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12/21/2007
第270号 12月に思う
>「日々通信」いまを生きる 第270号 2007年12月21日<
12月に思う
12月8日は日本が対米英戦争に突入した日、12月13日は南京陥落の日だ。1937年7月7日に蘆溝橋の1発の銃声をきっかけに、大軍が派遣されて中国全土におよぶ大戦争に発展した。
中国を侮った日本の政府と軍部は一撃で屈伏すると思っていたが、抗日統一戦線が成立し、頑強な抵抗戦争が展開されて、上海に上陸して首都南京をめざす日本軍は苦戦がつづいた。1937年11月、さらに別の大軍が杭州湾に敵前上陸し、悪戦苦闘の末、12月13日にようやく首都南京が陥落した。
火野葦平はこの年9月に召集され、杭州湾敵前上陸に参加し、南京攻略軍の一員として苦しいたたかいの日々を送った。この経験を書き綴ったのが「土と兵隊」である。出征前に発表した「糞尿譚」が芥川賞を受賞し、南京攻略のあと駐屯した杭州で受賞式がおこなわれた。その後、報道部に転属させられ、徐州のたたかいに参加して「麦と兵隊」を書いた。
→http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/sh21.htm
この年12月15日、南京から故郷の父に宛てて書いた手紙には杭州湾上陸以来の苦しいたたかい、中国兵の捕虜殺戮の様子などが率直に記されている。
→http://www.geocities.jp/yu77799/hinotegami1.html
南京陥落に日本国内では旗行列や提灯行列がつづき戦捷気分に溢れたが、国民には知らされなかった南京大虐殺は中国人民の抗日意識を強め、全国的な抵抗運動が展開されることになった。蒋介石は首都を重慶に移し、抗戦をつづけた。日本軍は38年4月から5月にかけて,徐州作戦,8月から10月にかけて武漢攻略作戦,10月には広東攻略作戦と大軍を結集して血みどろの戦いを展開したが、武漢,広東攻略戦が,日本軍の進攻作戦能力の限界であった。1939年以後は,日本軍は既に占領した地域の確保だけに追われて,前進することができず戦争は長期持久戦の段階に入った。
両軍の正規軍が激突する近代戦では日本軍は連戦連勝だったが、わずかに主要都市と交通路を確保するのがやっとで、その周辺にひろがる広大な農村地帯は共産党の八路軍・新四軍と地域武装抵抗勢力が支配した。毛沢東の「持久戦論」が発表されたのは1938年5月である。
戦争は軍需インフレを生み、一時的に好景気を迎えたが、やがて戦力の限界、物資の不足によって国民は耐乏生活を強いられることになった。その転換点は1939年頃だったかとおもう。
昭和10年代の初頭はアメリカ的大衆文化が大量に流入し、消費文化が急速にひろがった時代だった。それが急激に物資の窮乏におそわれたのだ。
学生の動向を見てもかつては左翼学生が大量に出たが、1933年の滝川事件を頂点に、はげしい弾圧におそわれ、転向が続出した。前途を見うしなった学生たちをとらえたのは倦怠と頽廃だった。学校をさぼって、ぼんやりと喫茶店で時を過ごす学生が増えた。しかしそれもいわゆる不良狩りの名のもとに警察に狩りたてられ、学校を退学になったりした。
野上弥生子の「迷路」は滝川事件で検挙され、転向した学生菅野省三を主人公としてこの時代の動向を鮮明に描き出している。
「迷路」については 平和新聞<文学にみる戦争と平和>第20回に簡単な紹介を書いたので参照していただけるとありがたい。
http://homepage2.nifty.com/tizu/sensoutoheiwa/hs20.htm
野間宏の「暗い絵」は1937年の日中戦争が本格化した時代の最後の学生運動を描き、堀田善衛の「若き日の詩人たち」はその少しあとの学生たちの生活を描いている。野間 宏は1915年生れ、堀田善衛は1918年生れで、描かれた学生生活にはわずか2,3年のちがいがあるだけだが、この間の落差がいかにおおきいかに驚かされる。
「暗い絵」については「『暗い繪 』自己の絶対化と自閉的世界」http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/kuraie1.htm
堀田善衛については「『若き日の詩人たちの肖像』と『記念碑』−ほか」http://homepage2.nifty.com/tizu/sengo/hotta%20wakakihi.htmを参照していただければありがたい。
「細雪」に描かれたのは二・二六事件の1936年から1941年、対米英戦争直前まで約五年間である。美しい姉妹の贅沢な生活が描かれているが、彼女らの実家も時代の波にながされて次第に没落していく。この作品が発表されはじめたのは1944年、対米英戦争も末期になり、国民生活は極度の窮乏に追い込まれていた。この時期にやがて贅沢は敵だと排撃され、日常品も衣類、食糧も配給制度となる直前の、1939年当時の最後の華やかな生活の回想からこの作品が描かれていることは興味がある。
翌1940年は建国2600年を記念する行事がつづき、大政翼賛会が成立して急速に挙国一致の新体制=戦時体制が確立さ、国民生活は日に日に窮乏し、小学校は国民学校になった。長期化して終結のめどもない対中泥沼戦争に追いつめられて、軍部は中国の背後の米英勢力に対する博打的な戦争に突入する準備を着々とすすめていたのである。こうしてあの12月8日を迎えることになる。
「大本営陸海軍部発表。十二月八日午前六時。帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
私とほぼ同年の北杜夫は「楡家の人々」にこのラジオ放送のことばをしっかりと書き留めている。このことばから私たちの戦争ははじまった。その朝、中学3年の私は野外教練で荒川土手にいた。年に一度の査閲のための予行演習で全校生徒が集まっていたのである。ひどい寒さだった。荒川土手は霧がたちこめ吐く息が白かった。朝早く家を出たので私はそのニュースを知らなかった。友人から聞いて、<西太平洋>とはどこだろうとか<戦闘状態に入れり>とはどういうことだろうとか、ひそひそ話し合った。それが何を意味するかは私たちは誰も知らなかった。すべては霧のなかだった。
戦争終結の天皇のことばは私は陸軍二等兵として甲府の朝鮮の王族李健公の邸宅の庭先に整列して聞いた。その間横たわる歳月は3年8カ月である。この3年8カ月のあいだに私たちはどれほどの経験をし、日本の運命はどれほどの変化をしたのだったろう。突然のラジオ放送ではじまった戦争は突然のラジオ放送でおわった。私たちの意志とはかかわりなしにそれははじまり、それはおわった。戦争とはそういうものだ。いま、インド洋での石油補給活動について議会が大もめにもめているが、戦争がはじまるときは国民に相談などいっさいされはしないのだ。そして一度はじまった戦争は国民の生活を破壊し、何千何万何十万の人の命をうばうのだ。
柳条湖の鉄道爆破から蘆溝橋事件まで6年、中国全土に戦争が拡大して、はじめは一撃で屈伏すると思っていた中国人民の抵抗に手を焼き、ことの重大さに気づいたときはもはやのっぴきならない窮地にたたされていた。そして<ジリ貧かドカ貧か>などとやけくそなことばをはいて破滅的な大戦争に突入するまでが4年、そしてほとんどすべての都市を焼かれ、広大な全戦線で壊滅的打撃を受け、ついにあの8月のラジオ放送までが3年8カ月である。
この15年の経過はアフガン、イラクを攻撃し、のっぴきならなくなってイランとの開戦に追い込まれるかも知れないアメリカの運命といかにも似ている。はたしてアメリカはイラクから名誉ある撤退を実現できるか。しかし、撤退してもイランとの戦争に踏み込むことになっても、アメリカは敗北するしかないのであり、大変な戦費を浪費してアメリカ経済は破綻するしかない。それは世界経済の破綻であり、ひたすらアメリカに追随する日本にとっても壊滅的な打撃である。この一年はそうした世界史の動向がはっきり見えてきた一年だったことを、12月も押し詰まってあらためて思うのである。
いよいよ寒さも本格的になり、越年の準備にお忙しいことと思う。私の家では妻の骨折もあり、私もやっと日々を過ごすという状態なので、大掃除もなにもしない。人並みのことをしようと思えば気がせくばかりでなにもできないのを嘆かなくてはならぬ。人生のおわりの時期だから、もう人並みにあわただしくすごすのはやめにして、暮れも正月もない日々を送ろうと思う。
この年末は冬の文学学校で伊豆の天城温泉で小林多喜二の話をしながら過ごすことになる。この1年は、韓国の金正勲さんが私の著書を翻訳してくれたことがきっかけで、韓国日本語文学研究会で講演し、この翻訳と講演が韓国で話題になり、日本でも紹介されて思わず多忙な日々を送った。そして来年は欲張ってもう1冊多喜二の本を出そうと思っている。元来は漱石関係の論集を出したいと思っていたのだが出版事情がわるくて出してくれる本屋も見つからずのびのびになっているうちに、思わぬことから多喜二の本を先に出すことになった。これでは生きているうちに念願の漱石論集が出せるかどうかわからない。みなさんのご援助をお願いする次第である。
今号もまた発行が遅れてしまった。これがいまの私だと思っておゆるしねがいたい。みなさんもそれぞれのペースでこの年の暮れをお過ごしください。
発行者 伊豆利彦
ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu
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【関連サイト】
白樺文学館 多喜二ライブラリー
http://www.takiji-library.jp/announce/2007/20071006.html
『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』ハングル版が韓国で刊行
多喜二の生誕104年に『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』ハングル版が韓国で刊行 ―白樺文学館多喜二ライブラリー海外出版助成の一冊が完成―
「戦争と文学―
いま小林多喜二を読む」
ハングル版表紙(http://www.takiji-library.jp/announce/2007/img/2007100602_s.jpg)
白樺文学館多喜二ライブラリーの2005年度の特選図書である、伊豆利彦(横浜市立大学名誉教授)氏『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(本の泉社 2005年)が、金生勲(>全南科学大学副教授/同大学日本文化研究所長の手でハングル訳され、10月上旬、ソウルの学術専門出版社・J and Cから刊行される運びとなりました。同書は、白樺文学館多喜二ライブラリーの海外出版支援の一冊です。
以下は、伊豆利彦『戦争と文学―いま小林多喜二を読む』(本の泉社、2005年6月)の翻訳を担当された金正勲副教授の「訳者の弁」を、日本語に抄訳し、ご紹介させていただきます。
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ハングル版『蟹工船』 大阪多喜二祭に展示(未来の小林多喜二)
http://f-mirai.at.webry.info/200709/article_44.html