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□イラク駐留米軍:狙撃兵の従軍拒否宣言 [暗いニュースリンク]
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2007/08/post_5e97.html
08/15/2007
イラク駐留米軍:狙撃兵の従軍拒否宣言
英国の医学雑誌LANCETに掲載された研究によれば、米軍のイラク侵攻以来、イラク国民の総犠牲者数は100万人に達しようとしている。
アフガニスタンではすでに419人の米兵が戦死した。イラクでの米軍戦死者数は3,666人、そのうち3%は自殺が占めているという。
英デイリーメール紙の試算によれば、イラク戦争の戦費は米軍・英軍合わせて1秒間に2,000ポンド(約47万円)以上のペースで増え続けている。
2008年度のアメリカ大統領選候補者のうち、ヒラリー、オバマはいずれも米軍のイラク駐留について“撤退”ではなく“中東再配備”を主張する。オバマは米国はパキスタンに単独攻撃を仕掛けるべきと主張し、ヒラリーは核攻撃も選択肢から外してはならないと発言して憚らない。民主党トップ集団にとって、どうやらブッシュ政権はソフト過ぎるらしい。
一方でイラク駐留米軍の即時全面撤退を支持するのは、民主党ではビル・リチャードソン候補、デニス・クシニッチ候補、そしてマイク・グラベル候補、共和党ではロン・ポール候補のわずか4人。悲しいことに、アメリカでは戦争を批判するとアウトサイダー扱いされてしまう。
ド根性大統領候補マイク・グラベルは「ベトナムでの米軍兵士の死は無駄ではない。兵士に謝罪せよ」という批判に応えて、こんなことを書いている:
「・・・南ベトナム陥落後、アジア全土に共産主義が拡大するという不吉な予測は実現しなかった。共産国であっても、アメリカ合衆国とベトナムは今や最も良好な貿易関係を築いている。ホーチミン市に行けば、バスキン・ロビンスのアイスクリームを買うことも出来る。
30年間もの無用な流血の結果、5万8,000人ものアメリカ人が殺害され、数万人が手足を失くし精神を病んで帰還した。自己を犠牲にして祖国に尽くした兵士達には敬意を表すべきだ。しかし、彼らの英雄的行動が戦争そのものの無益さを軽減したわけではないことも認識すべきである。現在、イラクで同じ過ちを繰り返すことで、我々は退役軍人や戦地の兵士たちに対して非常に酷い仕打ちをしている。なぜ我々が再び同じ過ちを繰り返しているのか問うてみるのは公正ではないのか?」
テレビに登場すれば怒鳴ってばかりのマイク・グラベルだが、しかし戦争に対する彼の主張は沈黙を通じてさえ広範に知らされるべきだと強く感じる。
過去の戦争を理解し反省するために、私達がすべきことはたくさんある。
現在の戦争を終結させるために、私達にできることはたくさんある。
未来の戦争を避けるために、私達にできることは必ずある。
混迷するイラクでは、米軍兵士による従軍拒否の声もよく聞かれるようになった。今回はある狙撃兵の物語を以下に翻訳して掲載。
私の経歴
VIP警護・狙撃兵から反戦への道程
by 陸軍州兵所属特技兵エレオネイ“エリ”イスラエル:2007年8月9日付Courage to Resist掲載文
2ヶ月前、私は人生を永遠に変える行動を起こした。1人の兵士として、連合軍訪問事務局警護員として、イラクで1年間従軍し250以上の戦闘任務を経験した陸軍狙撃兵として、私は占領軍の一員として従軍し続けることを拒否した。後悔はない。これは私の来歴だ。現在、クウェートでこの文を書いているが、うまくいけば今週中に米国に帰還するまでの“待機中”の身。先週、営倉から出され、今月中にも陸軍から除隊となる予定だ。これから『抵抗する勇気(Courage to Resist)』、『反戦イラク退役軍人会(Iraq Veterans Against the War)』などのイラク戦争反対運動陣営に加わるつもりだ。
人生の中で、私をここまで導いたのは何だったのか?
最初の入隊
1999年春、18歳になった月に、私は米国海兵隊に入隊した。
13歳以降、実の両親とほとんど会わないまま、私はケンタッキー州の保護監督下で育った。成育支援を得られなかった私は浮浪児となり、浮浪児らしく振舞った。
16歳になるまでに、私はドラッグの深みにはまった。9学年の前期以来学校に行かなかったので、あらゆる面で足りなかった私は、しかし生き抜くための知恵と、潜在的な野心と、強気の態度で生きていた。
新兵徴募所に入ってから、海兵隊に入隊するためには、一定の大学履修単位がない限り、高校卒業資格か一般教育修了検定が必要であることを知った。自分が16歳で、8学年しか修了していないと告げると、再度会うことも期待せずに、担当者達はすぐに私を退けた。
彼らは間違っていた。
私は一般教育修了検定に合格しただけでなく、地元の大学で一期を修了した。1年半経過して18歳になった1999年3月に、以前と同じ新兵徴募所に行き、以前と同じ担当者と話をして、一般教育修了検定証書と大学の成績書を見せながら、初めて真の誇りの感覚を感じた。
パリス・アイランド(海兵隊新兵訓練所)に到着して13週後、私は永遠に変わった。私は分隊長として栄えある昇進を果たして訓練を卒業し、海兵隊員として輝かしい経歴への道を順調に進んでいた。
そして、2001年9月11日を迎えた。
祖国のために再入隊
9/11以降多くの人々がそうしたように、私も再び兵役に就きたくなった。新兵訓練の年月の後、私は祖国に対し何かもっと多くの責任を負ったように感じていた。私は大統領や上官らが真実を伝えていると信じていた。自分自身も高潔であると信じていた。不道徳な行いや過ちに自ら進んで手を染めることは絶対ないと自認していた。
2004年に私は再入隊した。今度は陸軍州兵部隊だった。
その頃は、“世界規模のテロとの戦い”に従軍している者は、自分達のやっていることを信じて従軍していると思っていた−契約上の事情や、新兵不足のための留任で従軍を強制されているとは思いもしなかった。戦場を経験した後、今では私が間違っていたと感じている。2006年、私はイラクに派遣された。
イラクでは、私はJVB要員だった。連合軍訪問事務局(Joint Visitors Bureau)で、“中将以上の階級保持者”と“それに相当する文官”を警護するのが任務だ。副大統領、国防長官、統合参謀本部議長、それら階級に相当する“連合各国”の重要人物たちの警護も含まれた。私はそれら特別任務のための訓練をあらかじめ受けて、遠征の大半をそうした“世界規模のテロ戦争”に関わる重要人物たちの一団と共に過ごしてきた。
JVB要員であっても、基本的に私の任務は歩兵だった。JVBの仕事がないときは、“捜索と哨兵”任務や他の歩兵任務に動員された。したがって、JVB要員であっても、“陣地外”での様々な任務−“狙撃監視”や家宅捜査等の任務を負った小隊の狙撃兵として、当番にあたっていた。
任務の最中の活動については“自己防衛”の名の下に正当化されると判断していた。しかしながら、そうした見方は間違っていたと悟るようになった。私は占領する権利のない国に居て、人々の生活を脅かし、アメリカ人の場合なら住居や人々に対して求められるはずの威厳と敬意の基準もないまま活動していた。
殺人
私は“巻き添え被害”から家族を護ろうとした人々を殺害し、命を奪ってきた。イラクの少年らが“アル・カイダ”のような集団に加わるのは、米国の浮浪児たちが“Cribs”や“Bloods”のようなギャングに加わるのと同じだ。それは自己防衛のためであり、威厳のためであり、抵抗のためなのだ。
父親やいとこが我々によって“偶然”殺害され、戦車が近所を通るたびに母親や親戚が泣き叫ぶのを見てきた若者たちにとっては、オサマ・ビン・ラディンが誰であろうと知ったことじゃない。我々が攻撃する“民兵”は、政府を信用しない近所の武装監視集団と何の違いもない。我々も政府を信用できなかったが、権力を与えてしまった。
我々自身の犠牲は、彼ら同様悲惨だが(実に悲惨である)、イラク国民にもたらされた大虐殺の前では影をひそめてしまう。
イラクでの“成功”は、連合軍側の犠牲者の“減少”の問題ではない。我々が全社会に負わせた虐殺が終わり、威厳と主権が回復されたなら、それは成功だろう。
同盟軍兵士の10倍から20倍の割合でイラク国民は死亡し続けている。バグダッドだけでも、5年と9,500億ドル(約112兆683億円)を費やしてもなお、国民は電気と水道が数週間も一度に停止する事態に悩まされている。一方で、我々はしばしば戒厳令を布いて誰も脱出できなくしている。若いイラク人少年が憎悪に満ちた視線で私を見つめていた際、その瞳の中に自分を見たとき、私はもうこれ以上占領軍の役割を正当化できないと悟った。
この戦争の不正を遠方から見ることが出来て、勇気と信念をもって抵抗している兵士達が羨ましい。政治的野心に反して道徳的信念を重視しようとする兵士たちを批判する声もあるだろう。肝心なのは抵抗することだ。最初から兵隊にならない道を選択したにせよ、入隊してから必須基準の高潔さに欠けると悟ったにせよ、真実を悟った時が立ち上がる時なのだ。私にとってその時は、イラクでの1年間の戦闘任務が残り3週間になった時に訪れた。道徳的信条はタイミング知らずだ。
抵抗
私は指揮官に自分の考えを伝えた。最初の話し合いの時から物事がうまくすすまないことはわかっていた。私は上官に、我々がイラクに居ることは不法であると説明した。私はこれ以上この戦争政策を信じられないので、良心的参戦拒否を申請したいと話した。端的に言って、イラク国民に対する戦闘的役割に対して、私はもはや良心をもって加わることはできなかった。
私の口から言葉が出るとすぐ、人生は変わった。過去1年間味わったことのない平穏を心に感じた。自分が正しい決断をしたとすぐにわかった。しかしながら、私は強引に武装解除され、監禁され、家族とも弁護士とも面会を遮断された。
私は作戦室の小屋に違法に監禁され、24時間監視され、2週間後正式に命令拒否罪を宣告されるまで、トイレにも監視がついた。その後1週間は、罪を認めるまで(他に選択肢がなかった)監禁されたままだった。それからすぐにクウェートのアリファン基地に送致され、陸軍刑務所に30日間服役した。つい先日刑務所から出され、今の私は“名誉以外の”除隊にむけて“追放”される過程にある。後悔はない。
上官に信念を伝えてから、そして私が真剣で、脅迫しても無駄と彼らが悟ってから、彼らは“情報戦”になるのを見込んでいた。
私にはMySpaceや他のオンラインネットワークを通じて多くの反戦派の友人を得ており、彼らを通じて私が虐待された件が世間に知れ渡ることになり、その情報は文字通り一夜で世界中を巡った。それに気づく前、私は曹長のオフィスに呼ばれ、自分達の名前がネット中に知れ渡っていると怒鳴られ、罵られた。彼らは、自分達について何と言われているか−私に対する扱いが不公正で、私の良心的兵役拒否申請を拒絶している件−について否定しようとせず、ただ単純に暴露について怒っていた。
軍の反撃
次の日、私は自分がOPSEC(作戦保安上)懸案事項に“指定”されたと説明された。理由はなかった。彼らは敵意と“見せしめ”作りに夢中になって、私の評判と信頼性を没落させる方法を探っていたのだ。
彼らはニセの“相談報告”を数ページ偽造し、私の軍歴を過去に遡って信用失墜させようとした。そうした報告をした前歴がないという事実からそれら非難は虚偽性が明白だったので、彼らは嘘が“もっと必要”になった。
上官らは私のMySpaceアカウント、電子メールアカウント、その他全てのユーザー名とパスワードを繰り返し開示するよう要求した。拒否すれば“嫌疑が追加される”と脅迫された。
彼らは私の電子メール、ブログ、その他全てを読もうとしていた。何か見つけようとしていたのだ。私が機密を漏洩したような事実が見つけられないか彼らは必死で探していた。彼らは私に罪を着せ、可能な限り私の信頼性を損ねようとし、なんとかして私の違法な収監を正当化しようとしていた。
2週間後、私を“情報漏えい”で告訴できないと悟った彼らは、ようやく“一連の命令違反”で私を訴追した。それには戦闘任務への拒否だけでなく、“行進休めの姿勢をとらなかった”とか“任務に遅れた”とかの馬鹿げた嫌疑も含まれた。想像してみてほしい。
結局のところ上官は、もしも私がすぐに全ての罪で有罪を認め簡易軍事法廷に出廷するなら“減免してやる”と提案した。選択肢は明白だった。彼らに協力して、刑務所で30日間過ごして、人生を取り戻す。もしくは、それから2ヶ月間を極度に密閉された制限区域に戻され、機会あるごとに部隊の皆に“戦争に反対したらこういう目に会うからな”と見せしめにされるかのどちらかだ。
とりあえずは、彼らに勝ったと思わせてやるとしよう。
自由
やがて真実は明らかになり、誰もそれを隠すことはできない。イラク占領は大惨事だ。毎日それが続くにつれ、アメリカもイラク国民もより危険になると私は確信している。
戦争に異議を唱え、軍に抵抗したことは、疑う余地もなく私のこれまでの決意の中で最高のものだった。私は正しく抵抗し、ボーナスとして自由を取り戻した。もしかしたら今から10年後には、現在軍隊内部で抵抗する人々が、真実を話し行動した最初の人々として迎えられることになるかもしれない。今でも、たとえこの紛争の隅々まで知るアメリカ人の大半が簡単には納得していないとしても、私のような考えを持つ者は1人ではないと気づかせてくれる多くの仲間がいる。
真実を求めよう。そして立ち上がろう。
(以上)
イラク従軍拒否軍人への支援を行っている反戦団体:
Courage to Resist
Iraq Veterans Against the War