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「大韓航空機007便の撃墜と乗客のその後」に関してのよくある質問とその回答をまとめたQ&A集
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投稿者 忍 日時 2007 年 10 月 15 日 19:43:34: wSkXaMWcMRZGI
 





「大韓航空機007便の撃墜と乗客のその後」に関してのよくある質問とその回答をまとめたQ&A集

これらの質問はいろいろな議論の中で出てくる論点を詳しく解明していくものです。これらの質問は、007便の救出:KAL007便とその生存者たちの語られなかった物語 の本に出てくる題材と同様に、最新の情報またはこの本に含まれなかった情報を取り扱っているのです。このセクションは、このホームページの生き生きとして発展していくセクションになるように意図されています。もし質問がございましたら、メ−ルでお送りください。また、私たちがそれらの解答をこのセクションに付け加えていきます。

目次
なぜロシア(当時はソビエト連邦)は最初、民間機であるKAL007便を撃墜した事を否定したのですか?なぜロシアは今日に至るまで乗客を拘束し続けているのですか?
この調査を行い、また公表する上でどんな妨害があったのですか?
KAL007便の予定されていた飛行経路からの逸脱については何と言われていますか?
「ブラックボックス」のテープとそのコピー(転写物)は信頼できる物ですか? それらはどのように使われているのですか?それらは「勝手に変えられ た」のですか?
ミサイルが爆発した時、KAL007便はどうなりましたか?「ブラックボックス」のテープで私たちは何を知る事が出来るのですか?
「ブラックボックス」のテープの記録が止まった後のKAL007便の安全飛行可能性と航行可能性については、何と言われていますか?
KAL007便の最後の数分間に関しては、何が明らかになっているのですか? そしてどのようにそれは明らかになったのですか?
「CIA報告」とは何ですか? その情報源はどこからで、その値打ちはどれほどの物ですか?
KAL007便はサハリンに着陸したのですか、それともモネロン島沖の海面に着水したのですか?
生き残った乗客と乗組員は、ソビエト軍に捕えられた後どうなりましたか?
なぜソビエト軍は、KAL007便の乗客と乗組員に関する証拠を全て処分する代わりに彼らを生かしておいたのでしょう?
ソビエト軍によって返還された乗客の所持品はどれも、乗客の救出に関係しているのですか?また乗客の靴についてはどうですか?
乗客の荷物はどうなりましたか?
KAL007便以外の他の飛行機の不時着行動で生き残った人たちの記録はあるのですか?
このホームページがFAQ10で取り組んでいる様に、もし本当にKAL007便で生存した子供達がソビエトの孤児院に送られたのなら、なぜ彼ら(もう成人している)の便りは私たちに届かないのですか? 彼らには本当の両親とそれまで生活してきた事の記憶がないのですか?また、彼らは世の中にこの出来事を知ってもらいたくないのですか?
1. なぜロシア(当時はソビエト連邦)は最初、民間機であるKAL007便を撃墜した事を否定したのですか? なぜロシアは今日に至るまで乗客を拘束し続けているのですか?
これらの質問の答えは、1983年当時の冷戦状況の一般的な分析によって分かるのです。

アメリカのレーガン大統領は既に公然とソビエト連邦の事を「悪の帝国」と酷評していました。

1979年の12月12日、NATO(北大西洋条約機構)事務局長のジョセフ・ルンスは、大陸間弾道ミサイルにおけるソ連の優位に対抗するために、アメリカはパーシング2中距離弾道ミサイルと地上発射巡航ミサイルをヨーロッパに − モスクワからたった6分の距離の所!− 配備すると発表しました。
ユーリー・アンドロポフはNATOのミサイル配置を思い留まらせるため、ソ連は善良な平和愛好国であると見せかけようとしました。

もしソビエト軍が乗客を直ちに解放していたら、彼らの「平和愛好」イメージを壊しかねない過失性を認めなければならなかった事でしょう。実際、真実が暴露された様に、ソビエトの努力は水泡に帰したのです。アメリカは国連で、SU15(ソ連の戦闘機)のパイロットのゲンナジ・オシポビッチが「標的は破壊されました」と言ったテープを公表しました。それでNATOはパーシング2ミサイルを1983年の11月に配備したのです。ゴルバチョフ(ソ連書記長)がワルシャワ条約機構の解体に同意するまで、それらのミサイルはヨーロッパに配備されていました。(1987年12月、レーガンとゴルバチョフは初めての全種類の中距離ミサイルの削減条約にサインしました)
1991年8月のゴルバチョフに対するクーデター失敗で、プーゴ将軍とアフロメイェフ元帥を含む15人の反乱者は自殺したのです。他方、反乱者のバレニコフ元帥とKGB長官のウラジミール・クリュチコフはゴルバチョフにより投獄されましたが、その後すぐに釈放されました。バレニコフは陸軍司令官でした。またクリュチコフはKAL007便撃墜当時のKGB第一総局長でした。この二人はソビエト軍の中でも特に強烈な外国嫌いで、反アメリカ的で核対決志向の性質を象徴するような人たちでした。この二人は、初めからKAL007便を隠蔽する工作を指揮していたという点で同じだったのです。(バレニコフは9月1日にサハリンに、一回目の軍の調査を指揮するため、そしてダメージを抑制するために到着しました。クリュチコフはKGBの高官で、KAL007便が撃墜されたすぐ後にモスクワのルビヤンカ刑務所でアメリカのラリー・マクドナルド議員をじきじきに尋問しました)
彼らが釈放された事は、彼らが依然影響力を維持している事を反映していました。クリュチコフは依然現役で、ロシア大統領のプーチンの個人的な友人で、講演活動をこなしているのです! そしてバレニコフは現在、ロシア国会の退役軍人問題委員会の委員長なのです。今日に至るまで、彼らはKAL007便の隠蔽工作を維持するのに強い影響力を持っているのです。最近の本である、 「戦争の恐怖:ロシアとアメリカの核の瀬戸際外交、ピーター・ビンセント・プライ著、プレーガー出版社、1999年」は、これらの事柄がこの本の中でいかに1993年10月のボリス・エリツィンに対するクーデターの最中に働き、そしていかにそれらが現在も影響力を行使しているのかという事を説明しています。これらの事柄は現在、ロシアの通常戦力が、いかに弱体化していてロシアにはもう核で対抗する解決策しか残っていないと警戒しているので、より危険であると言えるのです。
ロシアは、もしKAL007便の乗客と乗組員を解放したら、アメリカにおいて反ロシア感情が高まり、アメリカがロシアに現在行っている援助が打ち切られるのではないかという事を恐れているかもしれません。
最後に、もしソビエト軍がラリー・マクドナルド議員(何人かが信じている様に)を手に入れるために、KAL007便を撃墜したのなら、またはもしソビエト軍が、彼らが意図せず手に入れた物が貴重すぎて戻せないと知ったのなら、ソビエト軍は乗客の1人でも解放すればソビエト軍が彼(ラリー・マクドナルド)を抑留している事を認めざるを得なくなるので、乗客の誰をも解放しないでしょう。
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2.この調査を行い、公表する上でどのよう な妨害があったのですか?
ソビエト連邦からの移住者で、イスラエルに おいて「ソビエトの強制労働収容所、精神矯正 収容所」レサーチセンターを設立したアブラハ ム・シフリンは、KAL007便撃墜事件の調 査を行っていました。彼は、行った調査結果のパブリック・ディスクロージャー(情報公開)に対しての妨害に出会ったのです。1991年、彼はKAL007便の生存者と彼らが撃墜の後にソビエトによって投獄された事の証拠を提示するために記者会見を開こうとしました。会見が行われる前の日に、レサーチセンター事務所からの者であると言い張る人間が、招待されていた様々なメディアの代表と接触し、「記者会見はキャンセルされました」と言ったのです。その人間と接触した記者は誰も会見に来なかった事に、シフリンも相当驚いたのです。

1990年代の中頃に、私の働きに対しても最も激しい妨害がありました。

韓国のメディアが飛行機で見つかった重要な物を調査したり、公表したりするのを妨げる企ては部分的にまたは完全に成功したのです。シフリンと私を交えた3回のインタビュ−は、イスラエルにおいて韓国メディア − 報道機関、雑誌とテレビのゴールデンタイム − で発表するために行われたのです。 KCIA(韓国中央情報部)はテレビのプログラムが2回放送された後、放映を止めさせ、全ての新聞が飛行機から見つかった物を紹介するのを妨害しました。ですが、KCIAは韓国語の雑誌「Win」の1996年1月号が、私たちが発見した物を公表する事の妨害はできなかったのです。1996年2月号では「CIA報告」の21ページの要約が掲載されました。ですが、その雑誌は、残りの7回のシリ−スを掲載する事を禁止させられました。

出版される少し前、イスラエルの韓国人社会ではKCIAの秘密情報員と見なされている、テルアビブの韓国大使館の代表が私に接触してきたのです。彼は私に面談を申し込み、私はそれに同意しました。私たちは2時間近く話し合い、面談の最初の1時間の間、彼は私のKAL007便の乗客救出の計画を止めさせようとしました。残りの時間、彼は私の韓国メディアとの過去の接触とこれからの接触を嗅ぎ付けようとしました。私は事件から9年後のこの時に韓国政府のKAL007便に抱いていた関心について、私がその当時、調査していたできる限りの範囲で得られたものはどんなものでもその男に明かさない様にしたのです。しばらくしてから最後の韓国メディア − テレビ取材チーム − と私との接触は、テレビ取材チームがソウルからテルアビブへの予定されていた飛行機に乗れなかった事により中止になりました。
他にも、明らかに虚偽のKAL007便に関する手がかりや無言の脅し等のような妨害などの徴候はあったのです。しかしながら、それらは全容を把握し、(または)事実である事を証明するのが困難なので、このセクションで詳細は述べません。

これらの全ての反対に出会って、私の「KAL007便の事件を各国政府は隠蔽したいと願っているのだ」という確信は強まったのです。

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3.KAL007便の予定されていた飛行経路からの逸脱については何と言われていますか?

KAL007便の実際の航跡と予定航跡。情報源は:www.cia.govからのものです
この種のフライトは、多くの航行補助装置 −慣性航法システム(INS)時代の最も重要な物 − を使います。INSは「航路定点」と呼ばれる航行の「目印」を必要とするのです。アンカレッジからソウルまでのKAL007便のフライトにおけるこれらの「目印」の内の最初の2つ(アンカレッジ通過後)は、ケルン山(離着後28分の位置)とベテル(離着後50分の位置)でした。「針路捕促限界」と呼ばれる予定ルートからの許容逸脱範囲はその「目印」を目標としているル−トに沿った物です。フライトがその航行限界の内側にいる限り、自動操縦装置はINSに捕捉制御され、もし飛行機が迷ったら航跡に戻されるのです。
離陸後すぐに、飛行機は自動操縦モードになり、「航法形態」は「磁針向首方向」(真北から1300マイルに位置しているカナダ北東の磁北極によって定められる)にセットされます。KAL007便は、離陸後約10分してから、予定コースからそれ始めました。この事に関しては、ICAO報告は何の原因も述べていません。
なぜINSは自動操縦装置を捉えられなかったかという事に関して、考えられる2つの原因があるのです。

パイロットはINSに自動操縦装置モードを設定しなかった。
パイロットはINSに自動操縦装置モードを設定したが、それは飛行機が7.5海里(NM)航行限界を離れた場所を通過した後での事であった。このINSに自動操縦装置を設定したのは、ケルン山の航路定点を通過した後での事だった。ケルン山において、フライトは既にコースを6.5マイルそれていたが、なお「航跡捕促限界」内にいた。もし航空管制がKAL007便にコースからそれていると警告していたら、パイロットは航法形態を磁針向首方向からINSに切り替え、位置を何事もなく、修正したでしょう。その日の全てのフライトの中で、アンカレッジ航空管制はKAL007便とKAL15便の位置だけをはじき出せなかったのです。マクドナルド下院議員はKAL007便に搭乗していて、ヘルムズ、シムズ上院議員とハバード下院議員はKAL15便に搭乗していました。この航空管制のKAL007便とKAL15便の位置(そしてそれらの2つのフライト)を突き止められなかった事は、不幸であり、また興味を引き起こすものと言えます。
注意:パイロットは表示灯により、INSの自動操縦装置を選択した事を確信し、しかし既にKAL007便が7.5マイル航行限界を離れた場所にいたので、自動操縦装置が実際、INSの制御下になかった事を知るよしはなかった事をもパイロットは知っていたでしょう。「フライト・ディレクター・モードでの無指示によって、乗組員は、自動操縦装置はINSによって制御されていないという事実に気付かせられるという事態になったでしょう。」(ICAO 1993年、43ページ)

パイロットはINSを使わないで、通報ポイントのコース(12.6海里)からあまりに飛行機から遠く離れているベテルのVORTAC(超短波全方向式レンジ航空ナビゲ−ションシステム)“結局機能しなかったが”を「通報ステ−ション」としてではなく、「飛行コース送信機」として使い「実際の航跡」を「針路」に修正できたでしょう。

アンカレッジの超短波全方向式レンジ(VOR)は8月23日の午後10時17分から、9月2日の午前12時39分まで故障していました。(フライトの乗組員は、この事実を航空情報経由で知らされていました)もしそれが故障していなく、そしてもしKAL007便が正しい指示を与えられていたのなら、KAL007便はアンカレッジの「光線」を、コースを修正するのに使えたでしょう。− 飛行機のVOR画面は情報を「ただ読み込む」のではなく、情報を「統合」していたでしょう。
KAL007便が航路定点のベテルに到達した時、12.6海里もコースからはずれていました。慣性航法システム(INS)によってセットされた針路に進のではなく、磁針北方向に飛行し続け、KAL007便はコースから逸脱し続けていました − ネイビ−航路定点で60海里もコースからそれ、ヌックス航路定点で100海里もコースからそれ、ニ−バ航路定点で160海里もコースからそれていたのです。それからKAL007便はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクのちょうど北のソ連領内に入り、サハリン上空での悲劇に遭遇したのです。

通常、アンカレッジを飛び立って極東に向かう飛行機は、光線を「探知」するものなのです − つまり、針路に沿った航法のために、アンカレッジのVORの光線を使うのです。パイロットはアンカレッジのVORが故障した事を知って、次の(最後の)北米大陸航行局 − アラスカの小さな漁村のベテルの「玄関口」局 − のVOR(TAC)からの光線を使って、KAL007便の位置を確認するという重要性にもっと気付くべきだったのです。

離陸後49分の時点で、パイロットは、コース内にいて、ベテルの上空にいる事を報告していました。「こちら007、離陸後49分経って、ベテルの上空です」しかし実際、彼らはコースを大きくそれていました。というのは離陸後50分の時点で、アメリカ空軍のキングサーモンのレーダーが、KAL007便がいるべきだった場所(ベテル)の12.6海里北一杯の所でKAL007便を追跡していたのです。それはINSによってセットされたコースからの許容「風圧」漂流範囲の6倍をも超えてそれていたのです。

INS(真北に進むよう測定された)が自動操縦装置を捕捉し、針路に固定するために、自動操縦装置は「INS」に設定されなければならなかったのです。デデータル飛行記録装置(DFDR)は、INSは全然自動操縦装置を捕捉しなかったという事を記録しています。KAL007便は全飛行において、245または246度の「一定の磁針向首方向」で飛行していました。もしINSが自動操縦装置を捕捉していたら、磁針向首方向は一定ではなかったが、航路定点が直線上になかったので磁針向首方向は、ずれてしまった区間を針路の区間ごとに正しく変更していたでしょう。

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4.「ブラックボックス」のテープとそのコピー(転写物)は信頼できる物ですか? それらはどのように使われているのですか? それらは「勝手に変えられた」のですか?
ICAOはフランスのBEA(飛行機事故調査と安全飛行勧告の部門)に操縦室のボイスレコーダー(CVR)、デデータル飛行記録装置とそれらのテープを調査するよう、下請けさせました。

ソビエトはこれらのテープを9年間、保持していて、この期間、持っている事を否定していました。ソビエトがテープを持っているという強力な証拠が明るみに出て、ロシア共和国のボリス・エリツィン大統領はテープを持っている事を認め、それを国連に引き渡しました。ソビエトがテープを不正に書き換えたという可能性に関して、「インサイト・マガジン」のティモシー・マイアーはこう言っています。

そのテープの一部は判読不可能であったけれども、テープが1993年にICAOに引き渡された時点で、テープに何らかの細工が施されているかどうか判読する技術がなかったので、テープに抹消の割れ目があるかどうかと、技術的に解析された事は一度もなかったのです。専門家はインサイト・マガジンに、高知能な装置、現在ニクソンのテープの(ウォーター・ゲ−ト事件に関しての)18分30秒の割れ目を再調査しようとしているワシントーンの音声抽出会社なら、もし議会がそれを要求するならKAL007便のテープから音声を抽出できるだろうと言っています。(インサイト・マガジン、2001年4月)

考えられるごまかしの証拠があります。−さらに調査される必要がある証拠です(BEAは今なお、もとのテープまたはそれの複製を保持しているかもしれません)

ボーイング社の広報担当官のゲイリー・レッサ−が「1つしかエンジンが作動していない限りにおいて、両方の記録装置は、飛行機が海面に衝突するまで作動するのです」と説明しています。転写されて、公開されたCVRテープの一部分に載っていたのですが、副操縦士が2回報告した通り、エンジンは異常なく作動していました。ミサイル爆発の後、104秒間もKAL007便が飛行していた間、記録装置が「止まっていたので」、テープに消去、削除、接合または付けたしの証拠があるかどうかという疑問が残ります。
サンドストランド社のDFDR(デデータル飛行記録装置)の800の周波数および時間部会テープは、ソウルからアンカレッジ、アンカレッジからニューヨークのJFK空港、そしてJFK空港からアンカレッジまでのKAL007便の27時間の飛行と、アンカレッジからソウルへ向かったKAL007便の飛行経過を記録しました。KAL007便が猛スピードで海面に衝突したために生データテープの割れ目を根拠にして、ICAOはテープに接合部分があった事を説明しました。「テープの最初から、おおよそ108、440、442と463の周波数および時間部会において、接合部分がありました。真ん中の2つは、2つのリール間のテープの長さに相当する間隔をあけられていました。そして最後のデータはこれらの2つの接合部分の間で、記録されていました。飛行機が猛スピードで衝突した結果、テープが記録を中断したのは別におかしな事ではありませんでした。その場所でテープがリールだけを残したのですが。」(ICAO報告、1993年、30ページ、1、14、3、5、3段落)しかしながら、私たちが議論している様に、もし記録装置が猛スピードの衝突で壊れなかったのなら、これらの2つの接合部分には他の説明がなくてはなりません。付け加えて私たちは以下の事を指摘しておく必要があります。1993年のICAO報告に付け加えられたロシア軍の転写物は今日、私たちに、KAL007便は少なくとも1835GMT(グリニッジ標準時)まで、ミサイル爆発の後、飛行を続けた事と、ロシアのレーダーが少なくとも1838GMTまでモネロン島上空でKAL007便が広範囲ならせん降下をしているのを追跡していた事を教えてくれています。それにも関わらず、ミサイル爆発(18時26分02秒)後のテープの中断時間が104秒であるので、「猛スピードでの衝突」故に、ブラックボックスが同時に止まったというのはもはや信頼できるものではありません。
コリンズ社の操縦席ボイスレコーダーループテープには、さらに今日の最先端の調査が行われる必要があります。そのル−プには30分一杯の記録が入っています。もしソビエト軍がテープの最後から、ミサイル爆発後の飛行のほとんどを削除したのなら、彼らはループの「始め」に、削除された総量を付け加えたに違いありません。− 衝突に先立つその部分に − ICAOは、チュン機長と副操縦士との間で交わされた最初の9分の日常会話で、異常な暗騒音も記録されていたと結論づけています。「断続的に、最初の7分45秒の記録の中で、調子を合わした持続的な波動半自動式モ−ルス信号のトーンと認識されるいくつかの異常な音がありました。
粗悪な記録された信号と限られたパイロットの行動故に、読み出し鑑定または誰に信号を送ったのかという証明は不可能でした。」ICAO報告、1993年、25ページ、1.14.2.4.3段落) 明らかにモ−ルス信号ではあるけれども、そのような重大な連接における、異常であって識別不能な物は、さらに解明のために調査されるべきなのです。ソビエトはラジオの雑音を装うために、背景で電気かみそりを使って、撃墜の間の迎撃機のパイロットと地上管制官の通信の音声テープに不正に手を加え、再録音したのです!(この情報の出所は、共和党局員論文/「CIA報告」の69ページで報告された様に、19991年のイズベスチヤのKAL007便を取り扱った一連のシリーズから来ているのです)
要約すれば、次にあげる理由からソビエトによるテープの改ざんは大いにあり得るのです。

ブラックボックスの両方の構成物(CVR:操縦室のボイスレコーダーとDFDR:デデータル飛行記録装置)はミサイル爆発後も動作していた。
電気系統が損傷していたという証拠は何もありません。(KAL007便から日本の地上管制官へのミサイル爆発「後」の高周波通信と、4つの全てのエンジンは通常に機能していたと報告されています。)
両方の記録装置は、いかなる推測され得る飛行機事故に先立って、何分か「止まっていた。」(レーダー追跡と軍の瞬時通信によって実証されています)
両方の記録装置は、飛行機の胴体の反対の部分の電線路と、記録装置のめいめいの計器に取り付けられた個々の先端部が原因で、正確に同じ秒で「機能が止まった。」
現代の技術が1993年の技術でできなかった事を解明できて、ICAOの最終報告が、政治化され、最低限度であるので、(技術委員会の報告における非政治的な文言とは対照的に、最終報告の文言は、ICAOへの様々な国(ロシア、米国、etc)の代表による投票の産物なのです)私たちはこれらのテープに関して他の調査をしてもらうべきなのです。テープが入った記録装置が、テープが止まった時間(ミサイル爆発後1分44秒)に、猛スピードの海面衝突に巻き込まれていない事は、ソビエトの地上間通信とKAL007便の飛行を捉えたレーダー追跡が、両方とも、この時間(または違う時間に)における猛スピード海面衝突によって飛行が中断された訳ではなく、KAL007便は少なくとも他に10分以上(1838GMT)飛行していたと情報を提供しているので、十分立証されるのです。この事は、スピードが減速した時の事なのです。

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5.ミサイルが爆発した時、KAL007便はどうなりましたか?「ブラックボックス」のテープで、私たちは何を知る事ができるのですか?
シンフォニ−(交響楽団)において、それぞれの楽器は自分の「流れ」をもっています。ですが、そこには全てを包括する1つの決定的な主旋律があるのです。ですからデデータル飛行記録装置のシンフォニーにもそれがあります。デデータル飛行記録装置のグラフの1つ1つの線は、筋の通った物語と、全てを統合してテーマが「破壊からの脱出」であるという長編冒険談を物語っているのです!

それぞれの流れを奏でている楽器は、私たちをKAL007便がどのようにやっと破壊を逃れたかという事の理解に深く導きます。その楽器とは、

機長のチュン・ビュン・イン、副操縦士で一等航空士のソン・ドン・フイと航空機関士のキム・ユイ・ドンが話した操縦室のボイスレコーダーによって録音された言葉1つ1つ。
デデータル飛行記録装置によって記録された航空機の様々な機能を報告するセンサ−によって拾われた16のパラメーターの状況。16のパラメーター: 加速(横方向、縦と垂直方向)、高度(不正確でもあり、きめ細かくもある)、正確に測定された対気速度、飛行機のピッチにおける操縦ハンドル位置、横揺れに置ける操縦輪位置、第2、第3エンジンのエンジン圧力比、フラップ形状、超高周波(3)と高周波(2)無線通信要点、磁針向首方向、飛行機のピッチと横揺れの姿勢、方向舵ペダル位置、それのエンジンに関する逆推力装置の状態、電波高度計、自動操縦(マニュアル制御になっている状態となっていない状態)、自動操縦(管轄地域の支配を受けている状態と受けていない状態)と航路標識
この考察をもっと知るには、2つのグラフ、図表1 と図表2 [BEA(飛行機事故調査と安全飛行勧告の部門)の研究所によって作成されました]を参照してください。時間はそれぞれの表の下に、4秒間隔で表示されています。18時26分02秒(サハリン時間では06時26分02秒)の時点で、オシポビッチ少佐のアナブレーダー誘導空対空ミサイルは、KAL007便の後方50メートル、KAL007便の右の尾翼をわずかにそれて爆発しました。

機首はすぐに縦に揺れ始め(図表1の線2参照)、さらに緩やかに高度は上昇していきます(図表1の線1参照)。乗組員の計器には、これらの変化が表示されます。彼らはそれらに気付いたでしょう。ミサイル爆発すぐに、デュアルチャンネル・ヨー・ダンパー(二重チャンネル機種揺れ抑制機器)が損傷を受けたので(図表2の線6参照)、ジャンボ・ジェット機はバフェッティング(ヨーイング[機首揺れ])を起こし始めます。もし第1、第2油圧装置が十分機能していたら、ヨーイングは起こらなかったでしょう。起こるべきだったが起こらなかった事は、ミサイル爆発の衝撃後に、操縦ハンドル(図表1の線3参照)が前に押し出されなかった事です[飛行機が、以前の35000フィートに高度を下げるために、自動操縦(図表2の線8参照)であったので、操縦ハンドルは前に押し出されるべきだったのです]。自動操縦が高度での位置調整を仕損なったのは、自動操縦作動装置を作動させ、飛行機の昇降舵を制御しているシステムである第3油圧装置が損傷を受けたか、故障していたためでしょう。KAL007便の対気速度(図表1の線4参照)と加速比率(図表1の線5)は、KAL007便が上昇し始めるので、両方とも減少し始めます。

18時26分06秒に、機長のチュンは大声で言います。「何が起こったのだ?」副操縦士のソンが「何ですか?」と答えます。2秒後、チュンが叫びます。「スロットルを引け」ソンは「エンジンは異常ありません」と答えます。(この事は、オシポビッチ少佐の熱線追尾式ミサイルが標的を外した事を表しています。)KAL007便は上昇を続けていて、その時に、ミサイル爆発から20秒後に機室でカチッという音−「自動操縦接続解除警告」の音として認識されている音−が聞こえます。機長または副機長は自動操縦を解除していて、現在、飛行機を下降させるために、手動で操縦ハンドルを前に(図表1の線3参照)押し出しています。しかし、自動操縦のスイッチが「オフ」になっていても(図表2の線8参照)、手動モードは20秒間、作動しないでしょう(図表2の線9参照)。この手動モードが指示された事をなさなかった事は、第1、第2油圧装置の故障を意味しています。ですが、事態にちょっとした進展がありました!操縦ハンドルを前に押し出し、高度を上げていきましたが、KAL007便の機首は下げ始まっています。つまり、縦揺れはなくなってきているという事です(図表1の線2参照)。それにも関わらず、高度上昇の危険性に取り憑かれたチュン機長は叫びます「高度が上昇している!…高度が上昇している!」。(18時26分22秒と18時26分24秒)しかし、すぐに他の問題が現れるのです。

チュン(18時26分25秒):スピードブレーキが出てきた!

ソン(18時26分26秒):え、何ですか?

チュン(18時26分29秒):それをチェックしてくれ!

しかし、デデータル飛行記録装置によればスピードブレーキは出てきていなかったのです。2人のパイロットはすぐにメインの問題に戻ります。

ソン(18時26分33秒):高度を下げる事ができません。現在不可能です。

チュン(18時26分38秒):高度が上がっているぞ。

チュン(18時26分40秒):こいつは動かないぞ。だめだ。
そしてここで、変化が起こります。


もし私たちが、テープが明らかにしない事を感知できるなら、全くの絶望から歓喜へと変わる変遷を、静かな確信と決論に至るまで− その事を持って− 
理解できるでしょう。

18時26分41秒の時点で、チュン機長は副操縦士のソンに再び自動操縦装置を「手動に」するように指示したでしょう。ソンはその指示をしたように思われますが、同時に「手動にできません」(18時26分42秒)と絶望して言うのです。そして1秒後、「手動モードで動きません」と反復します。しかし、その瞬間2つの事が起こるのです。自動操縦接続解除警告の音がもう一回聞こえ、自動操縦装置は目的の手動モードに変わります(図表2の線9)。チュン機長は再び飛行機をコントロールできるようになりました。

18時26分45秒の時点で、副操縦士のソンは再び報告します。「エンジンは異常ありません」この事から、熱線追尾式ミサイルは標的を外した事がわかります。

チュン機長が現在の状態よりさらに操縦ハンドルを前に押し倒していないのに(図表1の線3)、高度(図表1の線1)は下降し始め、現在縦揺れに一致して高度は変化しています(図表1の線2)。対気速度(図表1の線4参照)と加速(図表1の線5)は、KAL007便が急に降下し始めたので、急激に増加していきます。

なおも降下している中、チュン機長と航空機関士のキム・ユイ・ドンはうっかりしゃべってしまうのです。(1秒後)

キム(18時36分50秒):高度が下がっているのは、パワ−圧縮のためで
しょうか?

チュン(18時36分51秒):そうなのか?

キム(18時36分52秒):それが原因の全部かもしれませんし、一部かも
しれません。

チュン(18時36分53秒):そうなのか?

次の9秒間、沈黙がありましたが、チュン機長は操縦のまっただ中にいたのでしょう。KAL007便が最大限の加速をして、わずかにミサイルの上の高度に下降したので、チュン機長は約8秒間、機首を上げて(図表1の線2)、加速は著しく低下し、そしてミサイルの上の高度で水平になりました。

8秒間の機種の上昇に先立って、副操縦士のソンは高周波無線1番を使って、東京の航空交通管制部を呼び出していました(図表2の線7参照):

ソン(18時26分57秒):東京管制部、こちら大韓航空機007便。

東京(18時27分02秒):大韓航空機007便、こちら東京。

ソン(18時27分04秒):了解、こちら大韓航空機007便…(解読不能な箇所)え−と、私たちは(…の事に遭遇しています)…

チュン、口をはさんで(18時27分09秒):全圧縮せよ。

ソン(18時27分10秒):急速圧縮します。1万フィートに降下します。

副操縦士のソンの東京への通信が示すように、チュン機長はだんだんと降下していきますが、結局その事によってKAL007便はモネロン島の海岸沖に不時着水することになるのです。

横揺れはテープの最後まで、そしてたぶんフライトの最後まで続いたのですが、全ての他のメインパラメーターは、KAL007便の耐空性と制御機能は問題がなかった事を示しています。急降下は中止され、ジャンボ・ジェット機はわずかに降下し続けていました。縦揺れは降下角度に沿って起こっていました。「指示対気速度」(IAS、図表1の線4参照)はミサイル爆発に先立っていた速度(310ノット)にほとんど正確に戻っていました。急降下での急加速と8秒間の機首上昇の最後での急減速の後、ミサイル爆発に先立っていた時の様に、KAL007便は現在、一定の法線加速度で飛行しています。そして自動操縦は、その時指示モードから解除され、チュン機長によって手動で操作されるべきであったので、手動モードで機能しています。ですが、目前の作業があったのです。操縦室(テープの転写物は声が誰かという事を特定していません)から:

18時27分20秒:現在…これを設定しなければ。

18時27分23秒:加速しろ。

18時27分26秒:スタンバイしろ、スタンバイだ。設定せよ!

3人の操縦士と、22人の子供、20人の客室乗務員と6人の「待機要員」(再配置フライト職員)を含んだ240人の乗客を乗せていたKAL007便は、悲劇から脱出しようとしていました!

注意:4つの油圧装置の内、3つが爆発でダメージを受けたか、又は故障して飛行していたKAL007便のコントロール制御は難しい事ではあったのですが、決して飛行不可能ではなかったのです。付録E(「007便の救出」の中の)には、全油圧装置が故障して18マイル飛行していたKAL007便に関しての転写物が載っています。

「ボーイング」(MBT出版社、オセオロ、ウィスコンシン 1998年)の中でG.ノリスとM.ワーグナーは、747の多重重複油圧装置の安全性に関する利益を説明していて(128ページ)、一例を示しています。

説明 −−「油圧が、全最重要操縦装置、全重要操縦装置(先端のフラップを除く)と降着装置格納、翼の伸縮、ギア操舵そして車輪ブレーキの作動を行っていました。油圧装置1と4は上記の目的のために使われていたでしょう(KAL007便の油圧装置4はダメージを受けていませんでした)。一方、油圧装置2と3は、操縦装置のためだけに使われていました。油圧装置4は電源の3分の1を作っていたのです。めいめいの重要操縦装置軸は全ての4つの油圧装置によって動かされていました。

一例を挙げますと − 1971年の7月、パンアメリカン航空の目玉の航空機である、N747PAとして登録されたボーイング747は、サンフランシスコ国際空港を離陸後、軽重量の移動起重機に当たってしまったのです。乗組員は航空機のスピードと滑走路の距離を見誤ってしまったのです。飛行機がそれを飛び越えようとして急に上昇しようとした時、胴体の最後方の部分が移動起重機に衝突してしまいました。航空機は離陸を続けたのですが、移動起重機は貨物区分に突き刺さり、油圧装置の3つは破壊されてしまったのです。ジャンボ・ジェット機は空港の真上を一周し、無事着陸できました− ですが移動起重機はなおも貨物区分に突き刺さり、油圧装置はたった1つだけしか動いていませんでした。

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6. 「ブラックボックス」のテープの記録が止まった後のKAL007便の安全飛行可能性と航行可能性については、何と言われていますか?
ロシアによって国連に引き渡されたブラックボックスは、ミサイル爆発後の状況を1分44秒記録しているのです。飛行機が破壊から脱出して、そして操縦コントロール力も回復する事ができた事は、その入手可能なテープを聞いた限り明白と言えます。ソビエトと日本のレーダー追跡から、KAL007便がミサイル爆発後、10分かそれぐらいの時間飛行していた事は確かです。この時点に関しては、ソビエトの地上間通信もKAL007便を捉えていました。これらの情報源から、KAL007便は操縦士によって航行可能であって正確に航行できた事がわかります。

ミサイル爆発後、KAL007便は北に向きを変えました。ジャンボ・ジェット機が攻撃を回避できただけではなく、飛行可能であった事に、一見、外見上ではコルヌコフ将軍は驚いたのです。ですが、KAL007便が西に向かって公海水域に逃げるのではなく、北に向かいソビエト領内に深く入っていった事にも彼は驚きました。

ゲラシメンコ中佐(6時:28分):標的は北に向きを変えました。

コルヌコフ将軍:標的は北に向かったのだな?

ゲラシメンコ:はい。

コルヌコフ:ミグ23でそいつを撃破しろ!
KAL007便は乗組員と乗客が補助器具を使わずに呼吸できる高度の5000メートル(16,400フィート)に降下して、スピードを減速し、4分間水平飛行していました。(007便の救出、54ページ)
KAL007便が5000メートルでの4分間の水平飛行を終えて、モネロン島の上空で正確にらせん降下し始めたのは明らかです。(ソビエトは何とかしてKAL007便のらせん降下を、それがソビエト領海の北11マイルの所、または公海水域の北22マイルの所で海面に衝突した様に見せかけるという企みをやった事でしょう。)(007便の救出、付録B131ページ以下を見てください)これらのポイントを概観してみましょう:
らせん降下が始まった時間の正確な時点は、仰天させるものです。それは、飛行機は操縦不能で、言うまでもなく車軸は抑えきれないほど回転し、消滅してしまったという推論を打ち砕いてしまいます。
タタール海峡は北と西をソビエト本土によって境界されている水域で、東は590マイル行くとサハリンに出会います。タタール海峡の南は日本海に面しています。この全水域の中に、小さな島モネロンがあるのです。この島はサハリンの約25マイル西、ソビエト本土から125マイルあたりかそれぐらいの場所に位置しています。これらの島(モネロン、サハリン)に一番近い陸地は、それらから南に約53マイルの所の小さい日本の島の礼文島です。
1983年9月1日、18時36分GMTの時点で、ICAO報告書に記載されている通り、雲量は2000メートルの高度を覆う程の物でした。ソビエトの戦闘機はその雲の中に入ると、その雲のせいでジャンボ・ジェット機を見つける事は出来なかったのです。その時は夜で、ぴったりではありませんが日の出までには2時間ありました。

KAL007便が4分間の水平飛行の後、5000メートルの高度から、安全を期し、雲を突き抜け、夜、不時着水が十分陸地に近い所に為されるような高度と場所に降下するためにはこの地域の詳しい知識と同様に、ハイレベルの安全航行性と航行可能性が求められるのです。
そういう訳で、KAL007便は、ミサイルとの衝突の時にまたはタタール海峡の水面への12分間の降下における間に破壊されたという考えは、弁明できない物ですし、全ての証拠に矛盾する物です。

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7. KAL007便の最後の数分間に関しては、何が明らかになっているのですか?そしてどのようにそれは明らかになったのですか?
KAL007便が攻撃された後の合計12分の飛行を収録した記録は存在しているのです。攻撃を受けた時点で、飛行機は35、000フィートの高度で巡航していました。ミサイル衝突の後すぐに、KAL007便の機首は縦に揺れ、飛行機は38,250フィートの高度まで上昇しました。チュン機長は自動操縦装置を切る事が出来、飛行機を約35、000フィートの巡航高度まで降下させながらコントロールを取り戻していきました。この事をするのに、1分13秒かかりました(このFAQの質問5を見てください)。攻撃を受けた後の3分間、飛行機は30,000フィートにいました。(共和党局員論文/「CIA報告」の45ページ、このデータは日本の北海道の稚内の自衛隊基地のレーダー記録が基になっています)チュン機長はその後、乗客と乗組員が補助装置なしに呼吸が出来る16,400フィート(ICAOの1993年報告では5000メートルと報告されています)に緊急急降下しました。この降下は2分間続いたのです。

次の4分間のKAL007便の降下経緯についてはいくつかの不確かな事が見受けられます。1つの情報源は、飛行機は5000フィートの高度にゆっくり降下して、それから旋回し、消息不明になるまでの最後の3分間に渡って、1000フィートの高度にもっとゆっくり降下していったと示しています。他の情報源では、チュン機長は飛行機を16,400フィートの高度で水平にさせ、ソビエトのレーダースクリ−ンから消えるまで続いたらせん降下の前に、少なくとも4分間水平飛行していたと示しています。4分間の間に、飛行機はサハリンからモネロン島に向かっていました。

全ての情報源が12分間全てを網羅している訳ではありませんが、KAL007便は攻撃を受けた時からレーダースクリ−ンから消えるまで12分間飛行していた事と、飛行パタ−ンに従って飛行機は12分間全てにおいて制御下にあった事を示す降下スピードは低下していた事(増大するのではなく)を証明する事においては一致していたのです。飛行機は最後に、全タタール海峡の中にある小さな島であって、唯一の陸地であるモネロン島 − サハリンを後にした後、助かる可能性の不時着水が行える唯一の場所 − の上を旋回したのです。

KAL007便は本当に5000メートルの高度(16,400フィート)でレベルオフ(機体を上昇または下降させた後水平にする動作)をなし、KAL007便は、モネロン島に到達するまで、水平飛行をなし続けたのです。そしてそこで広範囲ならせん降下をやったのです。

様々なKAL007便の最後に関する情報源は以下の通りです(時間は全てグリニッジ平均時です。ミサイル爆発は18時26分02秒に起こりました):

「この5分間の急スピードのらせん降下の後、なおKAL007便は一般的状況下における標準的空域調整に一致していたけれど、モネロン島とサハリンの間のソビエト領域に存在する場所へ向かう間、少なくとももう約7分間、飛行し続ける事ができたのです。そういう訳で、KAL007便は攻撃を受けた後、少なくとも合計12分間飛行していたのです。加えて、9分間飛行した後のKAL007便の高度は、約5000フィートでした。

「アメリカの国連大使、チャールズ・ライクンスタインが1983年9月1日の国連安全保障理事会でなした声明で公に報告されている通り、元のアメリカの特殊諜報活動による生データは『18:30分(4分後)の時点で、大韓航空機は5000メートルの高度であったとレーダーに捉えられて報告されていました。

「加えて、9月1日、ジョージ・シュルツ国務長官はこうも詳しく述べています『18時26分に、ソビエトのパイロットは、ミサイルを射ち、標的は破壊されたと報告している。18時30分(またはそれから4分後)に大韓航空機はレーダーによって5000メートル(16,400フィート)にいたと報告されている。18時38分(攻撃を受けてから12分後)に大韓航空機はレーダースクリ−ンから消えたのだ』

共和党局員論文/「CIA報告」の43ページ(各段落に分類されたコメントと、重要な事に関する下線引きを含み、正確に引用されています)(注意:18:30分という発言は、後で18時31分に修正されました)
KAL007便の、5000メートルでの水平飛行能力と4分から5分の水平飛行を持続させる能力に関して、1993年のICAO報告資料No.1の134−135ページに含まれている転写物から以下を引用しています。

コルヌコフ将軍(18:32):ミグ23に伝えろ…アフターバーナーせよ。ミサイルを発射し、標的を撃墜せよ。そうして基地に帰ってこい。

ゲラシメンコ中佐(41戦闘機連隊の司令官代理、レーダーを見ながら):了解

コルヌコフ:高度は…我々の戦闘機と標的の高度はいくつだ?

急いで、標的と戦闘機の高度を教えろ!

      …

何か言ってくれ。ゲラシメンコ!
      …

ゲラシメンコ(18:33):ゲラシメンコです。
標的の高度は5000メートルです。

コルヌコフ:もう5000か?

ゲラシメンコ(18:34):そうです。左旋回、右旋回し、それは降下しているのです。
「最後の標的のプロットレーダー位置は、18時35分で高度5000メートルでした。」(ICAO 1993年、53ページ2、15、8段落)
モネロン島真上でのKAL007便の降下位置に関して、1993年のICAO報告に含まれている転写物から以下を抜粋します。

コルヌコフ将軍(18:36):お前は標的がどこにいるのか、そいつの位置範囲を知っているな。そいつはモネロン島上空だ…
(ICAO、1993年、資料No.1の136ページ)

ノボセレツキー中佐(スミリク空軍基地司令官)(18:39):それでお前の任務だ。そいつは今、我々の国境を侵したと言っているがどうだ?

チト−ブニン飛行発着係:はい、そいつはもちろん、我々の領域を越えて、モネロン島付近にいます。

ノボセレツキー中佐:それを捕獲せよ!やれ!ミグ23をそっちに向かわせろ。
(ICAO、1993年、資料No.1の90ページ)

ストロゴフ将軍(18:55):モネロン島付近には我々に何の船があるのだ?もし民間の船なら、それをすぐにそこに向かわせるのだ。
(ICAO、1993年、資料No.1の96ページ)
「KAL007便がどこで攻撃されて、それからどこに行ったのか、そしてどこでソビエトのレーダーから消えたのかという事を示す地理座標は、かなりの精度を持って特殊諜報活動によって明らかになっています。そしてこれらの座標はアメリカの情報図に指し示されています。例えば攻撃を受けて9分経った時、そして高度5000フィートにおいて、KAL007便の最後の航跡位置はおおよそ、4617N−14115Eの座標でした。特殊諜報活動は、ソビエトのレーダー追跡は、KAL007便が北から接近し南に向かい、サハリンからモネロン島に向かった事を指し示し、不時着水または海面衝突場所は確実にソビエトの領海内、1991年6月のNSA(米国国家安全保障局)の再分析によれば、モネロン島の北2.6キロメートルの場所であったと指し示している事を明らかにしています。」[この位置によれば、最後の3分間はモネロン島上空を旋回する事に費やされていたのでしょう。] 共和党局員論文/「CIA報告」の46−47ページ(注意:NSAの「特殊諜報活動」は電子盗聴を参考にしています)
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8.「CIA報告」とは何ですか? その情報源はどこからで、その値打ちはどれほどのものですか?
「CIA報告」とは、1991年の6月に、ジェシ−・ヘルムズ上院議員の要求で上院外交委員会の共和党局員によって作られたと思われる研究論文です。それは、中央情報局(CIA)と国家安全保障局(NSA)を含んだ、様々な情報源から構成されている物です。それはCIAに引き渡され、それから韓国国会の野党の党首、ソン・セ・イルにその内容が漏らされたと思われています。彼は、KAL007便に搭乗していた方たちの運命に関してさらなる調査がされるべきだと要求していた立法議会で、それを公表しました。次の事は、この文書とこれが含んでいる情報についての詳細な議論です。

歴史

アブラハム・シフリンはソビエト連邦からの移住者であり、ソ連で多数の人と接触してソビエトの強制労働収容所の調査をしている研究者です。彼はまたKAL007便に搭乗していたラリー・マクドナルド下院議員の個人的な友人でもあり、シフリンはアメリカの上院と下院委員会で数多くの、ソ連強制労働収容所についての証言をしたのです。

1990年6月、ソ連においての情報源を通して、シフリンは、KAL007便のフライトは乗客全員の死によって終わらなかった事、乗客と荷物はKGBによって捕えられた事、そして飛行機のブラックボックスは引き揚げられた事の証拠をつかみ始めたのです。そしてそれらの事全部をソビエト当局は最初に、そしてその後も強烈に否定していました。

シフリンはさらに情報を収集し始めた時、上院外交委員会の少数有力メンバーであるジェシ−・ヘルムズ上院議員と接触したのです。彼は上院議員に、飛行機が着陸して、乗客が連れ去られたのを見た目撃者がいた事とブラックボックスが回収されていた事を知らせました。ヘルムズは聞くや否や、彼のスタッフにその事を調査する様に指示したのです。これらの最初の議論の間にこの事に関する発言が漏れ、ソビエトに知られてしまったとシフリンは思いました。ソビエトの新聞、イズベスチヤはすぐに独自の調査を開始しました。1990年の12月の初め、イズベスチヤは「KAL007便の謎」と題した一連の記事を連載し、それは翌年のかなり長い期間まで続きました。

1991年の1月、ヘルムズはスタッフの一員であるデイビッド・サリバンをシフリンと会うために、そしてシフリンが見せようとしていた物を見るためにエルサレムに送りました。5月に、サリバンは外交委員会の少数局員長であるジェ−ムズ・P・リュシェ博士とビクタ−・フェデイを連れて帰ってきました。2001年4月16日の「インサイト・マガジン」に載っていた記事でティモシ−・マイア−が言う所によれば、フェデイ(またはフェディアイ)はシニア軍事情報アナリストだったのです。シフリンは3人に彼のKAL007便に関するメモと情報を手渡しました。1991年の6月、3人が帰ってきた次の月に、ヘルムズ上院議員はその証拠を研究する様にという指示と報告書を作成すようにという指示を出したとマイア−は述べています。サリバンはシフリンに彼のデータはCIAに引き渡されたと言ったのです。

CIAとNSAからの情報を利用できるヘルムズのスタッフは、シフリンのデータやイズベスチヤの一連のシリ−スの初期の記事、CIAと「特殊諜報活動」からの情報、NSAの電子盗聴をもとに報告書を作成しました。CIAはシフリンのデータの中からいくつかの情報を補強する事ができ、以前は明るみ出ていなかった情報を付け加えました。マイア−によれば、FBIは後にビクタ−・フェデイがその報告書の作成者だと断定しました。この作成者との個人的なやりとりを通して、マイア−はかなり多くの共同作成者もいた事がわかったと述べています。先の、シフリンを訪れた3人全てがこの報告書作成に関わっていたのは間違いないだろうと思われます。フェデイは1992年に死去し、他の残りの人はその報告書の記録に関しては何も語ろうとしません。

シフリンから受け取った情報と論文で提示されたものを基にして、ヘルムズ上院議員は1991年12月10日、ロシア大統領ボリス・エリツィンにKAL007便に関する具体的な情報を求める書簡を送りました。(詳細は次から語られます)この事を書いた2、3週間以内に、ヘルムズがこの事柄を中止し、その事の調査がとどめられるという事態が起こりました。リュシェは解雇され、バド・ナンス海軍大将は少数局員長に降格させられました。保守派としてとても活発に行動していて、インサイト・マガジンの編集主任であったリュシェは、誰ともこのトピックまたはヘルムズのスタッフとしての彼の働きに関しては論じようとしないのです。1992年2月11日、ナンスはシフリンに手紙を書き、彼のデータはCIAに渡され、それは機密扱いになっていると伝えました。彼はまたヘルムズがエリツィンに送った手紙のコピーも同封しました。

シフリンからの他のデータに沿ったその報告書はCIAで保管され、決して公表されなかったようです。ある時期に、見知らぬ人が韓国国会の野党党首のソン・セ・イルに、その報告書の「体裁が整えられた」(以下をご覧ください)コピーを渡しました。ソンは国会の会期中にその報告書を劇的に公表し、それはKAL007便が安全にモネロン島沖の海面に着水し、全ての搭乗員は捕えられ、まだ生存している事を説明しているKAL007便に関するCIAの極秘報告書なのだと説明したのです。これは1992年の10月26日に起こり、当時、世界の報道関係者に一大センセ−ションを引き起こしました。

マイア−はインサイト・マガジンの記事の中でこう提示しています。「その報告書はCIAに引き渡され、(ナンス海軍大将が報告した通り、CIAに引き渡されたデータにたぶん含まれていたのでしょう)そしてその報告書が全く用いられていないことに不満を持っていた誰かによってソンにその事が漏らされたのではないだろうか」

「様々な問題に焦点を」という保守的なテレビ番組のプロデュ−サ−で、マクドナルド下院議員の個人的な友人で、シフリンを彼女の番組に出演させたマージョリー・プロバンは、テレビでその報告書に関する事柄を読み上げ、彼女にそのコピーを送ったソン議員に電話もしました。彼女はそれで、1993年3月に「極秘の暗号化されたCIA報告書の分析」という本を研究の後に出版したシフリンにそのコピーを渡しました。その報告書のコピーと彼の分析は、バート・シュロスバーグが「007便の救出:KAL007便とその生存者の語られていない物語」を書いた時使われた、様々な情報源の一部となっています。

報告書に関しての記述

私たちが持っているその報告書は78ページであり、タイプライターで打たれ、6ページの図表がついていて、他のボーイング747の墜落による破片分布と公式声明を明らかにしています。それは、含まれなかった3つの付録にも言及しています。

表紙には、CIAの印、議会事案を調査するCIA官庁の名前と住所と、「TO」と中に書いてある囲み(その次は空白になっています)のゴム印が押してあるのです。標題紙には「極秘であり利用は厳禁」という一文がついています。次の行は「アメリカ合衆国」で始まります。この言葉には、何かが削除されたための空白が続いているのです。十中八九、その報告書を作成した組織またはそれが作成された目的の組織の名前が削除されたのでしょう。

その報告書の隅から隅において、論文またはそれを作成したグループに関しての論及は1つの例外を除いて、削除されています。標題紙を発端に、各ページは(しかし最後のページの方には破片分布の図表が含まれていません)、1つの例外がまたありますが、「極秘/秘匿」というゴム印が押してあります。1つの例外は43ページで、それは、報告書がソン・セ・イルに渡される前に体裁を整えられている時、明らかに見逃されました。最後の1つ前の段落の最後の文章には次の様に書かれています:「1991年のこの6月、共和党局員の論文作成のために、国家安全保障局はこの報告書を再分析するという命令を受けた」

この1つの文から、その報告書は共和党局員によって作成されたその事件に関する論文であり、彼らは外交委員会の少数局員であったのでしょう。どこか他の所で裏付けられる様に、国家安全保障局はKAL007便に関するそれの極秘の取得物を再検査しようと意気込んでいました。報告書で使われた他のデータと同様に、この事はその作成者がCIAの情報と同様に極秘のNSA(国家安全保障局)のデータにアクセスできた事を指し示しています。

その報告書は、草案の形ではありますが、上院外交委員会の共和党局員によって作成された他の論文、1991年5月23日の「戦争捕虜/行方不明兵」に対するアメリカの政策に関する考察」と名付けられた報告書のようなものに似た性質を持っています。

重要性

それの公的地位に関わらずこの報告書、この「共和党局員論文」は、それが初期のイズベスチヤの連載における記述の分析と同様に、CIAとNSAの情報源からの他の情報に沿ったアブラハム・シフリンの調査からのデータを提示しているという点で非常に重要なのです。そしてそのイズベスチヤの記事は、モネロン島近くでのKAL007便の不時着水と、乗客、乗組員の生存に関して、総合すれば力強い論証をなしていると言えます。その作成者は、この事が真実であり、隆起してくるであろう質問に対する解答を得るための外交活動に必要であると明らかに信じていたのです。

報告書が完成した2、3ヶ月以内の1991年12月10日にヘルムズ上院議員はその報告書のデータに「同意し、信頼を置いている」という内容の手紙をボリス・エリツィンに送りました。その手紙の中で、彼は「ロシア共和国政府が、その手紙に付け加えられた質問を解明するために旧KGBと国防省のファイルに目を通すよう」要求しました。その質問は、飛行機の着水を見た目撃者の証言録取書と、着水の正確な位置、KAL007便の全飛行に関連した全ての軍の無線の転写物、生存している乗客と乗組員の名前、飛行機から取り去られた荷物と他の種目のリスト、ソビエトの捜索救助報告のコピー、アメリカ下院議員のラリー・マクドナルドの運命に関する詳細な情報と、乗客と乗組員の中の生き残った人たちが連れ去られた収容所に関する情報を問い合わせるものでした。

6ヶ月後の1992年6月17日、エリツィンはKAL007便に関する文書の存在を報告している、共産党中央委員会へのKGBの覚え書きの存在を明らかにしました。その覚え書きは次のような驚くべき叙述を含んでいました、「これらの文書がかなり隠されてきたので、我々の子供たち…我々の後を引き継ぐ者たちが彼らを見つけられるというのは疑わしい」 (ワシントーン・タイムズ1992年6月18日)

この事から3ヶ月後、エリツィンは公式にブラックボックスの存在を認めました。今までの中で、シフリンはこの事実を公に発表した最初の人であり、この事実は後にイズベスチヤの記事と局員論文によって裏付けられたのです。

1992年12月までに、ロシア政府は国際民間航空機関(ICAO、国連の部局)にKAL007便の飛行に関連する全ての電子通信の転写物を引き渡すと約束しました。これらの転写物は結局、1993年5月28日のICAOの報告書に記載され、「007便の救出」に広く引用されています。

そういう訳で、内密のソビエトの情報源からアブラハム・シフリンへ、そして彼からジェシ−・ヘルムズとヘルムズのスタッフへの情報の伝達があったのです。シフリンがヘルムズのスタッフと最初に会談を持った後、情報は明らかにイズベスチヤに漏れ、その事はとても素早くシフリンが明らかにしたいくつかの事を裏付け、追加の情報を付け加えるジャ−ナリスティックな調査を始めさせる事になったのです。(これらの記事のデータの大部分はほとんど、新事実が明らかになってきたので、状況を混乱させるために意図された「偽情報」であります。しかしながら、注意深く分析するとその記事は有用な物であると言えます)これらの情報源 − シフリンのデータと初期のイズベスチヤの記事 − における情報は、追加の新事実を裏付けるデータと、CIAとNSAからの新情報に沿った共和党局員論文に含まれています。これらの情報を基にして、ヘルムズはエリツィンに手紙を書いたのです。1年以内にエリツィンはヘルムズの要求の核心の部分に応じます。しかしながらロシアは今日まで、生存者はいないという主張を維持し、いまだこの主張を実証する何の情報も提供しなく、その上、他方面の事を提示する証拠も否定しているのです。彼らは死体や救命胴衣、荷物が事故現場に存在していないといういかなる説得力のある説明もなしていないのです

その報告書のいくつかのデータが、その後に起こった出来事によって証明されて、その報告書の中の他の情報の否認を支持するいかなる信頼できる説明または証拠もないので、この報告書は非常に価値ある物で、十分事実に基づくものであると言えます。私たちは、論文によって形作られたか、またはその報告書の証拠に基づいた主張を崩していく、実在する実質的証拠というそんな物があれば見てみたいと思っています。そのようなデータが提出されるまで、乗客に起こった事を重点的に解明してKAL007便の事件の全貌を明らかにする調査活動を私たちは要求していきたいと思っています。

国務省の「生存者がいるという」可能性の放棄は、特に事実に基づいた物とは言えません。国務省スポ−クスマンのリチャ−ド・バウチャ−は1992年10月27日−ソン・セ・イルの爆弾発言の次の日−に、「エリツィン大統領は、生存者はいないと返答し、我々にはロシア政府の声明を疑う理由はない」と述べています。(ワシントーン・タイムズ、1992年10月27日)

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9.KAL007便はサハリンに着陸したのですか、それともモネロン島沖の海面に着水したのですか?
KAL007便は安全に着陸し、乗客は救出され、荷物は飛行機から取り去られたと確信している人たちの間では、飛行機が着陸した場所に関して2つの説があるのです。両方の説と位置に関してはそれぞれ支持している人もいれば、支持していない人もいます。私たちは、飛行機は小さなモネロン島沖に不時着水したと信じていますが、それぞれの位置に関しては賛否両論がありますどちらの場合も最終的な結論は、我々の間では同じなのです。乗客と乗組員は捕虜にされ、飛行機が破壊された時に死んでいなかったという事です。

サハリン

政治的に論争を呼ぶ事件の一番初期の報告書はたいてい、最も正確であるという事は指摘され続けてきた事です。特定の分野で利権を持っている人たちが、そのルポルタ−ジュをコントロールし、引き延ばそうとする機会を得る前に、これらの報告書は公になったのです。一番初めのKAL007便の撃墜に関する報告書は全て、飛行機は軍と民間の飛行場の本拠地である広大なソビエトのサハリンに着陸したと述べています。これらの報告書は、「ニュ−・アメリカン・マガジン」のロバ−ト・W・リ−によって書かれた3つの記事に詳細に書き込まれています。彼は、FAAのスポ−クスマンである、担当官のオ−ビル・ブロックマンがラリー・マクドナルド下院議員の報道関係助手のトミ−・ト−ルズに、飛行機は日本の自衛隊のレーダーにサハリンに着陸するまで追跡されていたと告げた事を記録したテープのコピーを持っているのです。

このテープを聞いた人たちは、スポ−クスマンが彼の報告書は真実でいかなる偽の報告の1つにしようとしているのではなく、単純に事実関係を伝えていると信じている意見を信じ、これは事実だと言う論調でコメントしているのです。他の報告書は1983年9月1日のニューヨークタイムズの記事を包含しています。その新聞のKAL007便撃墜に関する最初の記事の中で、初期の報告書は、飛行機はサハリンに強制着陸させられ、全ての乗客は安全であったと信じられていると言っていると述べていて、ソウル時間の1983年9月1日付けの一番初めのUPIの電信も多くの同じ情報を伝えています。その記事によればこれらの報告書は、アメリカのCIAが与えた報告書を読んだ韓国外務省官僚から来ているのです。大韓航空の社長は、乗客と乗組員は生きていると確信し、彼らに会うためにサハリンに行く途上で日本を訪れました。他方、マクドナルド下院議員の管理スタッフのフレッド・スミスはこれらの最初の報告書を疑い、検証のためにペンタゴンに行きました。そこで彼は、飛行機は撃ち落とされたという事を知りました(作成者との個人的なやりとりから)

もし撃ち落とされた飛行機のパイロットが、特に彼が飛行機をなんとか操縦し続けていたとしたら、一番近くて最高の着陸場所を捜していたという事は理解できる事です。これの捜していた場所は、暗く曇っていた天候下の公海ではなく、通常の着陸のための格好の着陸場所だったのでしょう。

この視界からくる問題はその事を立証する証拠は他になく、初期の報告作成者の何人かが後に主張を撤回した事なのです。ではありますが、飛行機がモネロン島沖に着水したという主張を立証する様々な情報源からの重要な証拠があるのです。飛行機はサハリンに着陸したという論点の報告書の中に、飛行場を特定し、または着陸場所を明示するものが1つもないのです。「サハリン」がその広い島の付近の地域を参照するために使われたかもしれなく、本来意図されたものより明確な場所として飛行機が通過したという事は想像に難くない事です。

モネロン島


モネロン島
飛行機がモネロン島沖に着水した事に関して、公的な物も非公式な物もこの事を支える様々な情報源というものがあるのです。私たちは、それらが偽情報を流そうとしている(または「流す事ができる」)という事はあり得ない事だと考えています。

共和党局員論文/「CIA報告」で報告されている通りのCIA/NSA情報源。フライトのレーダー追跡とソビエト空軍機の行動に言及しているこの論文に含まれている、いくつかの「特殊諜報活動」またはNSAの報告書が存在します。

これらの報告書は、KAL007便は持続的なスピードの減速状態で、12分間で30、000フィート以上の高度から1000フィートに降下したという情報を伝えています。飛行機がソビエトのレーダーから消えた時、それは平均秒速22、2フィートの速度に落ち始めていたのです。

次の抜粋は、飛行経路に関連しています:

KAL007便がどこで撃たれ、その後どこに行って、そしてどこでソビエトのレーダーから消えたのかという事を示す地理座標は高精度なレベルで特殊諜報活動によって明らかになっています。そしてこれらの地点はアメリカの情報図に記されています。

例えば、撃たれた9分後、5000フィートの高度におけるKAL007便の最後の追跡位置はおおよそ4617N−14115Eの座標でした。レーダー追跡を行っていた特殊諜報活動は、北から接近して、南に向かっている方向でサハリンからモネロン島に向かう飛行経路を指し示していて、飛行機の不時着水、墜落場所は確実に1991年6月のNSAの再分析により、モネロン島の北2、6キロメートルのソビエト領海内であったと指し示しています。(共和党局員論文/「CIA報告」46−47ページ)

次の抜粋は、その場所の位置に関連しているものです。
特殊諜報活動によれば、オシポビッチの編隊僚機の操縦士の1人は、KAL007便がソビエトのレーダーから消えた約15分後に、彼は「慓点で旋回」していた事を報告しています。この事実は、この迎撃機が、ソビエト防空レーダーがより正確に位置を特定できる様に、KAL007便の推定「不時着水」または「墜落」位置の上空で旋回していた事を示しています。

特殊諜報活動によれば、ソビエトの迎撃機はモネロン島の上で旋回していました…
(共和党局員論文/「CIA報告」54ページ)
ICAO報告書におけるソビエトの転写物:1993年のICAOの報告書に付け加えられて、シュロスバ−グの007便の救出の3章、「モネロン島上空で行方不明になる」で紹介されたソビエトの地上通信の転写物は、「ソビエトの軍当局は、飛行機がモネロン島で向きを変えた後、その島の上空でレーダーから消えた事を知っていた。彼らの画面から飛行機が消えた数分以内に、2つの別個の救出作戦が指令された。スミルニク空軍基地戦闘機師団長代理のノボセレツキー中佐は救助ヘリコプターをその地域に送るよう指示し、極東軍管区司令官代理のストロゴフ将軍はその島に速やかに、モネロン島周辺にいる全ての沿岸警備隊、民間艦船を送る様に指示しました。
共和党局員論文/「CIA報告」"で報告されている目撃者:共和党局員論文で記録されている2つの重要な報告があるのです。最初の物はそれの47ページで、その地域の日本の漁師が、KAL007便がモネロン島上空で旋回していたと証言した事を簡単に述べています。2番目の報告は全部を以下に記載します。

最近の移住者は新しい情報を提供してくれていて、それは、「KAL007便は実際、モネロン島とサハリンの間のソビエト領海にうまく不時着水し、伝えられている所によれば、ラリー・マクドナルド下院議員を含む多くの乗客が生き残ったと思う。不時着水した飛行機は、伝えられている所によれば大半を無傷のままで、KGBのロマネンコ将軍指揮下のKGB国境警備隊のボートに回収され、そして全ての生き残っていた乗客と荷物が外に出させられた」という物です。その移住者はまた、「ソビエトのヘリコプターのパイロットはKAL007便が海面で1つの物体であったのを見た。それはそれからモネロン島近くのソビエト領海に引いていかれ、故意にソビエト領海線の内側の浅瀬に沈められた」と報告しています。

しかしロマネンコ将軍は(原文のまま)伝えられる所によると、生存者と荷物をどうしたらいいのか分からなく、ブラックボックスを回収する事も忘れていました。彼は失敗を犯し、あまりにも色々な事を知りすぎていたので報道によれば、オガルコフによって懲戒され、解任され、矯正労働収容所に送られたのです。(共和党局員論文/「CIA報告」75ページ)
バート・シュロスバーグに対してのロシア人の移民の報告−007便の救出から
1991年8月9日の朝、エクシーと私はエルサレムのヒルトンホテルの混み合ったロビーに入りました。私たちはソビエト防空軍中隊−1845部隊に配属された前地図製作者−のルービン・Vに会うために来たのです。この部隊は、シフリンによると、KAL007便が安全な場所で着水するまで追跡していたレーダー部隊でした。

ルービンは自分の知っている仕方で、私たちに次の話をしてくれました:1983年9月1日、彼の司令官 −彼はまだソビエトガバン(サハリンを横切ったロシアの東海岸)に位置していた1845部隊での夜勤任務の大尉だったが−はKAL007便が撃ち落とされる前の数分間、KAL007便のフライトを追っていたレーダースクリーンの写真を撮りました。ミサイル衝突後、KAL007便が0ポイント(1000フィートレーダーが捉えられる最低限度)に降下するまで、レーダーは12分間以上、ジャンボ・ジェットの追跡を続けていました。ルービンの上官の名前はリズコフでした。リズコフと1845全部隊は、コムソモルスク・ナ・アムーレに位置していた地下司令部の一部隊だったのです。

リズコフはルービンに、自分は、KAL007便は無事に着陸したと思うと話したのです。彼のレーダー基地だけが、ミサイルを射ち込まれた乗客機のフライトを0ポイントまで追っていた基地ではなかったのです。これらのレーダー基地の他の物は、防空軍2212部隊PT6と呼称されているイェディンカにあるレーダー基地でした。ルービンはホテルの電話帳にソビエトガバンの地図を書き、イェディンカを1845部隊の南西と沿岸に配置しました。リズコフはルービンに、レーダー・スクリーンの写真を撮る時に、36枚撮りの3本のフィルムを使ったと言いました。(レーダー・スクリーンの写真が撮られたという裏付けは、英語で初めてイスラエルで出版された「ソビエト極秘メモ」で最近確認されています。メモの4番目を参照してください)

これらのフィルムは −大尉が言ったのですが− 後でKGBに没収されました。他のレーダー基地と同様に、1845部隊の全職員はKAL007便追跡に関しては沈黙を守る様に命じられていました。皆が、この命令の不服従の罰則は、死か流刑である事を理解していました。

「なぜ誰もがあなたにこの事を話そうとするのですか?」私は彼に尋ねました。「特に罰則の観点からですか?」

「彼は酔っぱらっていました」ルービンは続けます。「しかも彼は心を痛めていました。彼らは彼に恥をかかせたのです。その事件に関わった他の人たちが昇進していく中で、彼は昇進から外されたのです。彼がKGBに、なぜ昇進から外されたのか問いただしたところ、KGBは、彼がそのカメラにフィルムを充填し損なったからだと答えたのです。しかし、リズコフはその原因をもっと深く知っていました」(007便の救出42 − 44ページ)
ICAOの報告書で報告されているように、サハリンを越え、そしてその西を飛行していたKAL007便を捉えていた日本のレーダー

23:30分(UTCまたはグリニッジ標準時)、JMSA(日本の海上保安部)は防衛庁から、ある飛行機がレーダー上で南西方向に移動しながら、稚内の北東約100海里の地点で観測されたという情報を受け取りました。この目視は最後に防衛庁の稚内レーダー監視基地によって18:29分に行われました。上記の情報を受け取り、海上保安部は2隻の巡視船をサハリンの西の地域に派遣し、稚内空港で2機の飛行機を待機させました。06:10分から14:30分の間に、海上保安部はさらに8隻の巡視船をサハリンの西の海域に派遣しました。(ICAO 1993年 1、11、5段落、17ページ)
この事は直接モネロン島を指していませんが、フライトがサハリンを越えた方向であった事を示していて、捜索がサハリンとモネロン島またはモネロン島の西の海域との間で行われた事を示しているのです。
イズベスチヤの記事:イズベスチヤの記事は相互に、矛盾しているデータと証言を含んでいます。そして彼らが他の情報源に同意している限りにおいて、信頼できる物であると考えられます。その記事がそうであると言われているように、KAL007便が不時着のポイントまで降下する(その記者はそう考えています)前に、モネロン島の周りを2回旋回した事への言及が記事に記載されているのです。
モネロン島沖で着水した事のメインの問題は、そのような離れ業をなすのは、想像を絶する程難しいという事です。ですが、航空線のパイロットはこの不慮の事態に対する訓練を受けていて、乗客機を不時着水させる手順は全ての航空会社で教えられているのです。飛行機の不時着水の報告は滅多にないのですが、全てのケースで、乗客の生命は守られているのです。(さらなる情報が欲しい方は、航空機の不時着水 をご覧ください)その上、韓国空軍大佐の機長のチュン・ビュン・インはベテランのパイロットで、大型飛行機操縦において高度の技術を持っていました。彼はその技術故に、1982年に韓国大統領をアメリカまで送る大統領専用飛行機のパイロットとして従事していました。もしボーイング747が海面に着水したのなら、チュン機長はそれをなせたでしょう。

着水時点で、外は暗く、2000メートルの高度では雲が空を覆っていました。

これに付け加えて、私たちは、KAL007便撃墜時に日本の稚内近くに配属されていたアメリカ空軍兵士が「その問題の地域はその稚内近くの丘から見えます」と言ったまた聞きの報告を受け取りました。彼は、救助チームは1つも見当たらなかったと主張しています。しかし、モネロン島が稚内から約45海里(54法定マイル、86キロメートル)離れているという点で、これには問題があります。その近くの島の礼文島と利尻島には1,700メートル超(5,000フィート超)の峰がありますが、稚内に一番近い北海道の峰は稚内と15マイル離れており、427メートルの高さしかないのです。(プラネット・アース・マクミラン・ワールド・アトラス)私たちはその兵士が言及しているアメリカの監視所がどこに位置しているのか分かりませんが、もしそれが稚内近くの北海道にあるなら、それはモネロン島を見られる程高い所に位置しているとは言えないでしょう。これを書いている時点でこの観測ができる程の高さを持った、稚内近くの丘が存在するのかどうか断定できていません。もしこの文章を読んでいる方でその事を知っている人がいたら、どうか私たちに情報を提供してください。

着水の難しさに付け加えて、飛行機は、乗客と荷物が取り去られるのに十分な程、海面に浮かんでいなければならなかったでしょう。貨物倉の荷物は、飛行機が浮かんでいる間は取り去られなかったでしょう。私たちは全ての荷物は取り去られたと信じています。この事は、飛行機が沈んだ後、貨物の扉を水面下で開ける事によって潜水夫によって為されたのでしょう。他の可能性は、この特別な飛行機は甲板下の区分が他の目的に使える様に、メインデッキに貨物コンテナが取り付けられていたという事です。大韓航空は少なくとも所有する飛行機の内の16機にこの事を為したのです。この特別な飛行機がそう装備されたのかどうか判断する事はできません。

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10.生き残った乗客と乗組員は、ソビエト軍に捕えられた後どうなりましたか?
私たちの1983年8月31日に撃墜された大韓航空機007便の乗客と乗組員の所在に関する知識は、第一にソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所レサーチセンターから受け取った情報を基盤としています。そのレサーチセンターは彼自身ソビエトの監獄に投獄されたイスラエル人の、最近なくなったアブラハム・シフリンによって設立されました。ソ連赤軍の少佐、そしてクリミアの北東のクラスノダ−ル地方の検察官として、彼は責任ある立場として多くの人を矯正労働収容所に送ってきました。彼自身、アメリカ合衆国とイスラエルのためにスパイ行為をしたという理由で有罪とされた後、最も厳しい監獄に10年間服役しました。その後、カザフスタンに7年間流刑となったのです。シフリン氏はソビエト連邦とその後継国家内に広範囲なネットワークを持っていました。私たちが持っている情報の多くは、彼の非常な危険を冒した努力によるものなのです。

そのセンタ−の1989年から1991年にかけての調査は、KAL007便の乗客と乗組員は、救出の結果、サハリンのKGBの基地に連れて行かれたと断定しました。2、3日以内に(1983年9月4日までに)、おおよそウラジオストクの北600マイルの位置の、サハリンの反対側のシベリア本土のソビエツカヤ・ガバンのKGB基地に皆は連れて行かれました。ここで男、女そして子供たちは別々のグループに分けられました。男と女はバイカル・アムール鉄道上の、ティンダに列車で連れて行かれました。そこは800マイル内地で、少なくとも何人かは強制労働収容所に入れられました。大人の男はある時点で、シベリアの至る所にある複数の別々の収容所に分けられたのです。その収容所のいくつかは、アメリカ人の戦争捕虜と外国の囚人を抱えていたのです。これらの収容所は、全く隔離されて、周りに村もない外国人用の収容所と見なされていました。通常、囚人が捕虜収容所から解放されると、彼らは収容所近くで流刑生活をするよう要求されるのです。彼らの家族は彼らに加わり、村は収容所の周りで大きくなるのです。外国人の囚人は解放されません。彼らがいる収容所の周りには、彼らの村というものはないのです。

ジョージアの第7選挙区の民主党員のローレンス・P・マクドナルドは残りの乗客から分けらレーダーいたい1983年9月8日に特別な航空輸送機でモスクワかその当たりに移動させられました。特別なKGBの警備部隊が彼に付き添う様にとハバロフスクから連れてこられました。KGBは注目を集める囚人、最重要人物そして厳戒警備を必要とする他の人たちを輸送するために広範囲に使われた910xxシリーズの特別な飛行機部隊を持っていました。これらは、非常に短い移動にも、陸上輸送の代わりに使われたのです。

子供の乗客はソビエツカヤ・ガバンの特別に設立された、隔離された臨時の孤児院に10月の終わりまで収容されていました。彼らはその後漸次、彼らの人種に基づき、ウラジオストク、ノボシビリスクに近いオムスクとバルナウルとカザフスタンの様々な孤児院に移されました。その子供たちを移した意図は、彼らをこれらの地域の支配的人種の人口に同化させる事でした。

マクドナルド下院議員

モスクワに着いて、マクドナルドはルビヤンカKGB収容所に連れて行かれ、そこで「囚人No.3」という名前をもらったのです。ルビヤンカにいる間、彼は隔離され、尋問がある時だけ独房から出させられたのです。(尋問のために連れ出された人間の足音が独房で聞かれない様に、ルビヤンカの廊下にはじゅうたんが敷かれています。全ての人間が覗き穴を通して、常時観察されているのです。少しの運動を許された人間は外の通りからは高く、見る事ができない収容所の屋上にある小さい塀で囲まれた運動場に連れて行かれるのです。)彼は数回、KGB第一総局長のウラジミール・クリュチコフに尋問されました。(クリュチコフは反ゴルバチョフの中核グループ、「8人のギャング」の一員で、1991年8月、ミハイル・ゴルバチョフから権力を奪取しようとしました。彼はクーデターが失敗した時逮捕されましたが、後に釈放されました。彼は2000年のウラジミール・プーチン大統領の就任式に −プーチン氏の個人的な招待で− 参加したのです。クリュチコフ氏は現在、国際的に講演活動をなしている名の知れた人物です)

沢山の尋問の後、マクドナルド氏は数ヶ月に渡る継続した尋問のために、モスクワにあるレフォルトボKGB収容所に移されました。レフォルトボでは、囚人は凍結温度近くまで人工的に冷却された独房に置かれたのです。これらの独房は横がだいたい1.5メートルまたはおおよそ4、5フィートしかなかったのです。地面がむき出しの床は、囚人が泥の上で立ち、横になる様に水浸しになっていました。囚人が足を反対の壁につけて、身体をもたれかけられる様に斜めの長椅子があったと思われています。

レフォルトボでの生活の後、マクドナルド氏は、尋問が引き続き行われたモスクワ近郊のスハノ-ファ−にあるダッカ(夏の別荘)に移されました。シフリン氏の調査チームは、マクドナルドはスハノーファーにいる間に、薬剤を用いた尋問によって最終的に自分が誰なのか分からなくさせられたという事を強く確信しているのです。彼はソビエトの重要な核ミサイル発射場と同様の設備があるカザフスタンのカラガンダの収容所に最終的に移されました。彼は、アメリカの核計画について話せる事と、ソビエトの計画について知っている事を嗅ぎ出す目的の一環として、専門家によって尋問されるためにこの地域に連れて来られたのかもしれません。

1987年の始めに、前NSAの調査官のジェリー・ムーニーはアメリカ連邦議会で、「モスクワ・バウンド(ベトナムの戦争捕虜がソ連に連れて行かれた)」計画と、ソビエトの核計画の中心として、そしてある高度の技術を持ったアメリカの戦争捕虜が連れて行かれた場所としてのカラガンダの重要性を証言しました。彼の証言の後で、世界の報道機関はこの地域に着目しました。マクドナルドがそこにいたという事実を秘密にするために、彼は1987年の中頃、特別な輸送機関でカザフスタンにあるテミール・タウの町の近くにある小さな収容所に移されました。(この収容所の看守は、当時マクドナルドがどのような外見だったのかという事を知ろうと、コンピュータ処理された写真から彼を特定したのです。その写真はまた、彼の左の鼻孔から唇の左端にかけて走っている傷口をも写していました)

カザフスタンのテミール・タウ収容所の看守に見せられたラリー・マクドナルドのコンピュータ合成の写真
彼はここで特別治療(拷問、薬品を用いた尋問)を受けましたが、誰とも話す事を禁じられました。1990年の夏に、彼はカラガンダの交通刑務所に連れて行かれました。ここで、KGBによってファイルが封印された見知らぬ囚人として彼は収容所生活を送りました。1995年の時点で、カラガンダからのさらなる情報を得ようとの試みは失敗に終わっています。マクドナルド下院議員の現在の位置は分かっていません。 −カラガンダかもしれませんし、彼は違う所に連れて行かれたのかもしれません −

子供の乗客

KAL007便の子供達の跡を突き止めるのは、とても難しい事です。一番若い子供たちの多くは、おそらく子供たちが連行された地域の人たちの養子となりました。2人のコーカサスの若い姉妹についての情報が得られたのですが、私たちは、彼女らはニューヨークのロチェスターのグレンフェル家の3歳と5歳の、ステーシーとノエルだと信じています。彼女らは1990年までウラジオストクの孤児院に送られていたと思われています。長女はおおよそ12歳の時、ハバロフスクの市民病院に付随した一種の高等専門学校である第3医学校に訓練のために送られました。私たちがノエルとみなしているその問題の少女は、そこを3年で卒業しその後どこかに連れ去られ、彼女の籍は学校と病院から抜かれたのです。この時点から、彼女の足跡は分からなくなっています。この情報はその学校の校長からのものです。

ある女性の乗客

ある情報源は、シベリアのティンダ地域で樹木伐採の仕事に就かせられた1人の若い東洋人の女性についての情報を提供しています。1985年以前に、彼女は労働災害で左腕の肘から下を失ってしまったのです。その後、彼女は広大なシベリア大地を横切って、北極圏より北のタボブスカヤ・グバ(入り江)にある完全に隔離されているナホトカと言う村に送られ、彼女はそこで1991年か1992年の晩夏のある時まで居続けたのです。この時まで彼女は結婚し、何人かの子供を持つに至りました。その村は、その地域の漁師と2、3人のロシア人の流刑者が住んでいる20か30ぐらいの家より成り立っていました。村人はほとんど外界と遮断されて、人間以下の状況の中で暮らしているのです。一年のほとんどが冬で、半年は北極の暗い天気で覆われているのです。状況があまりにもひどいので、村人たちは−ほとんどの人がロシア語を話せないのですが− 生き残る事とウォッカにしか関心がないのです。

ナホトカの村人は、その女性の事を彼女の東洋的な外見から先住民のネネツ族出身だと思っていました。彼女は誰とも付き合わなく、彼らは概して彼女自身の事を知る事はなかったのです。彼らは、彼女は権力者によってここに連れてこられた事に気付いていました。それはKGBがアブラハム・シフリンと彼のレサーチセンターの、彼女の位置を特定しようとしている動きに気付いたからだったのでしょう。シフリンは自分の部下を、彼女が移される前の1年前にこの村に送ろうとしましたが、財政的状況が続かなく出来なかったのです。彼が必要な財源を確保し、この大変危険な任務をこなす志願者を確保できた頃にはこの女性は消えてしまったのです。

留意すべき重要な事柄は、どんな理由でも囚人は釈放される時に、ナホトカのような隔離された村に送られたという事です。彼らが、きちんとした移動の自由が与えられても、広範囲なKGBの監視ネットワークからの脱出という事はできなかったのです。ソビエトのKGBはそのような村人をコントロールするために、その地域の密告者を利用したのです。密告者は「KGBの目的を達成する力」として使用するために、監禁されている家族の安全に対する脅しによって次々とコントロールされていったのです。KGBは共同体の信頼できるメンバーを、密告者として採用するために選りすぐっていったのでしょう。それでKGBは選んだ人物をテストするために、ある人間に反ソビエト的な事をKGBの前で言わせたのです。密告者がKGBの「調教師」にそのような言動を報告しなかった時は、彼の家族は食事を取り上げられた事を知らされるのです。もしそのような事が再び起こると、彼らは射殺されるのです。シフリンはKGBのその巧妙なやり方は、「極悪非道であり、100パーセント有効であった」と考えています。

名前は変わったとしても、以前より低姿勢であったとしても、KGBは今なお従来通り広範囲な力を有しているのです。ロシア大統領のウラジミール・プーチンは、政界に入る前はKGBの一員だったのです。

大人の男性の乗客

情報源は、男性の乗客と乗組員のほとんどは、一連の、中国との国境から遠くないザポクロフスクという村の近くのアムール川に沿った濃密なタイガ地域の3つの極秘収容所に連れて行かれたと指し示しています。これらの収容所は、アメリカ人の戦争捕虜がいたと知られているのと同じ収容所です。それらの敷地はとてつもなく広いのです。冬期は、80から90の煙突から煙が立ち上っているのが見えるのです。それぞれのバラックには2つか3つのストーブがあり、収容所には、30かそれ以上のバラックの住居がありました。不幸な事に、その収容所に着き、視覚的に乗客を確認しようとした計画は、その地域の厳重警備のために失敗に終わったのです。

さらなる収容所は、ソビエト軍極東戦域司令部があるチタ地域のネルチンスク、ネルチンスキー・ザボードと他の場所にありました。

当時、北極海のロジャース湾とウランゲル島には外人の囚人用の3つの他の極秘収容所がありました。シフリン氏は何人かの乗客と、特に乗組員が、飛行訓練を受けていたという理由でウランゲルの収容所に連れて行かれたという事を信じるだけの根拠を持っていたのです。これらの収容所はそれ以来、撤去され、全ての収容者はどこかに移されたのです。

これらの事柄は、KAL007便の乗客と乗組員が、撃墜された飛行機から救出された後に連れ去られた場所に関する我々の現在の知識をフルに活用した結果です。

もしこれを読んだ方で、KAL007便の捕われた人達がいると思われる場所に関して何か知っている事がありましたら、どうぞ、info@rescue007.org宛にメ−ルで送ってください。皆さんのご協力に期待します。

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11.なぜソビエト軍は、KAL007便の乗客と乗組員に関する証拠を全て処分する代わりに彼らを生かしておいたのでしょう?
[この質問に対する解答をよりよく理解するために、FAQの1番も参照してください]

KAL007便の乗客と乗組員の運命については、ソビエト連邦の一般的な外国人捕虜の取り扱い方に照らし合わせて、考慮される必要があります。アメリカ人の戦争捕虜/行方不明兵の事柄に詳しい人に十分知られている理由(なぜソ連がそういう行動をとったのかという)というものが存在するのです。

ソビエトは欧米の政治的妥協、衛星国政治の認識、そして捕まったスパイの変換のために、外国の囚人を「取引材料」として利用していたのです。
ソビエトは西側からの経済的「信用貸し」を得る(ゆすり取る)ために外国の囚人を利用してきました。
捕えられた外国人は、崩壊した経済的手法 − 共産主義 − のための奴隷的労働部隊を補う物として利用されてきました。(実際、ロシアが、我々がKAL007便の生存者が補えられていた/補えられていると信じているのと同じ地域に位置している収容所で外国人による奴隷的労働を行使し続けている事が最近明らかになりました。KAL007便の生存者とロシア連邦の強制労働収容所のセクションをご覧ください。
1953年のKGBの長官のラベントリー・ベリアと彼の補佐役 −カブロフ大佐とその他の人− の処刑以後、今日の看守とその仲間たちが、明日から囚人になるかもしれないという事実が明らかになったのです。そういう訳で、懲罰からの恐れが、政治犯の間での処刑の実施(最も厳しい拷問と同様に)を少なくしたのです。
グラスノスチと、一般的なKGBとソビエトの抑圧的国家組織に関するデータの開示は、非常なリスクを負ってソ連がKAL007便の乗客と乗組員を殺した事実を保持している事を提起するでしょう。
そして最後に、いまだ聖書を土台にしたキリスト教の憐れみの概念で形成されている社会のアメリカ合衆国は、捕えられた人たちがただ家に帰るために解放される事がなく、または必要ならば殺されるというソビエト時代に形成された精神性を理解できないでしょう。彼らはひどい目に会わせられ、捕まった人間として生涯をかけて労働によって自分の身分を贖(あがな)う事が要求されたに違いありません。この労働は自分たちを捕まえた人間に十分経済的利益をもたらす物ではありませんが、捕まった人間のその労働が、彼ら自身に利益を得させ、そして彼らの勝利の証明であったからなのです。例えば、トルーマン大統領時代の国務長官のジェームズ・F・バーンズは1945年9月、ロンドンでソビエトの外務委員(外相)のモロトフから(日本軍を全く解体して、日本に帰させるというアメリカの政策を受けて)こんな話を聞いたのです。「彼ら(日本軍)は戦争捕虜として扱われるべきです。私たち(連合軍)は、赤軍が満州を占領していた日本軍(約50万人)に行った事をするべきです。−彼らを労働に就かせ…」
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12.ソビエト軍によって戻された乗客の所持品はどれも、乗客の救出に関係しているのですか?靴についてはどうですか?
1983年9月26日の月曜日、日本の警備艇「つがる」に乗って到着した7人の日本人とアメリカ人の当局者の代表団は、サハリンのネベルスク港で6人のソビエト代表団に会いました。サハリン、クリール諸島国境警備隊司令官の、KGB少将のA・I ・ロマネンコはその*ソビエト代表団を率いていました。ロマネンコはそのアメリカ人と日本人に他の物に付け加えて、片方の履物と対になった履物を渡しました。日本が回収した履物も付け加えて、全部で213の男性、女性、子供用の礼装用の靴、サンダル、スポーツシューズが渡されました。ソビエトの代表団は、彼らが回収した全ての物は、海上で浮かんでいてまたはサハリンとモネロン島の浜辺に打ち上げられていたのを見つけた物だと言ったのです。

KAL007便の乗客の家族は後に、これらの靴は実際にあの運命的なあの夜のフライトに乗った自分たちの愛する者が履いた靴だったと述べています。ソニア・マンダーは彼女の子供たちのスニーカー、1つは14歳のクリスチャンの物、1つは17歳のリージの物を子供たちがした複雑なひもの結び方で、難なく子供たちの物であると分かったのです。(ソニアは個人的に、彼女の子供たちはフライトに搭乗する時にこれらの靴を履いていたと私に確認してくれました)他のKAL007便に乗った子供の母は、「私はこれがまさに自分の子供たちの物であるのが分かります。ほら、他人には気付かない、目立たない印が沢山ついているのよ。こういう訳で、これがそれとわかるのよ。私の娘は本当にこれを履くのが好きだったのよ」そして今なお他の犠牲者の母(たぶん靴が誰の物か分かるのにその犠牲者の母が必要でしょう!)のナン・オールドハムは日本の千歳航空自衛隊基地で靴が公開された初日に展示された、見た所ではバラバラな並べ方の213の靴のうちの55の靴を紹介した「ライフ・マガジン」の写真から、彼女の息子、ジョンのスニーカーを発見しました。「私たちは雑誌でジョンの靴の写真を見ました」ナンは言います「私たちはKALを通してその靴の事を追跡し、2、3週間後に1つの小包が届きました。彼の靴が中にありました。クリ−ムホワイト色のペンキがついた11サイズのスニーカーでした」ジョン・オ−ルドハムはそのクリ−ムホワイト色のペンキが飛び散ったスニーカーを履いてKAL007便の31列の席に座ったのです。彼はワシントーンD.C.近郊の実家でペンキを塗った直後に空港に行ったのです。

「ライフ・マガジン」の写真の靴の調査から、靴を一対にし、そして片方だけの靴を含めて数を数えて、それらを全体の靴の総数に関係づけると回収された靴の総計はKAL007便の198から269人分 − または全体のほとんど74パーセント − になるのです。

ソビエト軍はKAL007便の乗客の74パーセントの靴の幾分かを回収しましたが、依然1体の遺体も、1人の人間をも見つけられなかったと主張しています。この事は、「遺体はどこにあるのだろう?」という疑問をさらに強めています。靴は、遺体にくっついていてソビエト軍(または日本の自衛隊)によって回収されたか、または靴は履いていた人が脱ぎ、それでソビエト軍(または自衛隊)によって回収されたものなのです。これらの靴はなぜゆるかったのでしょう?靴は着陸の準備に際して、脱がれたのか、それともフライトの間にただ脱がれたのでしょうか?どちらの場合においても、1つの大きな疑問が頭をもたげています。そんなに多くの靴が見つかり、それらを履いていたただ1人の人も見つけられなかったというのは本当にあり得る事なのでしょうか?もし私たちが、靴は不時着水の準備に際して脱がれたという事、そうする時間がなかったという事、または航空機が爆発して機体が分解してそうする事ができなかったという事を否定するなら、他の疑問が出てくるのです。もし乗客の遺体がカニによって食べられ、そして専門家の意見に反して海中生物によって骨が食べられたことにより、1体の人間の容貌も見つからなかったと説明されるなら、213の履物の1つにも足、つま先、つま先の骨が中になかったという事は本当に信用できる事なのでしょうか?

* 注意:ロマネンコ将軍は(共和党局員論文によれば)KAL007便事件の処理によって、処刑されたでしょう。共和党局員論文は、彼は恐らく矯正労働収容所に送られたと報告しているのです。ソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所レサーチセンターは密告者の情報に基づき、独自でそして局員論文に先立って、ロマネンコの名前はもうKGBのコンピュータには存在しないと報告したのです。(たまに転勤した、死亡した、退職したと記される人もいますが、消去される事はないのです。ロマネンコの名前がないというのは、ロマネンコ将軍が全く存在しなかったと言っているようなものです。)最後に、アメリカ犠牲者家族協会の代表のハンス・エフライムソン・アプトは、彼が東ドイツのソ連大使館にいた間、大使館職員からロマネンコ将軍は、− 彼は何かを訪ねるために来たのですが(彼は来ませんでした!)− 自殺したと聞かされたのです。もちろん、その当時はそれぞれが真実だったのでしょう。

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13.荷物はどうなりましたか?
私たちが信じている様に、もしKAL007便がモネロン島沖でうまく不時着水したのなら(FAQ9をご覧ください)、乗客区画の機内持ち込み手荷物を持ち去るのは可能だったでしょう −飛行機は乗客と荷物が外に出るのに十分な程長く浮かんでいなければならなかったでしょう。貨物倉にあった荷物は、飛行機が浮かんデータ間は取り去る事ができなかったと思われます。ソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所レサーチセンターと潜水夫の報告によって、私たちに伝えられた目撃者の報告に基づくと、全ての荷物は取り去られたと考えられる訳です。飛行機が沈んだ後、海面下で貨物室のドアを開いて、潜水夫がこの事をなしたのでしょう。他の可能性は、この特別な飛行機は、甲板下の区分が他の目的に使える様にメインデッキに貨物コンテナが取り付けられていたという事です。大韓航空は少なくとも所有する飛行機の内の16機にこの事を為したのです。この特別な飛行機がそう装備されたのかどうか判断する事はできません。

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14.KAL007便以外の他の飛行機の不時着行動で生き残った人たちの記録はあるのですか?
6つの意図的な乗客機の不時着水行動が記録されています。次のデータは乗客と乗組員の生存率を示しています:

チュニンター航空、1153便、2005年8月6日、シシリー島の海岸の側で不時着水。39人中23人の生存者、生存率59パーセント。
アエロフロート航空、ツポレフ124便、1963年10月、ネバ川において不時着水。52人中52人の生存者、生存率100パーセント
ALM航空(オランダ領アンティレス)、DC9便、1970年5月2日、カリブ海で不時着水。63人中40人の生存者、生存率63パーセント
エチオピア航空 767便、1996年11月23日、コモロス諸島沖で不時着水。175人中45人の生存者、生存率26パーセント
マイアミ航空リースコンベアー CV340便、2004年12月4日、フロリダのモ−ル湖で不時着水。2人中2人の生存者、生存率100パーセント
パンナム航空 943便ストラトクルーザー「空の王様」、1956年10月16日、太平洋のホノルルとサンフランシスコの間で不時着水。30人中30人の生存者、生存率100パーセント
乗客機ではありませんが、関連があるコロンビア航空C130型機 ヘルクレス、1982年10月、アゾレスとバーミューダの途上で、2日間海上に漂う!
現在の所、生存者が誰もいなかった乗客機の不時着水の例は1つもないのです!

さらなる情報が欲しい方は、不時着水のページをご覧ください。

付録:

イスラエルにある「ソビエトの強制労働収容所、精神矯正収容所」レサーチセンターに来た報告書に基づくと、乗客と乗組員は荷物とともにソビエトの漕艇と船舶に乗せられ拉致されたと思われます。これらの漕艇と船舶は両方ともKGB将軍のロマネンコ指揮下の沿岸警備隊であり、KAL007便がソビエトのレーダーが追跡できなかった高度の1000フィートに降下したちょうど16分後の6:54分に極東軍管区の副司令官のストロゴフ将軍が決めた救出作戦を命じられた民間のトロール漁船であったと思われます。(物語のセクションのセクションの「破壊からの脱出」をご覧ください)
ソビエト太平洋艦隊司令官のウラジミール・バシリェビッチ・シデロフ提督のイズベスチヤ紙上で述べた発言を受けますと、小型漕艇は、KAL007便が着水(提督によれば「海面への衝突」。彼はなお海面には遺体は1体も無かったという事を主張している)した27分後にその場所にもう着いていたという事は本当だろうと思われるのです。その上、KAL007便の撃墜からちょうど2週間後に海底に沈んでいたKAL007便の中に入ったソビエトの潜水夫によるイズベスチヤへの報告によれば、1体の遺体も飛行機の中、また他の所にもなかったのです。(KAL007便、アメリカ第7艦隊、そして大ロシアの策略をご覧ください)そしてソビエトの当局者の主張によれば、「衝突」の場所の海面には1体の遺体も発見されなかったのです。(ソビエトが213足の探し出された履物 −KAL007便の269人の乗客の74パーセントに相当する − を返還したのにも関わらず! FAQ12の「ソビエト軍によって戻された乗客の所持品はどれも、乗客の救出に関係しているのですか? 靴についてはどうですか?」 をご覧ください。)

私たちの信念に反して、もしKAL007便の乗客と乗組員が救出されなく、拉致されてもいなく、そしてもし事実通り、海面で1体の遺体も見つからなく、またKAL007便の残骸があった海域の水面下でも見つからなかったとしたら、生き残った人たちがいたはずなのです。もしKAL007便の救命ボートにいなければ、衝突から1時間半以内にソビエトの「小型漕艇」が到着するまで、モネロン島沖の海面で漂流していたでしょう。この事は、次のサバイバルマニュアルのKAL007便が不時着水した朝のモネロン島沖の海面温度である華氏50度の海面で泳ぐ事ができ、または救命胴衣を着ていてまたは何かの漂流補助物を利用できる人の生存率によって下支えされています。

− 50分までなら−ほとんど100パーセントの生存率 
− 3時間半までなら−50パーセントの生存率
− 3時間半を超えると−加速度的に0パーセントの生存率まで落ちます。
(数値は共和党局員論文の中で参照されているサバイバルマニュアルの数値です)

ですが、海面にも海底にも生きている人のも死んだ人の遺体も見つかっていないのです。それではどこにKAL007便の人たちは行ったのでしょう?

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15.このホームページがFAQ10で取り組んでいる様に、もし本当にKAL007便で生存した子供達がソビエトの孤児院に送られたのなら、なぜ彼ら(もう成人している)の便りは私たちに届かないのですか?彼らには本当の両親とそれまで生活してきた事の記憶がないのですか?また、彼らは世の中にこの出来事を知ってもらいたくないのですか?
私(バート・シュロスバーグ)は時々、子供たちが成長した時の心の状態と幼い時の記憶の事、そして彼らが自分の不安と自分たちが本当は誰なのかという事を世界に伝えようとする時に、いつどのように彼らから聞けるのだろうと思っています。私は十分、まだ満足いくまで調査してきた訳ではありませんが、いくつかの光が見えてきていますし、それは概してイスラエル人のKAL007便の研究者で、1998年に亡くなったアブラハム・シフリンの働きに負うところが大きいのです。

アブラハム・シフリンは自分自身がアメリカとイスラエルのスパイとして逮捕されるまで、赤軍の少佐、黒海地域のクラスノダールの検察官として自分の許可の下、多くの人を矯正労働収容所に送ってきました。いくつかの矯正労働収容所と流刑地での長年の歳月の後、そしてソビエトの策略の詳細な知識を得た後に、彼は次の事柄を教えてくれました。

KAL007便には12歳以下の子供たちが22人乗っていました。1人1人が家族にとって大切であり、この数は統計値ですが、この人数は比較的、多いという訳ではありません。アブラハムは、外国の子供たちを捕えた時の(実際起こりましたが)ソ連の普通のやり方は、里親と同様に孤児院、他の施設で育てるために子供たちを彼らの身体的特徴をぼやけさせる目的であらゆる人種地域に分散させる事だと言いました。韓国人であり、日本人、中国人、フィリピン生まれであるKAL007便の子供たちのほとんどは、中国 −ソ連国境沿い− の「東洋人共和国」に送られたでしょう。そういう訳で、 KAL007便の子供たちはその外見においては目立つ事がなかったでしょう。

ですが、その事はKAL007便の子供たちが自由であった事を意味するものではありません。ソ連邦とロシア連邦において、少なくとも90年代後半までは部分的に閉鎖されていた村や町と同様に完全に閉鎖された都市があるという事実があったのです。初めの時期においてこれらの町と地域は、そこに住んでいる多数の住民が時として監視されなく出入りする希望を持つ事なく十分警護され、コントロールされていたのです。それゆえ今は成長した子供たちが世界に伝える多くの経験を有しているというのはあり得る事でしょう。ですがそうする手段がないのです。開かれた欧米に住んでいる私たちにとってこれら全てを認めるのは大変な事です。(私たちは閉鎖された、警護された「軍の制限地域」ならよく知っていますが、民間人の居住地域は制限されていないのです)しかしそのようにしてソ連には子供たちの拉致があったのです。KAL007便の子供たちの捕縛、拉致、その他に関連した特殊な状況のゆえに、子供たちが全ての他の捕まった人間とは隔離され、全員離されて生かされていたという可能性はあると言えます。

一番若い子供たちでさえ、もちろんわずかな希望と過去に関する不安をもっていたでしょうし、若ければ若い程、彼らにはより多くの自由が許されたと私は思うのです。もちろん拉致された子どもたちに関する新しい話が出てくる時もあるでしょうし、そして新しい生活も始まるでしょう。また時間が経てば経つほど彼らは今立ちはだかっているものに逆らう意欲もだんだんなくしていく事でしょう。

たぶん全世界が拉致に関して、自分たちからまたは他の誰からも聞く事なく、北朝鮮の「主人である」人質犯とともに新しい生活を始める様々な年齢の拉致された最近の日本人の例も、全体主義的である独裁政権が自分の弱く不利な面に関して利用する心理社会的なそして身体的な力に関してはあらゆる情報源から説明できるでしょう。

通常の心理学的な「沈黙機能」から学ぶべき事は沢山あります。幼児虐待の犠牲者が虐待した親を公表するのに十分なぐらい自由を感じるという事はほとんど無いのです。その分野において安全を感じないのです。私が長年ソーシャルワーカーであったので良くわかりますが、育児怠慢、幼児虐待の分野のソーシャルワーカーは、表面上は思いやりが無く恐ろしいと見える親と同じ程、また時にはそれ以上に「最愛の守られている親」を怪しいと思う傾向があります。年齢の若い子供が幼いときの記憶を突然話し始める時、話から消えてしまう多くの嫌な事柄があるでしょう。シフリンは − 彼らの意識性と環境における異なる成長を問わないで − 生存者は常に監視されていただろうと信じていました。

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このFAQはバート・シュロスバーグとベン・トーレイの手によるものです。

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Last modified: July 28, 2007

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