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http://www.geocities.jp/riverbendblog/0611.html から転載。
Baghdad Burning
バグダードバーニング by リバーベンド
... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...
友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。
2007年4月26日 木曜日
万里の長城−隔離壁…
…現イラク政府が(アメリカ人の援助指導で)建設している壁のことだ。今やバグダードでの最大の「スンニ」地区とみなされている地域を分離し孤立させようと建設されている壁だ。−アメリカ人が何も築き上げていないとは誰にもいわせない。イラクの操り人形たちとアメリカ人たちがでっちあげたプランによれば、それはアーダミーヤ(現在のイラク政府と彼らの殺し屋集団がスンニ派イスラームを根絶やしにできなかった住宅・商業地域)を「保護」するのだそうだ。
もちろん、その壁は誰をも保護などしない。 私は時々、ヨーロッパで強制収容所が始まる時もこんなだったのではないかと思う。 ナチ政府はおそらくこう言っただろう「いいかい、私たちはこの小さな壁でユダヤ人たちを保護しようとしているだけなんだよ。これで、誰もこの特別地域に入って彼らに危害を加えることはできなくなるだろう!」と。 しかし、それはまた、そこから出られなくなるということでもある。
この壁はイラクの社会をもっと滅茶苦茶に壊すための最新の取り組みだ。 内戦を促進し、支えるだけでは十分ではなくなってきたようね。イラク人は、ムッラー(訳者注1)、アヤトラ(訳者注2)、およびヴィシーのリーダー(訳者注3)よりしぶとく骨があるということがほぼ証明された。壁が崩壊する前のベルリンや現在のパレスチナのように、今こそアメリカにとっては、物理的に分割して征服する時になった。このようにして、彼らは、「シーア派地区」からスンニ派を、「スンニ派地区」からシーア派を追い出し続けることができるというわけだ。
(訳者注1:イスラーム知識人への尊称)
(訳者注2:12イマーム派のイスラーム緒学を修めた知識人への尊称)(訳者注3:第二次世界大戦時にナチスドイツに協力したフランス政権。ここではイラクの傀儡政権のことを喩えている)
私は、イラク人の戦争支持者たちがいつも外国の首都のテレビでインタビューされるのを聞く(彼らは外国の首都という安全なところからでしかテレビに出ることができない。なぜって、誰かイラク国内で戦争支持であることをおおっぴらにしてみればわかることだわ)。 彼らは、彼らの宗教的に偏向した派閥政党がこのスンニ・シーアの抗争を煽っているということを信じようとしていない。この状況が戦争と占領によって起こされた直接の結果であることを彼らは認めようとしない。彼らはイラクの歴史についてべらべらとしゃべり、まことしやかにスンニとシーアがいつも争いあってきたかのように説明しているけれど、私にはそれが許せない。祖国を捨てて何十年もたつ一握りの国外居住者が、イラクに実際に住んでいる人々よりずっと知っているふりをしていることに、私は我慢ならない。
私は、戦争の前の、どこにでも住むことのできたバグダードを覚えている。隣人が何であるかなんて、知らなかったし、そんなこと誰も気にしなかった。誰も宗教や宗派について尋ねることはなかった。あなたはスンニかシーアかなどという、つまらない話題に誰も煩わされることなどなかった。そりゃ礼儀知らずで、時代錯誤なひとだったら尋ねたかもしれないけど。 でも、私たちの生命は現在そんなつまらないことに振り回されている。 私たちの生存は、尋問で止めたり、夜中に家捜ししたりする覆面の男たちのグループによって、それを隠したり、はっきりさせたりすることで決まってしまうのだ。
私的なことについてだけど、私たちはついに立ち退くことに決めた。今にしてみれば、私たちがしばらく離れることになるだろうと、私にはうすうすわかってはいた。 私たちは家族で何十回もそれについて議論した。 初めのころ、誰かがいつもおずおずとその話題を持ち出したものだった。なぜなら自分の家や親類縁者から離れて祖国から去っていくなんていうことは、全くばかげた考えだったから−何をしに?どこへ?
去年の夏以来、私たちはそのことについて議論し続けてきた。提案されたことが、すぐに具体的な計画に固まっていくのは時間の問題に過ぎなかった。 ここ2、3カ月、それはもう手段の問題になっていた。 飛行機か車か?ヨルダンかシリアか?家族みんなで去るのか? または、まずは最初に私たち姉弟だけいくのか?
ヨルダンかシリアの後はどこへ? どちらかの国に入れたとしても、そこはどこか他のところへ行くための通過点にしかならないのはわかりきっている。どちらもイラク難民であふれているし、彼らは口を揃えて、仕事を得るのが難しいこと、居住権を手に入れるのはもっと難しいことを訴えている。 また、国境で追い返されるという「ちょっとした」問題もある。 何千というイラク人がシリアやヨルダンに入れてもらえていない、そして入国のための明確な基準もなく、決定はパスポートをチェックする国境警備隊の気まぐれに委ねられている。
飛行機が必ずしも安全というわけではない。バグダード国際空港への旅自体が危険だし、飛行機でシリアやヨルダンに到着しても入国が許可されないかもしれない。なぜシリアかヨルダンなのかと思われるかもしれないけど、ビザなしでイラク人を受け入れてくれるのはこの2つの国しかないからだ。バグダードで機能しているわずかな大使館や領事館に、ビザ発給を求めることは不可能以前の話だ。
それで、私たちは忙しくしている。 私たちの人生のどの部分を後に残すかを決めようとすることに忙しくしている。 どの思い出がなくても済むのか? 多くのイラク人と同じく私たちは、着るものだけ背負って他に選択の余地がないような典型的な難民ではない。私たちが去ることを選択しようとしているのは、他の選択、つまり、ここに留まり、待ち続け、生き抜くことが、まさしく長い悪夢の継続にほかならないからだ。
一方で、国を去ってまだどこかわからないところで新しい生活を始めることはとても大変なことなのだから、小さな関心事などどうでもよくなってしまうだろうということは、私はわかってはいるのだけれど。 おかしいのは、私たちの生活はどうやら些細なことに占められているように見えること。 私たちは、写真アルバムを持っていくかどうかを議論している。 4歳の時から持っている私のぬいぐるみを持っていってもよいかしら? 弟Eのギターの余地はある?どんな服を持っていく? 夏服? 冬服も? 私の本については? CDや赤ちゃんの写真についてはどうかしら?
問題は、私たちはこれらの物を再び見ることができるのかどうかわからないということだ。家を含めて私たちが残すもの何でもが、いつか、もし帰って来たとき利用可能なのかどうかわからない。 ばかものが侵略しようと思いついたという、ただそれだけのために、国を去らなければならなくなるほどの不正義が、すべてを飲み込んでしまう時もあるのだ。私たちが、生き残って普通の生活をするために、家や、家族の生活の痕跡や友人を後にしなくてはならないなんて不公平だわ・・・そして何に向かって?
自動車爆弾と私兵集団か、それとも、確実なものが何もない未来のどことも知れない場所に、なじみ愛しているものすべてを捨てて去っていくか、どちらがより怖しいかを判断するのはむずかしい。
午後5時03分 リバー
(翻訳:ヤスミン植月千春)