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□フランコ体制の遺産に向き合うサパテロ政権 [ル・モンド・ディプロマティーク]
http://www.diplo.jp/articles07/0703-2.html
フランコ体制の遺産に向き合うサパテロ政権
ホセ=マニュエル・ファハルド(Jose Manuel Fajardo)
ジャーナリスト・作家
訳・阿部幸
2004年4月15日に社会主義労働者党(PSOE)のサパテロ内閣が発足してから、ほぼ3年が経つ。ところが現在のスペインの政情は、なにやら不可解な展開になっている。右派野党の国民党(PP)が、この世の終わりであるかのごとく、スペインは「存亡の瀬戸際」にあると言い立てているのだ。
2006年12月30日、マドリッドのバラハス空港でバスク分離主義勢力ETA(バスク祖国と自由)による爆破事件が起こり、逃げ遅れた2名が死亡した。このときまで、テロ攻撃はほぼ3年にわたり止んでいた。近年では最も長期間である。暴力を終わらせるため、政府がETAとの対話の再開(1)に踏み切っていたからだ(2)。さらに、汚職対策が効果を上げ、経済成長率は高く、失業率は1979年以来最低の水準にあった。これらの要素からすれば、スペインの政情は安定してしかるべきだった。
ところが現状はどうかといえば、国民党は政府がテロ活動を助長し、テロの被害者を裏切ったと糾弾している。また、社会主義労働者党がETAやイスラム・テロ勢力と組んで陰謀を企てた、その目的は2004年3月の議会選挙で右派の勝利を妨げることにほかならない、といって非難する。国民党は、サパテロ首相という指導者の信頼を失わせようと激しいキャンペーンを張り、攻撃姿勢を強めている。現在の事態は、スペインに見られがちな政治的駆け引きにとどまるものではなさそうだ。スペイン政治を根本から揺るがすような変化が、どうやら進行しているのだ。
スペインの民主制は、1939-75年の長期にわたったフランコ独裁体制に連なる政治勢力と、それに敵対していた勢力の間の協約によって誕生した。1977年に築かれた憲法の枠組みは、暴力や復讐を阻止するために、政治的な志向の異なる勢力が共存できるよう配慮したものだった。独裁体制に加担し、罪を犯した者たちが、追及されることはなかった。何千人もの人間が拷問にかけられ、投獄され、あるいは亡命を迫られ、何万人もの政治犯が処刑された抑圧の時代は、40年近くに及ぶ。にもかかわらず、あの数々の乱行、苦しみ、そして死者の群れの責任を引き受ける者が、誰ひとりいなかったのである。
傷口はいつか癒えるものだという期待のもとに、記憶は凍結された。記憶の見張り役になったのは、フランコ時代に活動し、民主的政府の成立後も軍と警察の一翼を担った最も保守的な勢力である。1975-82年の体制移行とは、何であったのか。1936-39年の内戦に敗れた共和派は、内戦で勝利したフランコ派に罪の責任をとらせることを一切断念し、フランコ派はそれと引き換えに、共和派を迫害することを止めた。それが体制移行の実態だったといってよい。このときになされた過去の歴史的事実の否認にこそ、今日の政治危機の原因がある。
フランコ時代の罪を問わずという両者の協約が、民主制を発足させた。だが、植民地帝国が崩壊した1898年以来スペインが抱えつづけ、このときも解決されなかった問題がある。それは、スペインが国家として最終的にどのような形態をとるのかという問題である。
1931-39年のスペイン第二共和制下では、カタルーニャとバスクに自治権が認められ、連邦制の近代スペイン国家に向けた第一歩となる。しかし内戦が起こり、ファシズムが勝利を収めると、両地域の自治権は廃止される。スペインの統一に固執し、カタルーニャとバスクの文化を弾圧したフランコ将軍の独裁時代を通じて、状況はますます悪化した。
次いで1978年憲法が制定されることになるが、バスクの民族主義勢力はこれを拒絶した。そこには、右派が両地域に付与する覚悟を決めた最大限の自治権が規定されていた(3)。しかし民族主義勢力の見るところでは、その規定は自己統治という野心的な展望に向けた微々たる一歩にすぎなかった。彼らの最急進派は、さらに独立まで視野に入れていた。この時期のスペインは、軍事クーデタの懸念が絶えない状況下にあった(後の1981年2月に実際に起こったが、失敗に終わる)ため、スペイン民主体制内における地方の自治権を最小限に抑えた規定のまま、新憲法が成立することになる。
独裁体制の幹部層の責任は追及されず、かつての圧制者は警察と軍の内部に残留し、創設されたのは粗末な自治権にすぎなかった。そうした状況下で、一部とはいえ相当数のバスク人には、民主制といっても薄めた独裁体制のようなものにしか見えなかった。それが、フランコ時代に生まれ、民主化以降のテロ事件のほとんどの背景にいるETAの活動継続の一因である。ETAの暴力行為を引き起こしたもう一つの原因は、1976年から87年の「汚い戦争」だ。民主化から間もない時期の政府では、右派政権であれ左派政権であれ、反テロリスト解放グループ(GAL)も含めた国家治安要員が、ETAのメンバーの逮捕、拷問、殺害を繰り返していたのだ。
三つの改革
独裁体制の罪が問われず、テロの暴力が続き、自治権の最終形態をめぐる論争が国家機関の内部で続いているという現状は、フランコ時代に由来する政治問題の表出にほかならない。過去30年のスペイン政治は、これらの問題によって大きく規定されてきた。そして現在、内戦を体験した世代が去りつつあり、ETAの組織が弱体化したというタイミングで、解決策を模索しているのがサパテロ政権なのだ。右派が怒っているのは、サパテロがフランコ体制の残した時限爆弾の解除を図っているからだ。
現在の国民党の姿勢を見れば、この右派政党が今なお感情的、イデオロギー的に、往時の独裁体制と結びついていることがよく分かる。国民党は、フランコ体制に対する非難をいまだに受け入れずにいる。しかしながら、最も合理的と考えられる道は、スペイン民主制の正常化へと進むこと、つまり地方の自己統治の発展に向けて国家が全面的な支援態勢をとることだ。そうすれば、暴力は消えていくだろう。そして記憶と尊厳が、チリやアルゼンチンの独裁体制の犠牲になった者ばかりでなく、フランコ体制の犠牲になったスペイン人についても守られるようになるだろう。
カトリックによる公衆道徳の独占(フランコ体制のもう一つの遺産)の解消や、同性愛者の権利の平等に加えて、サパテロ政権が取り組んできた以下の三つの改革も、このような方向を目指すものである。第一は、現行の国家体制の枠内で地方の地位を向上させるよう、自治制度の近代化を図っていることだ。その目的は、バスクとカタルーニャの民族主義勢力の要求のほとんどを満たすことにより、強制ではなく自発的な政治的結合に基づいたスペインの統一を強化することにある。
第二に、ETAが2006年3月22日に「恒久的な停戦」を宣言したことで、和平交渉の道が開け、暴力に終止符を打つことができるのではないかとの期待が生まれている。第三は、「歴史的記憶法」案の策定である。この法律が目指すのは、フランコ時代の圧制者たちを法廷に召喚することではない。フランコ時代の判決に関する無効宣言や、身元の確認されないまま集団埋葬地に置かれた共和派の遺体の発掘を通じて、しかるべき尊厳を被害者たちに取り戻させることである。
これらの目標の達成に向け、サパテロ首相は社会主義労働者党のほか、統一左翼とカタルーニャ左翼共和派の支持を固めてきた。また、議案によってはバスク国民党(PNV)やカタルーニャ同盟(CIU)の支持も取りつけた。有権者の比率でいうと国民党の議席が37%であるのに対し、サパテロは57%の支持を集めている。しかしながら、国民党はサパテロの施策への参加を拒否するだけでは飽き足らず、司法府総評議会のような一部の国家機関ではアスナール前首相に任命された保守派が現在でも多数を占めるのをいいことに、妨害やボイコットを行ってきた。
三つの改革の成果には、現時点では大きな差がある。「歴史的記憶法」案は、修正に次ぐ修正が続いている。右派は法案にまるごと反対であり、統一左翼とカタルーニャ左翼共和派は物足りないと考えた。カタルーニャ州の地位に関しては、右派による妨害にもかかわらず、他の地域の制度改革の手本となるような改革が実現された。一方バスク州の地位の改革は、2006年12月30日の殺人テロ事件以来、和平交渉が膠着したことで止まっている。政府はテロの脅威を過小評価していた。和平交渉の膠着は、政府の力を弱め、右派を利す結果となっている。
国民党の過剰な反対は逆説的にも、次の選挙での社会主義労働者党の勝機を高めるばかりである。2007年1月15日の議会での討論はそのいい例だ。野党の最大勢力が政争の具として、テロ対策について一席ぶったのは、スペイン民政史上前代未聞のことだった。国民党のラホイ党首は、サパテロに対して異様に攻撃的な態度を見せた。その結果、次の選挙で社会主義労働者党を支持するという有権者が増えた。有権者は過激な姿勢に不信感を抱いているということだ。
国民党指導部は、2004年3月の社会主義労働者党の勝利以来、主張を先鋭化させている。右派は政府がETAとの和平交渉に失敗し、サパテロは指導力がなく国の治安にとって危険だというイメージが広がって(右派はそうしたイメージの流布に努めている)、有権者が保守派に戻ってくることを期待している。そこで国民党の幹部たちがとっている姿勢、語っている言葉は、どんどん極右に近づいていく。それは次の選挙には不利に働く。
最右翼のイデオロギーの盛り返し
原因はといえば、国民党の指導部が無能であるからだ。スペインをイラク戦争に巻き込んだのも(4)、2004年3月11日にマドリッドのテロ事件という形で現れたイスラム主義勢力の脅威を予期しなかったのも彼らである。また、国民党幹部の姿勢や態度の背景には、民主中道連合(UCD)が崩壊して以来、右派が引きずってきた政治的アイデンティティの問題もある。民主中道連合は、アドルフォ・スアレスによって結成され、1977年に初の民主選挙で勝利した中道政党である。
右派勢力が国民党として再編されたのは、1989年のことである。国民党は、崩壊した民主中道連合にいた中道派と、フランコ時代の閣僚経験者マヌエル・フラガを党首とし、フランコ派の流れを汲む右派政党の国民同盟(AP)が、合同する政党として構想された。その利点の一つは、中道色の強い保守政党の内部に、極右勢力を抱え込むところにあった。つまり、民主化から間もない時期に絶え間ない脅威となっていた旧体制派過激分子の勇み足を抑えるということだ。
しかし、1996年に右派が政権を奪回し、さらに2000年の選挙でアスナールが絶対多数を獲得すると、国民党の内部で最右翼のイデオロギーが大きく盛り返すようになった(カトリック教会からの干渉や、「キリスト軍団」と関わりを持つアンヘル・アセベスなど、一部の指導者からなる党内カトリック保守勢力の工作も、そうした動きを後押しした)。
現在の国民党の姿勢は政情の沈静化を促すものとはほど遠い。しかも、12月30日の爆破事件によってETAとの交渉は当面不可能となった。だが、ETAとの交渉は、バスク州の地位の改革を平穏裏に進めるためには不可欠である。バスク州の地位を改革することなしには、スペイン国家の枠組みのなかで、バスク社会内部の相異なる様々な望みを満たすことは不可能だ。この改革が実現すれば、スペインはフランコ体制の遺産にきっぱりとカタをつけることができるだろう。そうすれば、国民党が政府に揺さぶりをかけるのに使ってきた常套手段は消え失せる。試金石となるのは、きたる5月の市町村選挙である。
ここ3年にわたり、暴力の犠牲者として、つねに注目を集め、ときには操られてきた人々がいる。一つは、ETAの暴力の被害者である。いくつかの被害者組織は国民党と共闘して、政府がテロ組織と交渉することに反対してきた。もう一つは、フランコ体制による弾圧の犠牲者であり、彼らについては国民党の内部にいかなる反響も起きてない。しかし、他にも被害者はいる。例えば、「汚い戦争」の被害者たちだ(何名かのテロ容疑者に加え、スペイン・バスク部隊やGALの攻撃を受けた多数の市民である)。ETAの支持者たちは、バスクのテロ組織の暴力に対する批判をはねつけるために、彼らの存在を強調する。
あらゆる暴力の被害者たちが、何の被害者であれ、しかるべき尊厳をもって遇される日が来れば、憎しみの歯車は止まることになるだろう。そのためには、フランコ時代にとどまらず、今日にいたるまでのスペイン近代史上のすべての記憶が、想起の対象とされなければならない。現政府は暴力ではなく対話に訴えることによって、正常化への第一歩を踏み出そうとした。不幸なことに、ETAは強硬姿勢に走り(暴力を放棄するのと引き換えに政治的な代償を獲得することに固執した)、国民党は政府への恨みを募らせて組織的な妨害を図ったため、対話の試みは実を結ばなかった。
和平交渉は膠着している。しかし、サパテロ首相は、スペイン民主制の正常化という政策の推進に向けて、新たな合意の締結を模索している。国民党がそうした政策への参加を拒むことは今から目に見えている。一方、ETAはそれを横目で見ながら、犯罪行為を再開するのか、あるいは守るつもりがあるとした恒久的停戦を実施するのか決めかねている。勝負の決着はまだついていない。最後の判定は有権者たちが下すことになる。
(1) See Veronique Danis and Dante Sanjurjo, << Difficile adieu aux armes pour le Pays basque >>, Le Monde diplomatique, November 2006.
(2) 先の二代の首相、ゴンサレスとアスナールも、同様のことを試みはした。
(3) See Antonio Segura i Mas, << Catalogne, entre autonomie et nation >>, Le Monde diplomatique, << Supplement >>, January 2006.
(4) しかも、アスナール内閣は、アメリカのグアンタナモ収容所に拘禁された約20人のモロッコ人を尋問する目的で、2002年7月に国際法の埒外でスペインの警官を派遣したことをメディアから批判されている。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2007年3月号)