★阿修羅♪ > 戦争94 > 491.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
*
通州事件(1937年7月29日)から70年が経ちました。
通州事件と言ふのは、今から70年前の今日、中国の北京郊外に
在る通州と言ふ小都市で起きた民間人の大虐殺事件です。
そう言ふと、皆さんの中には、日本軍による中国人虐殺か?と思ふ
方もおられるかも知れません。
しかし、この事件は、中国人の兵士達が、北京郊外の都市通州で、
当時そこに住んで居た日本の民間人を突然襲撃し、惨殺した事件
なのです。
「中国人が日本人を?」と思ふ方もおられるかも知れません。
戦後、戦争中の「虐殺」と言へば、「日本人が中国人を」と言ふ
話ばかり聞かされて来た多くの日本の市民にとって、戦前、中国
大陸で、日本の民間人が中国人に虐殺された話などと言ふのは、
聞いた事が無いと言ふ方が多いに違い無いからです。
私自身、その一人でした。若い頃から、学校や新聞によって、
あの戦争において、日本は中国に対して一方的に加害者であり、
中国は一方的に被害者であると教えられて来た私は、30歳を
過ぎるまで、この事件(通州事件)の名前すら知りませんでした。
この事件が起きたのは、北京郊外の盧溝橋で中国軍が
日本の合法的な駐留軍に対して、一方的に発砲したあの
盧溝橋事件からほぼ3週間が経った1937年7月29日の
事です。
当時、日本政府は、中国側の挑発に乗らず、盧溝橋事件を
収拾すべく、不拡大方針と呼ばれる方針を維持して居ました。
当然、日本と中華民国は、戦争状態には在りませんでした。
そして、当時、北京郊外のこの都市(通州)には、日本の民間
人が居住しましたが、その日本の民間人を、現地の中国人
保安隊が、突然、襲撃し、女性や子供を中心とするそれらの
人々を残酷な方法で、拷問、惨殺したのが、この通州事件と
呼ばれる悲劇だったのです。
事件の翌日、通州に居留する日本人が中国兵に襲撃
されたと知らされて通州に急行し、襲撃された日本人の
救出に当たった目撃者は、事件現場の惨状を、以下の
様に証言して居ます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の
惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。
『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査して
ゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切ら
れた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの
埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある
飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺され
てゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく
強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、
八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部
に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめて
ある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなか
つた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせ
てそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎに
して引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は
血で赤く染まつてゐたのを目撃した」
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の
東京裁判における証言)
「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に
向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に
抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半
身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡が
あつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が
散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つ
の屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重な
つて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きに
なつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が
横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた
跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の
やうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺され
てゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、
局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つ
たことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の
屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が
惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されて
ゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の
屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、
内臓が散乱してゐた。」
(桂鎮雄・支那駐屯第二連隊歩兵隊長代理(当時)
の東京裁判における証言)
「旭軒(飲食店)では四十から十七〜八歳までの女七、
八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺
されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺され
てゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体
は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、
血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二
連隊長(当時)の東京裁判における証言)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
犠牲者の多くは、朝鮮半島出身の日本国民で、
犠牲者数は、およそ270名に及んだとの事です。
(このサイトをお読み下さい)
↓
http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html
この事件は、戦後、殆ど全く語られる事無く、封印されて
来ました。しかし、当然の事ながら、当時の日本人は、この
事件に大変な衝撃を受けました。それでも、当時の日本
政府は、不拡大方針を守り続けたのですが、そうした姿勢は、
当時の中国人に、「日本人は何をされても反撃しない」と
言ふ印象を与えたのかも知れません。
戦後、盧溝橋事件の事だけが強調され、しかも、盧溝橋事件が
中国側からの攻撃であった事が語られない状況が続いて来た為に、
皆さんの多くは、あの戦争は、日本が一方的に中国を侵略した
戦争であったかの様に思ひこんでおられると思ひます。(私もそう
でした)しかし、真実はそうではなかったのです。真実を言ふなら、
盧溝橋事件はそのまま戦争に発展した訳ではなく、盧溝橋事件が
収束した直後に、北京郊外の通州で、この中国人による日本人の
大虐殺事件が起きたからこそ、そして、それに続いて上海で国民党軍
が、一方的に日本軍を攻撃したからこそ、日本と中国はあの不幸な
戦争に突入したのであって、日本が、一方的に、中国を侵略した
訳ではなかったのです。
通州事件については何も語らずに、あの時代、日本が中国に対して
一方的な「加害者」ででもあったかの様に語って来た「歴史」は、
本当に、公正な物だったのでしょうか?そして、その様な公正を
欠いた「歴史」から、真の友好と平和が生まれるのでしょうか?
2007年7月29日(日)
西岡昌紀
(参考サイト)
http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html
*