★阿修羅♪ > 戦争92 > 466.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
2007.05.25
編集
レバノン報道の裏側 「ファタハ・イスラム」って?
レバノンでパレスチナ難民キャンプに「ファタハ・イスラーム」という武装グループが立て籠もり、レバノン政府軍が戦車砲を交えた攻撃を行って、難民キャンプにも甚大な被害が出ているが、「アルカイダ系パレスチナ人」などとメディアに勝手に言われているこの武装グループには、ほとんどパレスチナ人がいないらしい。
簡単に報道されていることの裏側にはもっと問題があることを、レバノン出身の中東政治学者であり、ブログ Angry Arab News Service の制作者である、アサド・アブハリル教授がインタビューで語っているので、そこから抜粋してみたい。
「ファタハ・イスラーム」はパレスチナ人組織じゃない
アブハリル教授がこの武装グループを最初に知ったのは昨年の遅くのこと。シリア軍撤退以来、北レバノンには多くの小さな過激武装グループが生まれていて、その中のいくつかには暗殺されたハリーリ首相の派閥が資金援助していると政府はこぼしていた。そのようなグループのメンバーが「ファタハ・イスラーム」に参加しているという。
「ファタハ・イスラームは明らかにパレスチナ人組織ではありません。少なくてもほとんどがパレスチナ人ではないのです。指導者たちのインタビューやここ数ヶ月の印刷物でこの組織のイデオロギーの形が理解できました。彼らはスンニー派の過激原理主義者で、その大げさな原理的目標というのは、イスラーム原理主義の周縁の周縁にアピールするというものです。アルカイダとのつながりは否定していますが、自分たち自身、同じレトリックを使い、親しくはないとしても、アルカイダへのシンパシーを隠していません」
[これによると、日本のテレビ局が使った「アルカイダ系パレスチナ人組織」は誤りと誇張に満ちていたと言える。どちらかというと、「アルカイダに憧れて」活動していると言ってもよさそうだ]
アブハリル教授は、このグループのメンバーの何人かはハリーリ元首相の後押しによる恩赦で刑務所から出たという。そして、後に「ファタハ・イスラーム」に参加した。
それにしても、どうしてこのグループがパレスチナ難民キャンプに入り込んだのだろう?
インタビューでは「ナハル・アルバレド難民キャンプから避難してきた人たちが、ファタハ・イスラームは昨年からキャンプに入り込み、他の難民たちとは接触を持たずに、まったく分かれていたと言っている。せいぜい、喫煙や音楽に文句をつけてくる位だった、と。難民たちの証言で注目すべきことのひとつは、キャンプはすべての出入り口でレバノン軍に監視されていたことで、難民のひとりは彼らが空から降りてきたわけでもないだろうに、どうやってキャンプ内に入り込めたのだろうかと言っている。これにどう答えますか?」と質問している。
それに対し、アブハリル教授は、
「これらの人たちすべてが、どうやってレバノンにやって来たのかも非常に怪しいと私は考えています。すべてが示しているのは、彼らがレバノンに合法的にやってきたということです。……彼らはパスポートを持ち、レバノン治安部隊と軍が管理しているキャンプの出入り口コントロールを通過しているのです。すべての難民キャンプはレバノン軍が監視しているにもかかわらず。
23日のアルアラビアテレビでのインタビューで、レバノン国防相のイリヤス・ムラーは、闘いで殺されたメンバーにパレスチナ人とわかる者がひとりもいなかったと発言しています。国防相が言ったのは、ほとんどがレバノン人、また、サウジ、イエメン、アルジェリア、チュニジア、モロッコなどから来た人たちでした。」
というわけで、何らかの意図があって、このグループは「正式に」または「公的に」、普段は外来者の訪問を厳しく制限している難民キャンプに招き入れられていたということになる。しかも、国外からのメンバーも多数いた。
何が事件の引き金になったか
アブハリル教授によると、ハリーリ首相が暗殺された後、ハリーリ・ファミリーはレバノン国内の国家治安組織や諜報機関を信じられず、米国、サウジ、ヨルダン、UAEなどのサポート(資金も含めて)を受けて、自らがレバノンの法律では埒外となる準軍組織や諜報機関を創設した。これらはほかの機関を押しのけ、レバノンで最も重要な治安、諜報部隊となっていた。
ナハル・アルバレドでの交戦が始まる前日、ハリーリ側の新聞「アル・ムスタクバル」は一面でトリポリの銀行強盗を扱った。この新聞は犯人がファタハ・イスラームだとも書いていた。
「こうひとは訊くことができますね。もし、誰が銀行強盗をやったかわかっているなら、なぜ当局はそれらを追跡し、捕まえないのだと?」
とアブハリル教授。[銀行強盗の話は報道されていたが、かなり眉唾な可能性がある]
アブハリル教授が入手したレポートによると、ハリーリの治安部隊はファタハ・イスラームがトリポリに持っているアパートメントに大がかりな急襲をかけようと計画し、レバノン人に印象づけようとハリーリTV局も同行した。ところが、その急襲はファタハ・イスラーム側の反撃に遭い、圧倒されて失敗に終わってしまった。このことからレバノン軍が呼び出されたという。
キャンプへの攻撃について、他の党派はどう反応したか
「レバノンでの反応が、個人のレベルでは、この事件の最もつらい要素のひとつでした。……たった一つの政党でさえ、レバノンではナハル・アルバレド難民キャンプへの無差別な攻撃に反対しませんでした。まったく、ひとつも。ヒズボッラーは軍を支援する立場を取りました。レバノン共産党も、他の団体も。……」
この点においては、クリスチャン政党でも変わらなかった。複雑に政党と宗教とが絡み合い、対立があらゆるところにあるレバノン政治のなかで、こんなにも各派が一致したことは珍しいだろう。
[それほどまでに、パレスチナ難民のことはどうでもいいことになっている。パレスチナ難民キャンプだったからこそ、軍は砲弾まで使うような大がかりな攻撃を行えた]
アブハリル教授はこうなった理由をレバノン軍の失地回復が絡んでいると挙げている。
昨年の夏にイスラエル軍に大いに叩かれ、何もできなかったレバノン軍は志気と威信の低下に苦しんできた。
「レバノンの統一的なシンボルがなくなっていたからなのです。人々はたえずはっきりとさせたいのです。つまり「シンボルは軍だ」と。フンムスなどの食べ物ではいけないのです。もっと堅固なもの。それでレバノン軍へのサポートにみな走ったのだと思います」
「第二には、ここには一般的な民族差別の態度があります。パレスチナ人に対する古典的な差別ですね。このことは、勇敢なレバノンのコラムニスト、ハリード・サギーヤが「アル・アクバル」に書きました。そういうわけで、多くの人々にとってはパレスチナ難民キャンプを無差別に攻撃することが容易に容認できたのでしょう」
それは初めてのことではないとアブハリル教授は言う。ヨルダンでの黒い9月事件、レバノンでも政府軍や民兵組織が難民キャンプを攻撃してきた。73年にはパレスチナ難民キャンプはレバノン軍の空爆も受けたと教授は語る。
「これには長い記録があるのです。レバノン軍は無抵抗のパレスチナ難民を相手にしたときにだけしか、その筋肉を見せないのです。
もちろん、[今回は]ファタハ・イスラームがいました。しかし、これは小さな狂信的グループで、治安の問題として扱うことができるものです。イスラエル軍が攻撃をしていた昨夏にはどこにいたかもわからないレバノン軍の重火器などは必要とされていない問題です。」
「レバノン政府はキャンプの住人をターゲットにしたわけではないと言うのでは?」という質問に、アブハリル教授はこう答えている。
「皮肉なことに、それはそうなのです。政府はみなそういいますね。レバノン政府はイスラエルが西岸やガザの難民キャンプを爆撃したときと同じ言葉を使っています。それは米国がアフガニスタンやイラクで言うこととも同じです。いわく『連中は民間人の背後に隠れている。民間人を人間の盾にしているのだ。民間人を撃ったのは誤爆であって、軍は民間人のことを気遣っている』。付帯的ダメージについてのすべての宣伝は政府によってなされるのです。」
パレスチナは地域的にも国際的にも弱く、アラブ連盟さえ、パレスチナ人をサポートせずに、今回の攻撃に満足していると述べていることを教授は付け足している。
米国の役割
インタビューは、米国がこの事件に関与しているかという話題に及んだ。というのは、レバノン政府が銃弾や軍用品を含んだ軍事支援を米国に求めているからだ[*これは米国が認めて、25日(金)から早急な支援が始められるという]。
アブハリル教授は、たしかにここには高圧的な米国の役割があると語る。数週間前、デビッド・ウェルチ米国務次官補(近東担当)がレバノンを訪問し、レバノン軍の総指揮官と前例のない形で会ったという。これはかつてなかったことで、誰も何が語られたかはわからないが、政府に忠実なメディアでさえも、この会談が前例がないと書いていた。
米国に対する緊急軍事支援の要求もレバノン政府はそのことを否定したり、取り下げたりした。この裏にあることを考えるには、中東の地図を見て、互いにかなり関わり合っていることまで視野に入れないといけないと教授は言う。
(とりあえず アップ 続きは後で)
p-naviinfo
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200705252114.htm