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「題名:No.801 米国の政策にNO
From : ビル・トッテン
Subject : 米国の政策にNO
Number : OW801
Date : 2007年12月03日
米国では、在イラク大使館でのポストを埋めるために強制的に赴任命令を出す方針を決めたところ治安に不安を抱く職員から反発がでている。ブッシュ大統領はイラクの治安は改善されていることを強調したが、自分がイラクへ赴任するわけではないのだから無責任なものだ。
(ビル・トッテン)
米国での政策にNO
最近たて続けに、米国がなぜこうもイラクへ介入するのかという質問を受けたので、私の考えをまとめてみたい。ここにきて民主党の大統領候補でさえも、イラクにおいて米国が強い軍事プレゼンスを続ける意義を言い出している。ヒラリー・クリントンは「国益を守るため」、オバマは「中東地域における米国の影響力を維持するため」という具合である。
なぜイラクが米国の国益に重要か、それは米国の行動を見れば明白だ。イラクの土地の下にある「石油」の利権がかかっているからにほかならない。
中東地域は第二次大戦中から大切な場所だった。1945年、ルーズベルト大統領はサウジアラビアのサウド国王と会談し、それ以来サウジアラビアは米国からの支援を受けるようになる。1953年にイランの石油が国有化されそうになると、米国は民主的に選出されたイランの政権を転覆した。70年代、OPEC結成により、中東での米国の影響力はかげりを見せ始めたが、その頃はまだ米国も石油産出国だった。1979年、イランで宗教指導者ホメイニ師が革命政府を樹立、同年、パーレビ王政を支援していた米国への民衆の怒りから、在テヘランの米国大使館の乗っ取り事件へと発展し、米国はイランと断交する。
この後の米国の中東戦略を決めたのは1980年、カーター大統領の『カーター・ドクトリン』である。「湾岸地域における紛争を米国の死活的利害に対する脅威と見なし、武力を含む、あらゆる方法で介入する」という方針で、これが戦略の核心に据えられた。具体的にはその直後に「緊急展開軍」が提案され、これを実行したのが湾岸戦争だった。
1991年の湾岸戦争は、サダム・フセインに中東の石油の支配権を渡さないようにするために適用されたカーター・ドクトリンだったといえる。またこの戦争からサウジアラビア王室は米軍に依存する体制となり、サウジ内に米軍基地が建設された。
2001年、ブッシュ政権が始まった頃には中東での影響力はさらに弱まり、また米国は石油輸入国に転落していた。同時に世界石油需要は急騰し始めていた。サウジアラビアではサウジアラビア人が作った組織アルカイダが、王室や米国から石油を自分たちの手に取り戻すことを目的にテロ活動が活発化していた。911の犯人だというビンラディンなど、アルカイダのメンバーがほとんどサウジアラビア人だったのはこのためである。
次にブッシュ大統領がとった行動は、当時のオニール財務長官の証言や資料をまとめた『忠誠の代償』という本に詳しい。同書によればブッシュ政権は発足当初から国家安全保障会議で早くもイラクの政権を交代させ、イラクを市場経済に方向転換させ、親米の石油政策をとらせることを検討していた。そしてまずアルカイダを保護するアフガニスタンのタリバン政権を一掃し、それからイラク攻撃を開始したのである。9月に発刊されたグリーンスパン前米連邦準備理事会議長の回顧録、『動乱の時代─新たな世界での冒険』を読むと、そこにもイラク侵攻の理由は「大量破壊兵器」ではなく石油だったことが書かれている。米国にとって、石油が西側経済に協力的な者の手に握られ続けるようにすることは必須であり、だからこそイランも攻撃の対象となっている。つまり、米国の覇権のためには、石油を掌握することは欠かせない。なぜならそれによって日本を含む石油に依存するあらゆる社会を、米国の支配下におけるからである。
2002年にノーベル平和賞を受賞したカーター元大統領が、あのようなドクトリンではなく、石油から代替エネルギー資源に移行し、同時にエネルギー保護に向かう政策を打ち立てていれば、米国と世界は大きく変わっていただろう。しかし今からでも方向転換は遅くはない。世界が米国の政策にNOといえばよい。問題は日本政府にそのガッツがあるかどうか、そして国民が石油に依存しない生活様式への転換を推し進めるかどうかだ。 」
http://www.ashisuto.co.jp/corporate/totten/column/1184725_629.html