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http://teanotwar.seesaa.net/article/51922503.html から転載。
2007年08月19日
シリアに住むイラク人難民
イラクを逃れた人々が数百万人単位で難民となり、周辺諸国で暮らしています。シリアに住む難民のお話。
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シリアに住むイラク人難民
ロバード・S・エシェルマン
2007年8月18/19日
CounterPunch原文
「私は殺害脅迫を受け取りました」。26歳のアザルは、自分が昨年の4月にイラクを離れシリアのイラク人難民に加わった理由をこう語った。現在、シリアにいるイラク人難民の数は150万人にのぼっている。「イラクを離れるほかに選択肢はなかったのです」。
7月の午後、ダマスカス旧市街のクリスチャン街で、彼は困難な旅について話してくれた。ダマスカスに暮らすイラク人を探せば、アザルの経験よりももっと悲劇的な経験をした人を見つけるのは難しくないだろう。けれども、彼が話したことは、イラクのどこにでもある危険、イラクを離れたときに人々が経験する困難、そしてシリアでの不安定な暮らしを典型的に示している。
アルメニア系キリスト教徒であるアザルとその家族は、シーア派民兵とアルカーイダ風ジハード集団----彼は「テロリスト」と呼んでいた----から殺害脅迫を受け取った。家族はバグダードの50マイル西にあるカルディヤという小さな町に住み、エアコン修理店を四店営んでいた。そのうち二店舗は爆破された。それから、家族はリーフレットを受け取った。そのリーフレットには、三日以内に町を出なければ殺すと書かれていた。家を売ったり、持ち物を持って行ってはいけないと言われていた。「村のムジャヒディーンが出したものでないことはわかっていました。村のムジャヒディーンならば知り合いだったからです」と彼は言う。「彼らは、友達でした」。
カルディヤでは、キリスト教徒の家族はムスリムの家族とともに暮らし、シーア派とスンニ派もともに暮らしていたとアザルは話す。けれども、それは戦争前のことだった。今では、以前カルディヤに住んでいたキリスト教徒60家族のうち、町に留まっているのはおそらく2家族だろうと彼は言う。殺された人々もいた。ほとんどはイラクを離れたか、北のモスルに行った。モスルには大きなキリスト教徒のコミュニティがあるからである。けれども、モスルでも人々は標的とされた。
最近国連が発表した情報によると、難民として国連に登録しているイラク人のうちキリスト教徒が約20%を占めているという。けれども、イラクの人口全体にキリスト教徒が占める割合は3%である。
アザルは、アメリカ合州国にいたら、20代後半の流行を追う若者にしか見えないだろう。ピンクのカウボーイシャツを来てブルージーンズをはき、濃いほおひげを見せつけるスタイルの彼は、若い頃のニック・ケーヴに似ている。話しているあいだ、彼は片方の手でハーレー・ダビッドソンのベルトのバックルをいじり、もう片方の手でテーブルクロスの鍵を神経質にいじっていた。
「当時、勉強がとてもうまくいっていたので、町を離れるのはいやなものでした」と彼は言う。「父は、勉強を終えなくてもよいから早く町を離れるよう言いました」。アザルは家の近くの専門大学で会計学を学んでいた。あと1年足らずで卒業する予定だった。
彼は気の進まないまま父の助言に従い、二人の友人とともにカルディヤを離れた。シリア国境に行くGMCトラックに載せてもらうために一人100ドルを支払った。米軍が設置した道路封鎖のために、普通なら数時間で終わる旅は、18時間もかかった。国境で3人は国境警備員に賄賂を支払った。国境警備員たちは、イラクを離れる人々が増えるに連れて、絶対に連れ戻されたくないイラク人から法外の金を搾り取るという噂がある。
危険と強請、そして家族と離れることの困難にもかかわらず、アザルは国境に着いたときうれしかったと言う。「シリアに入ったときは身の安全を感じました。旅を生き延びられるかどうか心配していたからです」。
けれども、彼の安心感は新たな国で暮らす現実に直面してすぐに恐れと混乱にかわった。ダマスカスに着いた彼は、すぐに空調修繕士として登録した。けれども、2カ月働いたあと彼が受け取った賃金は、約束のわずか一部にすぎなかった。そのときを思い起こして、彼は「もうだめだ、未来はないと感じた」と語る。
今のアザルの仕事は、他のイラク人とくらべるとかなり良い。空調修繕の仕事を辞めてからすぐにウェイターの仕事が見つかった。シリアでは、法的には、イラク人は働くことが禁じられている。多くのイラク人が、持ち込んだ貯蓄を食いつぶして暮らしている。秘密に働く人々もいるが、差別と搾取が蔓延している。売春をするイラク人女性も増加している。けれども、アザルは同僚のシリア人と同じ賃金を受け取っている。レストランで自分が手にした状況は幸運だったと彼は言う。「ここでは他の皆と同じ扱いを受けています。けれども、他のところでは、イラク人の賃金はシリア人より安いのです」。レストランの所有者はアザルがイラク人だと知っているが、アザルは仕事中、シリア風発音で自分の身元を偽らなくてはならない。
他の多くの難民と同じように、アザルも別の国に定住しようとしている。彼はオーストラリア、そしてスウェーデンに難民申請を行なった。「すべての証拠とあらゆる文書を提出しましたが、却下されました」。オーストラリアは一カ月も経たずに不認可の連絡をしてきたという。姉がオーストラリアに住み、また身の危険がある証拠を提出したにもかかわらずである。「もう一度申請するつもりです」と言ったあと、彼は米国にも申請しようと思っていると短く付け加えた。
シリアにとどまらなくてはならないとすると、何をするのだろう? 「わかりません」とゆっくり言って、彼は頭を振った。けれどもイラクには戻らないと言う。「戻ったら、死が待っているだけです」。
会話が終わりかけたとき、アザルはもう一つ大切なことを言い忘れていたと述べた。彼にはガールフレンドがいて、モスルに住んでおり、結婚を望んでいた。「最後に彼女を会ったのは2年前です」と彼は言い、深く息をついた。長い沈黙のあと、彼はまた、テーブルクロスの上の鍵をいじり始めた。
ロバート・S・エシュルマンのメールはrobeshelman[ここに半角@マーク]riseup.net。
投稿者:益岡