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2007.06.16
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イスラエルの新しい大統領と労働党党首が誕生――パレスチナ内閣崩壊の裏側で
Posted by :早尾貴紀
前のノート 「ハマスとファタハの抗争と連立内閣崩壊を言う前に――意図的な連立潰し」 で書いたように、パレスチナではハマス・ファタハ連立内閣が崩壊していくさなかにあるが、イスラエル政界では同時に新しい大統領と新しい労働党党首とが誕生した。しかし、「新しい」と言っても、実のところまったく新しくないどころか、「古さ」ばかりが感じられる選挙結果であった。
新大統領の名前は、シモン・ペレス。新労働党党首の名前は、エフード・バラク。この名前を並べただけで、いかにイスラエル政界に人材がいないのか、そしてイスラエル国民が変化を求めていないのかが、明白にわかる。
ペレス。この名前は、イスラエル国家の歴史とともに、つまりはパレスチナの破壊の歴史とともにある。彼は、「建国の父」初代首相ダヴィッド・ベン=グリオンに仕え、「パレスチナ人など存在しない」という発言で記憶されるゴルダ・メイル(メイア)首相に仕え、そしてオスロ合意とともに記憶されるイツハク・ラビン首相に仕えた(上記三人は、いずれもシオニズムの主流をなした労働党あるいはその前身マパイ所属)。またラビンの前後では自らも二期にわたって首相を務め、さらには、右派リクード党との連立内閣でイツハク・シャミールとも手を組み、リクードおよび 新党カディマ のアリエル・シャロンとも手を組んだ。
実のところ、イスラエル政治における大統領職は「名誉職」に近く、政治的実権は首相にある(ドイツの制度に近い)。ペレスとしては、本心では、シャロンが病に倒れた後は、再度労働党党首を務め首相になるという野心を保持していたが、前回党首選挙では、子飼いの アミール・ペレツ に敗れ、労働党を離れ新党カディマに合流し、シャロンや現オルメルト首相を支えた。そこでなおも党首・首相へとあくなき野望を持ち続けたが、人気の凋落はいかんともしがたく、ところが、年齢的にも引退だろうという頃に、前大統領モシェ・カツァヴがスキャンダルで失脚。建国期からメイン・ストリームを歩み続けてきた老兵ペレスに、最後の花を咲かせる格好のチャンスが巡ってきたのである。
ある意味、大統領が「国家の象徴」というのであれば、ペレスほどの適任者は他にいないだろう。オスロ合意の功績でラビンとともにノーベル平和賞を受賞している彼は、「和平派」という分類をされがちである。だが、上記経歴からも明らかなように、歴代のタカ派首相らに仕え、右派リクードと連立し、最後は自らシャロンのカディマに合流した。また、ペレス個人の「功績」としては、イスラエルの核開発に深く携わったことや、レバノンのパレスチナ人難民キャンプへの空爆・虐殺で知られる。そして、ここでは詳述しないが、彼が立役者となったオスロ合意こそが、むしろ現在のパレスチナ混迷の根本原因であるということは、もはや議論の余地のないことではないだろうか。
こうしたペレスの経歴に鑑みると、彼が労働党の和平推進論者であったとかではなく、右派も左派もないようなシオニズムのヌエ的性格を体現しているからこそ、彼は象徴的大統領にふさわしい。
( 「元労働党首シモン・ペレスの右傾化」 を参照)
エフード・バラクは、かつて労働党党首そして首相を務めた経験がある。ちょうどビンヤミン・ネタニヤフとアリエル・シャロンの二人のリクード政権に挟まれた時期の1999-2001年のことだ。
80年代以降はシーソーゲームのように政権交代を繰り返す労働党とリクード党は、和平派と反和平派のような報道がなされるが、実のところは狡猾な懐柔路線か露骨な強硬路線かの違いでしかなく、パレスチナの土地を最大限に収奪しユダヤ化を押し進めるというシオニズム思想を最大限に実現しようという点においては何ら変わりはない。
ともあれ、このシーソーゲームのなかで、ペレスを破った強硬派ネタニヤフを破り首相の座に就いたバラクではあったが、彼の任務の頂点であり挫折は、クリントン米大統領が強引に取りまとめようとした2000年夏のキャンプ・デービッド会談であった。クリントンが、バラク首相とアラファト大統領を缶詰にしてまで妥協を迫った和平合意案は、結局決裂し、この「和平の挫折」がその反動として直後の「極右的シャロン」の登場を準備することとなる。周知のように、シャロン(当時リクード党首)が2000年秋に、東エルサレムの旧市街内部、アルアクサー・モスクなどが同じ敷地にある「神殿の丘」を、挑発的に強硬訪問したことで、第二次インティファーダが勃発。それに乗じて翌年はじめの首相選挙でなし崩し的勝利を収め、さらに抵抗運動の鎮圧の名目でパレスチナの西岸地区を全面的に軍事支配下に収める。
この占領状況が現在まで続いているわけだが、その布石が、キャンプ・デービッド会談の決裂にあったことは、バラクの党首再任にあたって、思い起こしておくべきことだ。
詳述する余裕はないが、この2000年の会談は、決裂直後には、「バラク側が西岸とガザの95パーセントを譲歩したにもかかわらず、アラファト側が残り5パーセントを妥協しなかったから、決裂した」、「その5パーセントにこだわった結果、パレスチナは100パーセントを失った、バカだ」、ということがしきりに言われた。この「譲歩」や「妥協」という詐欺的なレトリックは広く浸透してしまったが、パレスチナ/イスラエルの歴史を見れば、パレスチナ側がイスラエル国家を承認することそれ自体がパレスチナにとっての「譲歩」であるにもかかわらず、それが完全にひっくり返されて、西岸・ガザ(の一部)にパレスチナ国家を認めることがイスラエル側にとっての「譲歩」であるかのように称されているのだ。
しかも、その「5パーセント」は単純な土地面積には換算できない意味をもつ。東エルサレムとその周囲のユダヤ人入植地、グリーンライン近くの主要入植地をイスラエル側に併合することを認めよという、合法性も正当性もない横暴な要求であった。強盗を容認せよとでも言うような要求を、その場で飲めとアラファトに迫ったクリントンもまた正気の沙汰ではなかったが。
ともあれ、新労働党党首バラクは、こういった経歴をもつ人物である。シャロンに敗れ、党首も辞した後も、折々において復活する政治的野望を隠さず、自らが首相たるべき人物であるかのような発言を繰り返してきた。
( 「バラク提案「さらなる撤退」の真意とは?」 参照)
今後のイスラエルの政局は、カディマ中心のオルメルト内閣の弱体化と、極右リクード・ネタニヤフの人気回復でもって、労働党・バラクと三つどもえの勢力争いになる。オルメルトの支持率低下が止まらなければ、ネタニヤフ対バラクという、1999年の反復にもなりうる。
このことは、逆に言えば、イスラエル社会がいかに変化をしていないかの証左であり、またバラクが党首になり、かりに首相になったとしても、パレスチナに対しては何ら明るい見通しは立たないということをすでに示している。
http://palestine-heiwa.org/note2/200706161313.htm