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2007.05.26
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シオニスト左派と右派の補完関係
Posted by :早尾貴紀
これは、前回のノート 「シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」 で、「シオニストの左派と右派には本質的な違いなどない」と書いたことを補足する文章です。
そもそもは、長編ドキュメンタリー映画 『ルート181』 のなかで一人の男性が話したことの背景を解読するために書いたのですが、前回の「リベラルなシオニズム」の問題にも関連しますので、以下に掲載します。
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北部編サリード近くで、戦闘機が低空飛行で基地に戻っていく下、夕暮れにジョギングするドイツ系のユダヤ人の男性が、シオニズムの歴史に触れる発言をする。彼はこう言っている。
「労働党の一部は新しい入植地政策に乗り気だった。キブツはもはや時代遅れで、占領地への入植者こそ真のシオニストだと支援した。その結果二派が混ざり合う。一方はメシア到来を目指す宗教シオニストのグッシュ・エムニーム。もう一方は労働党内の世俗派たちだ。」
この発言を理解するには多くの前提知識を要するため、何が言いたいのかがつかみにくい。彼が言いたいことは、端的に、「入植政策を支えたシオニスト政党であるという点では、左派も右派も違いはない。むしろ共犯関係にある」ということだ。世俗と宗教については、この男性のような単純な理解が一般化しているが、実際には、左派=世俗的、右派=宗教的というふうには割り切れない。だが、いわゆる、労働党=和平派=左、宗教党派=入植推進=右、という二系列の対立図式が、実は根本的な誤りであるという重要な事実を、この男性は指摘している。
労働党・左派の歴史
労働党は、70年代の右派連合のリクードの台頭以降、その差異化において、「和平推進派」とみなされる傾向があるが、実際のところ、パレスチナへのユダヤ人入植の主要な歴史を、後に労働党へと至り着くいわゆる「左派」が担ってきたことは、議論の余地のないところだ。それは建国前イギリス委任統治期のパレスチナから、現代に至るまで一貫している。
労働党の起源は、二〇世紀初頭のポアレイ・ツィオン(「シオンの労働者」)から、1930年に左派の連合体となるマパイ(「エレツ・イスラエル労働者党」)へという流れにある。ダヴィッド・ベングリオンは、長くその党派に君臨し、後にイスラエル建国の1948年初代首相となり、「建国の父」と呼ばれる。
イスラエルのユダヤ人国家としての建国の歴史は、映画『ルート181』が全編で示すように、そのままユダヤ人入植の歴史だ。パレスチナへの入植活動が、アラブ先住民のいるところへ行なわれる以上、それははじめから排除と占領の歴史であった。そうであれば、労働党の系譜がその本質において、入植地拡大を担ってきたのも当然のことである。
ところで、「入植地」という言葉は、いまではパレスチナ自治区の西岸地区にあるユダヤ人の街を指すが、もちろん歴史的には、19世紀末からのパレスチナへのユダヤ人の入植活動によってつくられた村や町を指す。その中には、共産主義的な共同体経営をしていた「キブツ」と呼ばれる入植村が含まれ、現在でも一部に存続している。キブツは、現在では数も減り実際の影響力は小さくなったが、かつての入植・建国運動の担い手として、いまでもイスラエルの建国精神のイデオロギー的支柱をなしている。映画の中に出てくる多くのキブツも、そうしてつくられた「入植地」の一部である。
そしてこの場面で、ジョギングをしていた男性が言っているのは、「現イスラエル領にあるキブツはもはや歴史的遺産であり、1967年の第三次中東戦争以降イスラエルの占領地となった西岸・ガザ地区への入植活動こそが真にシオニスト的である」と、労働党さえもみなしているということだ。実際、オスロ和平合意を結んだ労働党のイツハク・ラビン政権下でさえ占領地での入植地拡大が止まらなかったことは記憶しておくべきことである( LAW「オスロ合意から5年、継続する人権侵害に関する概要」 参照)。
リクード・右派の歴史
それに対する右派連合リクードを1973年に結成する「右派」の歴史は、実は、労働党の系譜と二人三脚をなすものであり、決して対立をするものではなかった。リクードの前身は建国前の過激派武装組織イルグンに遡り、思想的な祖はウラディミール・ジャボティンスキーとされる。イルグンは建国後(武装部門はイスラエル軍に統合され)、政党としてヘルート党を結成し、いくつかの右派政党と統合・分裂を繰り返しつつ、73年にアリエル・シャロンとも合流し現在のリクードとなる。77年に初めて与党となり、イルグン上がりのメナヘム・ベギンが首相となる。
ジャボティンスキーから受け継がれたシオニズム右派の思想とは、単純化すれば、先住パレスチナ人に対してであれ、イギリス委任統治当局に対してであれ、武力行使をためらわず恐怖と圧力を与え続けることでこそ、パレスチナの地(=エレツ・イスラエル)全土に、ユダヤ人国家が建設される、というものだ。大イスラエル主義であるのはもちろんのことだが、問題はその実現手段で、実力行使がすべてであり、武力行使も辞さないというところに特徴がある。その思想を体現したのが、イルグンという過激武装組織ということになり、リクードはその流れを汲んでいる。
左派と右派の(非)差異
「最大限の土地に最小限のパレスチナ人を」というスローガンにまとめられるシオニズム思想は、左派にも右派にも共通している。理想は、地中海からヨルダン川西岸まで、エレツ・イスラエル(イスラエルの土地)全土を手に入れ、そこからアラブ・パレスチナ人を一掃すること。それでこそ、完全なるユダヤ人国家が実現する。ただし現実にはさまざまな障壁があり、100パーセントの達成は難しいので、「最大限の土地に最小限のパレスチナ人を」ということになる。それが現実にどこで線引きされるかは、そのときの力関係に帰せられる。
もし左派と右派に違いがあるとすれば、その「力関係」を、左派は主に外交力に、右派は主に軍事力に求めた、ということになるだろう。左派=ベングリオン派は、土地所有と国家建設を国際社会に認めさせるには、欧米諸国との協力関係を保ち、その後ろ盾を得るのが最善であると考えた。もちろんパレスチナ人放逐のために武力行使も行なったが、あくまで国際社会の目を気にしつつ、獲得した土地の既成事実化を押し進めた。それに対して右派=ジャボティンスキー派は、公然と徹底した武装闘争を行なうことこそが、パレスチナ人に対して恐怖を与えパレスチナからの避難を促し、また委任統治当局や国連に対してユダヤ人側に有利な分割案を引き出させる圧力となると考えた。
このように、両者に差異があるとすれば、それはシオニストの目的達成の手段の力点を、外交に置くのか軍事に置くのかの違いにすぎなかった。そもそもが、左派と右派のあいだに、本質的な差異などなかったのだ。
グッシュ・エムニームについて
ジョギングをしている男性が言及した宗教シオニストのグッシュ・エムニームは、67年のパレスチナ全面占領以降に入植活動を始めた宗教的集団が74年に結成したもので、「信者の集団」という意味の団体だ。あくまでパレスチナ全土をユダヤ人が支配すべきであるという宗教的確信に基づく大イスラエル主義を掲げる入植者組織で、政治政党ではない。だが、グッシュ・エムニームが入植政策に与えた影響は、政党以上と言うべきだろう。
グッシュ・エムニームは、労働党であれリクードであれ時々の政権の許可を得ることなく、政府の制止を振り切ってまで、独自に入植地建設を強行していった。それが既成事実化し、政府が入植地を追認する、という過程がパターン化していった。グッシュ・エムニームは、67年以降、あるいは74年以降、一貫して大イスラエル主義の影響を、幅広く諸政党に与えていった。その実行力と影響力は、たんなる圧力団体を超えている。
そして、このグッシュ・エムニームの入植活動こそ、建国運動の中でかつては労働党の前身の労働シオニストらが実践していたものだった、ということも忘れてはならないだろう。
最後にもう一度、サリードでジョギングをしていた男性の言葉を反芻しよう。彼が短い言葉の中で何を言いたかったのかが見えてくることと思う。
「労働党の一部は新しい入植地政策に乗り気だった。キブツはもはや時代遅れで、占領地への入植者こそ真のシオニストだと支援した。その結果二派が混ざり合う。一方はメシア到来を目指す宗教シオニストのグッシュ・エムニーム。もう一方は労働党内の世俗派たちだ。」
パレスチナ情報センター
http://palestine-heiwa.org/note2/200705260740.htm