、北ベトナムから帰還していなく(生存しています)、KAL007便の乗客の運命は、私達のPOWの切捨てと同じぐらい辛いものです。」
2つの上記の報告に、私は信頼できると考えられますが、調査が必要な他の4つの報告を付け加えようと思っています。これらの4つは、はっきりと家族に対する乗客の接触を含んではいませんが…
様々なPOW/MIA(行方不明兵)グループの統括団体、一般的に「黄い花配布」と関連している組織である「忘れな草」の会長であるウォルター・オレイリーは、新しいロシア連邦での公務中に、彼が旧ルビヤンカ中央KGB刑務所の階段にいた時、2人の男に近寄られて声をかけられ、「我々にはあなたの国の議員がいるんだ」と内密に言われたのです。オレイリーは素早く歩き去りながら、「そんなはずはない」とびっくりした反応を示したのです。彼はそれから彼らはKAL007便に乗っていたラリー・マクドナルド下院議員の事を意味していたに違いないという事を理解しました。彼は急いで階段に戻ったのですが、男たちはもういなかったのです。
ニューヨーク、ロングアイランドのキリスト教のある聖職者が、ロシアを訪れている時、信仰ゆえに投獄されて、KAL007便のアメリカ人の一団と信じている人達と一緒だったと語ったロシア人の牧師と接触したと報告しています。彼らはKAL007便撃墜と同じ週に刑務所に到着したのです。始めは西洋の民間人の身なりをしていて、その後彼らは通常の囚人服を身に着けたのです。このロシア人の牧師は現在、アメリカ合衆国の西海岸に住んでいて、ロングアイランドの聖職者となおも接触を保っているのですが、ロシアにいる彼の親族の安全、そしてアメリカにおける彼自身の安全を恐れて、その事についてはそれ以上語ろうとしないのです。特定の監視している人達が、誰にも刑務所経験について語らせないために、脅しを持って警告しながらその牧師の地域のロシア人の移民者の間を巡回しているのです。そのロシア人の牧師は私と「音声変声機」を使って語ってくれる事に同意したのですが、その後気が変わってしまって実現しなかったのです。
そして前ロシア学士院会員で、現在アメリカ合衆国に住んでいるデービッド・スタビツキーの奇妙で身の毛もよだつような話しがあるのです。ロシア語のアメリカ/イスラエル出版社のアレフに載った記事の中で、スタビツキーはKAL007便撃墜ちょうど3週間後、戦闘中の向精神薬効果の分野の大学教員の会議の準備を進めていく中で、コドゥモフという医療大佐と議論したのです。彼らの議論は認知を変えることにおいての超心理学の使用に導かれたのです。コドゥモフはモスクワ近郊のセルブスキー研究所で始まったプログラムの事をスタビツキーに知らせました。そのプログラムは後にスベルドロフスク研究所で「アドニュア」(下の注1を見て下さい)と呼ばれる実験プログラムに採り入れられました。アドニュアは、捕らえられた外国籍の人間が従順なスパイとなって自分の国へ帰り、例えばアメリカ人として全ての行動に対応し、しかも彼らのソ連の「調教師」(下の注2を見て下さい)に忠実で従順な情報提供者となるべく、自分のアイデンティティーと行動原理を洗脳されて変えられるというプログラムなのです。コドゥモフはスタビツキーにKAL007便の乗客はアドニュアプログラムにかけられただろうと語ったのです。何が私達を仰天させるのかと言えば、KAL007便の乗客が確実にアドニュアプログラムの施設に入れられたという事ではなく、ソ連の科学研究所に関わっている医療大佐が、KAL007便の乗客がそのような人道的にひどいプログラムにかけられているのが見付かるという「現実に起っている事」を提示した事なのです。
ラリー・マクドナルド下院議員と他の人達
(この情報は主にイスラエルのアブラハム・シフリンが所長である「ソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所リサーチセンター」から来ています)
1983年8月31日に撃墜された大韓航空機007便の乗客と乗組員の行方に関する私達の知識は第一にソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所リサーチセンターから受け取った情報に基づいています。このリサーチセンターは自分自身がソ連の収容所システムに送られたイスラエル人の最近亡くなったアブラハム・シフリンによって設立されました。赤軍の少佐、クリミアの北東のクラスノダール地域の検察官として、彼は矯正収容所に多くの人間を送る事に責任を持っていました。彼自身がアメリカとイスラエルの為のスパイ活動をしたとして有罪判決を受け、旧ソ連の最も過酷な収容所で10年間服役したのです。それからカザフスタンで7年間の流刑となりました。シフリン氏はソ連とその後継国家において広範囲な人脈ネットワークを維持していました。私達が有している情報の多くは、彼の偉大なリスクをかけた人脈の接触によって得られたのです。
1989年から1991年にかけてのセンターの調査は、KAL007便の乗客と乗組員は救出の後すぐにサハリン島のKGB沿岸警備隊に連れていかれたという事を結論づけたのです。2、3日以内に(1983年9月4日までに)ウラジオストックのおおよそ600マイル北の、サハリン島と向かい合ったシベリアのソベツカヤガバンのKGB基地に皆は連れていかれました。ここで男、女そして子供はそれぞれ別のグループに分別されたのです。男と女は列車でおおよそ800マイル内地のバイカル―アムール鉄道上のティンダに連れていかれ、そこで少なくとも幾人かは強制労働収容所に入れられたのです。大人の男性はある時点で、シベリア中の沢山の別々の収容所に送られ、その収容所のいくつかは、アメリカ人の戦争捕虜と他の外国人の囚人を収容していると考えられている収容所だったのです。これらの収容所は完全に隔離されて、周りに村が全くない外国人用の収容所と定義されています。通常、囚人が収容所から釈放されると、彼らは収容所近郊で流刑人として生活することを要求されるのです。彼らの家族もそこに住み、村は収容所の周りで大きくなるのです。外国籍の囚人は釈放されません。それゆえ彼らの収容所の周りには村というものはないのです。
ジョージアの第7選挙区の民主党員のローレンス・P・マクドナルドは残りの乗客から分けられ、だいたい1983年9月8日に特別な航空輸送機でモスクワかその当たりに移動させられました。特別なKGBの警備部隊が彼に付き添う様にとハバロフスクから連れてこられました。KGBは注目を集める囚人、最重要人物そして厳戒警備を必要とする他の人たちを輸送するために広範囲に使われた910xxシリーズの特別な飛行機部隊を持っていました。これらは、非常に短い移動にも陸上輸送の代わりに使われたのです。
子供の乗客はソビエツカヤ・ガバンの特別に設立された、隔離された臨時の孤児院に10月の終わりまで収容されていました。彼らはその後、徐々に彼らの人種に基づき、ウラジオストック、ノボシビリスクに近いオムスクとバルナウルとカザフスタンの様々な孤児院に移されました。その子供たちを移した意図は、彼らをこれらの地域の支配的人種の人口に同化させる事でした。
マクドナルド下院議員
モスクワに着くやいなや、マクドナルドはルビヤンカKGB収容所に連れて行かれ、そこで「囚人No.3」という名前をもらったのです。ルビヤンカにいる間、彼は隔離され尋問がある時だけ独房から出させられたのです。(尋問のために連れ出された人間の足音が独房で聞かれない様に、ルビヤンカの廊下にはじゅうたんが敷かれています。全ての人間が覗き穴を通して、常時観察されているのです。少しの運動を許された人間は外の通りからは高く、見る事ができない収容所の屋上にある小さい塀で囲まれた運動場に連れて行かれるのです。)彼は数回、KGB第一総局長のウラジミール・クリュチコフに尋問されました。(クリュチコフは反ゴルバチョフの中核グループ、「8人のギャング」の一員で、1991年8月、ミハイル・ゴルバチョフから権力を奪取しようとしました。彼はクーデターが失敗した時逮捕されましたが、後に釈放されました。彼は2000年のウラジミール・プーチン大統領の就任式に−プーチン氏の個人的な招待で− 参加したのです。クリュチコフ氏は現在、国際的に講演活動をなしている名の知れた人物です)
沢山の尋問の後、マクドナルド氏は数ヶ月に渡る継続した尋問を行う目的で、モスクワにあるレフォルトボKGB収容所に移されました。レフォルトボでは、囚人は凍結温度近くまで人工的に冷却された独房に置かれたのです。これらの独房は横がだいたい1.5メートルまたはおおよそ4.5フィートしかなかったのです。地面がむき出しの床は、囚人が泥の上で立ち、横になる様に水浸しになっていたのです。囚人が足を反対の壁につけて、身体をもたれかけられる様に斜めの長椅子があったと思われています。
レフォルトボでの生活の後、マクドナルド氏は、尋問が引き続き行われたモスクワ近郊のスハノーファーにあるダッカ(夏の別荘)に移されました。シフリン氏の調査チームは、マクドナルドはスハノーファーにいる間に、薬剤を用いた尋問によって最終的に自分が誰なのか分からなくさせられたという事を強く確信しています。彼はソビエトの重要な核ミサイル発射場と、それと同様の設備があるカザフスタンのカラガンダの収容所に最終的に移されました。彼は、アメリカの核計画について話せる事と、ソビエトの計画について知っている事を話させる目的のために専門家によって尋問される目的でこの地域に連れて来られたのかもしれません。
1987年の始めに、前NSAの調査官のジェリー・ムーニーはアメリカ連邦議会で、「モスクワ・バウンド(ベトナムの戦争捕虜がソ連に連れて行かれた事)」計画と、ソビエトの核計画の中心として、そしてある高度の技術を持ったアメリカの戦争捕虜が連れて行かれた場所としてのカラガンダの重要性を証言しました。彼の証言の後で、世界の報道機関はこの地域に着目しました。マクドナルドがカラガンダにいたという事実を秘密にするために、彼は1987年の中頃、特別な輸送機関でカザフスタンにあるテミール・タウの町の近くにある小さな収容所に移されました。この収容所の看守は、当時マクドナルドがどのような外見だったのかという事を知るためにコンピュータ処理された写真から彼を特定したのです。その写真はまた、彼の左の鼻孔から唇の左端にかけて走っている傷口をも写していました。
(カザフスタンのテミール・タウ収容所の看守に見せられたラリー・マクドナルドのコンピューター合成の写真は、http://www.rescue007.org/faq_japanese.htm#10)
彼はここで特別治療(拷問、薬品を用いた尋問)を受けましたが、誰とも話す事を禁じられたのです。1990年の夏に、彼はカラガンダの交通刑務所に連れて行かれました。ここで、KGBによってファイルが封印された見知らぬ囚人として彼は収容所生活を送りました。1995年の時点で、カラガンダからさらなる情報を得ようという試みは失敗に終わっています。マクドナルド下院議員の現在の位置は分かっていないのです。―カラガンダかもしれませんし、彼は違う所に連れて行かれたのかもしれません―
子供の乗客
KAL007便の子供達の跡を突き止めるのはとても難しい事で、幼い子供たちの多くは、おそらく連れていかれた地域の人たちの養子となりました。2人のコーカサスの若い姉妹についての情報が得られたのですが、彼女らはニューヨークのロチェスター出身のグレンフェル家の3歳と5歳の、ステーシーとノエルだと私たちは信じています。彼女らは1990年までウラジオストックの孤児院に送られていたと思われています。長女はおおよそ12歳の時、ハバロフスクの市民病院に付随した一種の高等専門学校である第3医学校に訓練のために送られました。私たちがノエルとみなしているその問題の少女は、そこを3年で卒業しその後どこかに連れ去られ、彼女の籍は学校と病院から抜かれたのです。この時点から彼女の足跡は分からなくなっています。この情報はその学校の校長からのものです。
ある女性の乗客
ある情報源は、シベリアのティンダ地域で樹木伐採の仕事に就かせられた1人の若い東洋人の女性についての情報を提供しています。1985年以前に、彼女は労働災害で左腕の肘から下を失ってしまったのです。その後、彼女は広大なシベリア大地を横切って、北極圏より北のタボブスカヤ・グバ(入り江)にある完全に隔離されているナホトカと言う村に送られ、彼女はそこで1991年か1992年の晩夏のある時まで居続けたのです。この時まで彼女は結婚し、何人かの子供を持つに至りました。その村は、その地域の漁師と2、3人のロシア人の流刑者が住んでいる20か30ぐらいの家より成り立っていました。村人はほとんど外界と遮断されて、人間以下の状況の中で暮らしているのです。一年のほとんどが冬で、半年は北極の暗い天気で覆われているのです。状況があまりにもひどいので、村人たちは―ほとんどの人がロシア語が話せないのですが―生き残る事とウォッカにしか関心がないのです。
ナホトカの村人は、その女性の事を彼女の東洋的な外見から先住民のネネツ族出身だと思っていました。彼女は誰とも付き合わなく、彼らは概して彼女自身の事を知るという事はなかったのです。彼らは、彼女は権力者によってここに連れてこられた事に気付いていました。それはKGBがアブラハム・シフリンと彼のリサーチセンターの彼女の位置を特定しようとしている動きに気付いたからだったのでしょう。シフリンは自分の部下を、彼女が移される前の1年前にこの村に送ろうとしましたが、財政的状況が続かなく出来なかったのです。彼が必要な財源を確保しこの大変危険な任務をこなす志願者を確保できた頃には、この女性は消えてしまっていたのです。
留意すべき重要な事柄は、どんな理由でも囚人は釈放される時に、ナホトカのような隔離された村に送られたという事です。彼らが、きちんとした移動の自由が与えられても、広範囲なKGBの監視ネットワークから脱出するという事はありえなかったのです。ソビエトのKGBはそのような村人をコントロールするために、その地域の密告者を利用したのです。密告者は「KGBの目的を達成する力」として利用されるために、監禁されている家族の安全が脅かされる事によって次々とコントロールされていきました。KGBは共同体の中の信頼できるメンバーを、密告者として採用する目的で選りすぐっていったのでしょう。それでKGBは選んだ人物をテストするために、ある人間に反ソビエト的な事をKGBの前で言わせたのです。密告者がKGBの「調教師」にそのような言動を報告しなかった時は、彼の家族は食事を取り上げられた事を知らされるのです。もしそのような事が再び起こると、彼らは射殺されたのです。シフリンはKGBのその巧妙なやり方は、「極悪非道であり、100パーセント有効であった」と考えています。
名前は変わったとしても、以前より低姿勢であったとしてもKGBは今なお従来通り広範囲な力を有しているのです。ロシア大統領のウラジミール・プーチンは、政界に入る前はKGBの一員だったのです。
大人の男性の乗客
情報源は、男性の乗客と乗組員のほとんどは、一連の、中国との国境から遠くないザポクロフスクという村の近くを流れるアムール川に沿った濃密なタイガ地域の3つの極秘収容所に連れて行かれた事を示しています。これらの収容所は、アメリカ人の戦争捕虜がいたと知られているのと同じ収容所です。それらの敷地はとてつもなく広いのです。冬期は、80から90の煙突から煙が立ち上っているのが見えるのです。それぞれのバラックには2つか3つのストーブがあり、収容所には、30かそれ以上のバラックの住居がありました。不運な事に、その収容所に着き、視覚的に乗客を確認しようとした計画は、その地域の厳重警備のために失敗に終わってしまいました。
さらなる収容所は、ソビエト軍極東戦域司令部があるチタ地域のネルチンスク、ネルチンスキー・ザボードと他の場所にあったのです。
当時、北極海のロジャース湾とウランゲル島には外人の囚人用の3つの他の極秘収容所がありました。シフリン氏は何人かの乗客と、特に乗組員が、飛行訓練を受けていたという理由でウランゲルの収容所に連れて行かれたという事を信じるだけの根拠を持っていたのです。これらの収容所はそれ以来、撤去され、全ての収容者はどこかに移されたのです。
「結論:KAL007便の不時着水は成功し、生存者は存在し、ソビエト軍はその事を隠蔽し、そして現在生存している乗客を帰還させるべき外交的努力が必要とされている」上院外交委員会における1991年の共和党員論文(草案)
同僚であるラリー・マクドナルド下院議員を含む犠牲者を帰還させるために自分自身をその任務に投じ、徹底的に調査しようとする勇気のある上院議員または下院議員はどこにいるのだろう? 徹底的に調査する、洞察力があって粘り強く調査に強いリポーターはどこにいるのだろう? 生存している ―例え1人であっても― 乗客が家族、友人の所、国に帰るまでこの事件を放っておかない市民の叫びはどこで聞かれるのでしょう? いったいどこで?
バート・シュロスバーグ
国際ディレクター
KAL007便生存者救出国際委員会法人
注:
精神状態変化実験のセンターとして機能しているセルブスキー研究所兼精神病院は、前ゼレノグラードソビエト代理人でありロシア連邦人権委員会のメンバーであるエミリア・チェルコベルから驚くべき確認を受けたのです。ウラジオストックとモスクワの収容所とオルヤル精神病院と同様に、チェルコベルは、マイクロ波(サイコトロニック[生体はものに働くエネルギーを発するとする超心理学の一派]と電磁気装置)実験が1989年から1990年の間にモスクワのセルブスキー研究所で人間に対して行われたと主張しているのです。
アドニュアは、「チャームスクール」として通常知られ、しかし超心理学的な思想注入を伴うソビエトのスパイ養成機関の1タイプと思われます。典型的なチャームスクール活動は現在、最近出版された、ネルソン・デミルの「チャームスクール」(ニューヨーク:ワーナーブックス、1988年)を通して明らかに(そして小説に)なっています。
http://www.rescue007.org/survivors_japanese.htm
http://www.rescue007.org/japanese.htm
大韓航空機撃墜事件について
http://www.asyura2.com/07/revival2/msg/179.html
国際連合の地下に核爆弾情報
http://blogs.yahoo.co.jp/true_love_of_gabriel