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日本軍に見捨てられた兵士【ソロモン諸島】
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投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 8 月 14 日 21:29:58: sypgvaaYz82Hc
 

日本軍に見捨てられた兵士【ソロモン諸島】
http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/solomon16.html

 43年2月1・4・7日の日本軍の撤退作戦については、既に何度も触れた。
アメリカ側がこの作戦を事前に知っていたかどうかという問題になると、意見が分かれてくる。
米軍が、日本のラジオ放送(『撤退ではなく転進という発表』)を聞き、半信半疑で部隊を進めて見ると、日本軍駐屯地は藻ぬけの殻だったなどの記録が残っているが、多くの方々の証言を元にすると、ある程度アメリカは知っていたと考えられる。
多くの兵士が、『わざと逃がしてくれたようだ。』という感想を漏らしている。
真相は無論謎であるが、アメリカの上層部は知っていたと考えるのが自然である。
それにしても、自力で動けない兵士は処分されている。
軍医による薬物の注射や、手榴弾による自決が強要された。
連絡の至らなかった兵士たちは、自動的にガダルカナルに置き去りにされることになる。
なんたる絶望的な状況であろうか。
置き去りにされた兵士たちは、どんな気持だったのであろうか。
置き去りにされた後、米軍捕虜になった兵士を見つけ出すことができた。
北海道旭川市在住の原田 昌冶(まさはる)氏である。


日本軍に見捨てられた兵士


 43年2月1・4・7日の日本軍の撤退作戦については、既に何度も触れた。
アメリカ側がこの作戦を事前に知っていたかどうかという問題になると、意見が分かれてくる。
米軍が、日本のラジオ放送(『撤退ではなく転進という発表』)を聞き、半信半疑で部隊を進めて見ると、日本軍駐屯地は藻ぬけの殻だったなどの記録が残っているが、多くの方々の証言を元にすると、ある程度アメリカは知っていたと考えられる。
多くの兵士が、『わざと逃がしてくれたようだ。』という感想を漏らしている。
真相は無論謎であるが、アメリカの上層部は知っていたと考えるのが自然である。
それにしても、自力で動けない兵士は処分されている。
軍医による薬物の注射や、手榴弾による自決が強要された。
連絡の至らなかった兵士たちは、自動的にガダルカナルに置き去りにされることになる。
なんたる絶望的な状況であろうか。
置き去りにされた兵士たちは、どんな気持だったのであろうか。
置き去りにされた後、米軍捕虜になった兵士を見つけ出すことができた。
北海道旭川市在住の原田 昌冶(まさはる)氏である。


▲原田 昌冶氏  1920年(大正9年)9月17日 旭川市東旭川生まれ。


原田氏は、第3中隊(丸山中尉)の兵士として、方川氏と同じ42年8月29日にタイボ岬に上陸し、川口支隊の総攻撃に参加する。
昼間は眠り、夜の行軍を続けている。
『歩きながら眠りましたね。 光る木の皮をそれぞれ衣服につけて、前を行く兵隊を見失わないようにしていました。』
九八式銃を改良した、九九式銃を手にしていた。
『銃身が短く、扱いやすくなっていました。脚も付いてました。』
ジャングルの中を、ひっそりと進む。
『銃には布を巻きつけて、カチャカチャと音がしないように進むんです。
途中、空き缶のついたひも細工にふれて、音が鳴りました。土人が逃げていきました。』
現地住民たちは、連合軍側の支援に動いていた。
川口支隊の右翼隊として、斎藤 清氏と同じような草原地帯で総攻撃に参加していく。
草原の入り口の荷物をおき、毒ガスマスクと乾パンだけを持って突撃する。
斎藤清氏とほぼ同じ体験をしながら、結局は後退することになる。
『周りの兵士が、どんどん死んで行きました。そのうち、夜が明けてきたんです。
ほふくして後退していく時は怖かったですね。
ひょいと振り返ると木の上に狙撃兵がいて、上からこっちを狙い撃ちしているんです。』
その後、アウステン山を迂回する『死の行軍』に参加していく。
途中で木の芽・木の根などで命をつないでいく。
ある日、谷川で魚を採っている兵士に出会った。
『手榴弾を川のよどみに投げ込んだところ、牛のようなものが浮いてきたんです。』
それはワニであった。これを小型スコップで殴り捕獲する。
串焼きにして食べたが、空っぽの胃袋にはシヨックだったらしく、その直後から激しい下痢に苦しめられる事となった。
しかし、貴重な淡白源は飯盒につめられた。
マタニカウ川河口の集結地に到着したあとも、下痢は続きマラリアも併発していく。
その直後の10月、第2師団の総攻撃が始まった。
この時も、いったんは『丸山道』を歩きかけてが、マラリアが悪化し水無川の野戦病院に収容されていく。

野戦病院とはいっても、勿論全ては自給自足である。
薬品なども、すでになかったのである。
その野戦病院も、後退を続け43年1月にはエスペランス附近にまで移動していた。
そして、運命の撤退作戦が始まった。
『1時間に3q歩けるものは、飯盒を持って集合。』の命令が下った。
原田氏の病状と飢えは、歩ける状態になかった。
『もし撤退だと分かっていたら、這ってでも行こうと思いましたが、分からなかったんです。』
2・3日経って騒々しかった海岸が妙に静かになったので、海岸まで這い出してみると、目の前の浜をアメリカの艦艇が悠然と進んでいる。
この時、日本軍に見捨てられた事を知った。
しかし原田氏は、幸運であった。
軍事機密保持のために『処分される』ことから、免れたのだから。
あたりには日本軍兵士は見当たらず、100メートルほどジャングルに入ったところに原住民の小屋を見つけた。
ここで、死を待つばかりの状態になった。
『となりに、同じ状態の秋田の兵隊も寝ていました。
日本軍が完全撤退したとは思っていませんでした、いつかまた反撃してくると思ってましたね。』
数日後、遅く上陸してきた比較的元気な日本兵3名も同じ小屋に住み着き始めた。
『彼等は、椰子ガニを捕ってきては煮て食べていました。私にはくれませんが・・・』
その調理の水煙が、結果的にアメリカ軍に発見されることとなる。
小屋のそばに小川があった。
身体は骸骨のごとく痩せ衰え、蛆(うじ)と汚物にまみれていた。
今日限りの命と悟り、最後は綺麗な小川の水に浸って死にたいと思った矢先、自動小銃の乱射を受ける。
元気な3名はさっさと逃亡したが、秋田出身の兵士は即死した。
暫くして米兵が5〜6人、小屋に入ってきた。
米兵は、寝ていた原田氏の胸倉を掴んで引き起こした。
その瞬間、原田氏は隠し持っていた木槌で一撃を米兵の顔面に加える。
その米兵は、銃の台座で原田氏の顔を殴打し、原田氏は気絶する。
『トラックなどに積み込まれたことなどは、なんとなく記憶していますが、米軍のキャンプにつれていかれ、気がつくと米軍兵士と一緒に寝かされていましたね。』
米軍兵士が、糞便にまみれた体を綺麗にするなど、親身の看護を継続してくれた。
原田氏を診察した軍医は、病状が悪化しすぎてもう何日も持たないと判断した。
原田氏を捕獲した海兵隊員のシェリーを通じて、『最後に、好きなものを食べさせなさい。』と伝えた。
それに対して原田氏は、
『思わず、カレーライスと答えてしまいましたね。 笑 』と、答えてしまったという。
しかし、カレーライスなど存在するはずもなく出てきたのは、オートミール。
それを一気に食べたので、再び激しい下痢に襲われる。
そしてまた、米軍は親身の看護を繰返した。
し尿で汚れる体を何度も、拭いてくれたという。
米軍キャンプでの療養生活は、1か月ほど続いた。
『いつかは、殺されると思っていましたし、いずれは自決しなければならないとも思っていました。
煮立った大ナベに、飛び込もうと考えたこともあります。
そしてとうとう、気が狂ったようになって、殺せ殺せとアメリカ兵にわめき散らしました。よし殺してやると、一斉に銃を向けられましたね。
その時、天皇陛下万歳と叫んでしまいましたね。
そのあとは、縛り付けられて気を失ってしまいました。』
2日間ほど、意識不明のような状態であった。
マラリアと衰弱、そして精神も不安定な状態のまま、船に乗せられニューカレドニアに移送される。
『その船に乗る時も必死でしたね。
体力が落ちて、船への縄梯子を登るのもようやくだったんです。』
ニューカレドニアでは、医療施設が整いマラリアの病状も回復してきた。
ここには、多くの日本軍捕虜が収容されていた。
『九州の人が、多かったと思います。』
この収容所では、捕虜の使役労働を巡って収容所側と巡洋艦『古鷹』(第3次ソロモン海戦で沈没)の乗組員たちが対立し、誤って50名近くが射殺されるという事件も起こっている。
43年6月、アメリカ本土へ移送されることとなった。
サンフランシスコの収容所である。
ここで、初めて本格的な取り調べを受けている。
捕虜になった将兵の大半は、偽名で階級もデタラメだったが、原田氏は一人ぼっちで極度に衰弱していたため、全てを正直に回答していた。
そんな原田氏に対して、アメリカ側は好感を持った。
北海道美幌町の教員だったことから、美幌に建設されていた飛行場のことを詰問されたが、一兵士が知る由もなかった。
次第に体力も回復し、野球などをして過ごしたという。
43年7月ころウイスコンシン州のマッコイ収容所に移送された。
本格的な収容所であり、真珠湾攻撃の特殊潜航艇乗組員酒巻和男少尉が日本人の代表として活躍していた。
酒巻氏は、日本人捕虜第一号である。
『彼は、流暢な英語で私たちのリーダーでした。
私たちの面倒も、よく見てくれました。
彼の存在は、私たちに誇りと勇気を与えてくれたんです。』
ここでは、労働も本格的になった。
簡単な林間作業だったが、きちんと報酬が支払われ、それで欲しいものが自由に買える仕組みになっていた。
『その労働チケットで酒も手に入るんです。網走や旭川の北海道出身者と出会い、酒盛りまでしました。笑
アメリカ人は、おおらかでしたね。
特別反日的な態度もありませんでした。
ソ連のような、思想教育などもいっさいなかったんです。』
45年12月には、カリフォルニアの収容所に移動となった。
ここでは、うって変って厳しい取り扱いが待っていた。
ウィスコンシンでは『交戦国待遇』であったが、今度は終戦となり『敗戦国待遇』へと変化が伴った。
綿つみ作業が強制され、それは『ノルマ』方式の厳しいものであった。
それは、食事の量・シャワーの使用などに反映された。
46年1月には、ハワイに移送された。
ここでは、帰国への準備が始まっていた。
多くの捕虜が集結し帰国を待っていた。
真珠湾攻撃で有名になったヒッカム飛行場で、炊事係り・洗濯などの仕事を割り当てられている。
「帰国まで、敗戦は信じられませんでした。
ハワイでも日系一世の人々が近づいてきて、日本は負けておらんと言うんですから・。』この年の12月に、浦賀に上陸し帰国を果たすこととなった。
『先に帰国した東川村の人が、家族に連絡してくれていました。
旭川の実家に戻りましたが、母親は既になくなっていましたし兄も戦死し、兄嫁だけが残っていました。
そうそう、自分も三年前に戦死したことになっており戸籍もなくなってました。
帰国する時は、それまでの労働賃金を日本円に替えて渡してくれました。
そのお金で、旭川まで戻ってこれたんです。』
その後教職にもどるが、捕虜であったことはなかなか他人に言えるものではなかった。
『やっぱり、捕虜は不名誉な事だと思っていたんですね。』
日本の戦時教育の恐ろしさは、ここにも見出せる。
原田氏が、体験を話すようになったのは近年のことと言う。
このような悲惨な戦争を二度と繰返してはならない。
そのためにも、自分の九死に一生を得た体験を後世の人々に伝えるべきであると痛感したからに外ならない。

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