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二つの新聞記事とあるブログを読んで―
○太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
○ズロースもつけず 黒焦の人は 女(をみな)か 乳房たらして 泣きわめき行く
○炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明け を待つ
○筏木の如くに浮かぶ死骸を竿に鉤をつけプスットさしぬ
☆小さきあたまの骨「毎日新聞」発信箱(玉木研二)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hassinbako/news/20070327ddm002070085000c.html
「唯一の被爆国」を自負しながら、原爆被爆者対策がいかに後手に回り、機械的であったか、一連の原爆症認定訴訟が物語っている。
行政ばかりを責められない。占領軍のメディア管制(プレスコード)は原爆報道を抑え、被害実態が伝わらなかった。これがまた誤った情報を生み、被爆者の結婚差別や、銭湯の利用拒否まで引き起こす。
だが、筆持つ人々がすべて占領期に黙していたわけではない。34歳で被爆した広島の歌人・正田篠枝(しょうだしのえ)もその一人。体験を詠んだ私家版歌集「さんげ」は、被爆翌年の46年春、広島刑務所に持ち込まれ、ひそかに少部数を印刷、出版された。
水田九八二郎著「原爆を読む」(講談社)によると、彼女は弟から「軍事裁判にかけられる」と忠告されたが、死刑でもいいと覚悟したという。幸い、摘発は免れた。
<太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり>
<ズロースもつけず 黒焦の人は 女(をみな)か 乳房たらして 泣きわめき行く> ………
数々の歌から「残さずにおくものか」という思いのほどが迫るように伝わってくる。
被爆した平野町は爆心地から2キロにも満たない。辺りの建物は全滅で、犠牲者は多い。彼女もまた原爆症とみられる乳がんとその転移に苦しみ、54歳で他界した。
<焼死せし 児が写真の前に トマト置き 食べよ食べよと 母泣きくどく>
戦災はとりわけ母子を苦しめ、悲劇を世界各地で繰り返している。身を賭して正田篠枝が残した歌はなお重く痛切な響きを失わない。(論説室)
毎日新聞 2007年3月27日 東京朝刊
☆「東京新聞」筆洗 3月30日
http://www.tokyo-np.co.jp/hissen/index.shtml
初夏を思わせる暖かさに各地の桜が一斉に開花した。ソメイヨシノの咲きっぷりは豪壮で、散り際は悽愴(せいそう)だ。それを“散華(さんげ)”と称し、“特攻”など非人道的な戦闘に国民を駆り立てたのが、戦前の超国家主義だ▼天皇中心の“国体の本義”を基礎づけた国学四大人(うし)の一人、本居宣長が詠んだ<敷島の大和心を人問はば朝日に匂(にほ)ふ山桜花>は、旧軍人たちに愛唱され、戦後民主主義の時代には忘れ去られた▼だが、茶色の若葉とともにひっそり花開く山桜には、ソメイヨシノのような“散華”のイメージは乏しい。その違和感を確かめたくて先週末、三重県松阪市西郊の山室山(やまむろやま)の「奥墓(おくつき)(奥津城とも書く)」を訪ねた。宣長は克明な略図つき遺言書で、そこに山桜とともに葬るよう指示していた▼宣長の長男で、盲目の国学者春庭(はるにわ)の生涯と一族の学問を追った足立巻一(けんいち)著『やちまた』には、葬儀の模様や、戦前の皇学館の生徒だった足立さんたちの奥墓詣での記述がある。それを頼りに、ふもとの駐車場から道標に従って参道を登った▼徒歩二十分、途中に一本咲いていたミツバツツジの赤紫があでやかだったが、山頂には遺言通りの小さな墓石と、背後にほっそり山桜が一本、数輪の花をつけていただけ。もののあわれを感じさせた▼城跡の記念館では、弟子にもっぱら源氏物語や万葉集を講じた宣長の資料が展示されていた。松阪は三井家発祥の商人の町。江戸時代の旅籠(はたご)の造りそのままに、伊勢街道に沿って立つ「鯛屋(たいや)旅館」に泊まると、女将(おかみ)さんが秘蔵の春庭の掛け軸を見せてくれた。
☆ 正田篠枝:原爆歌集『さんげ』に触れて「醍醐聡のブログ」3月28日
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_c69b.html
『毎日新聞』の3月27日朝刊の「発信箱」に玉木研二氏筆の「小さきあたまの骨」と題する論説が掲載されたのを連れ合いから教えられた。34歳で被爆した広島の歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)が自らの体験を詠んだ私家版歌集『さんげ』を紹介した小論である。連れ合いは以前、この歌集を取り上げ篠枝の短歌を批評する機会があったため(内野光子「正田篠枝―敗戦―正田篠枝が残したもの」『短歌研究』2005年8月)、資料を集めていた。
そのせいで、私も著者の名前は記憶にあったが、紙面を覗き込み、しばし釘付けにされた。しばらくして目を離し、『さんげ』は手元にあるか尋ねたところ、手に入れたので探せば出てくるとのこと。
次の日の夜、1983(昭和58)年に出版された複製版を連れ合いから受け取った。しかし、せっかちな私は職場の図書館で篠枝の関連文献を確かめ、この歌集も収録された栗原貞子・吉波曽死新編『原爆歌集・句集 広島編』1991年、日本図書センター(家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編集『日本の原爆記録』P)、この歌集の解題も収録された水田九八二郎『原爆を読む』1982年、講談社)などを借り出して読み耽った。
正田篠枝は1945年8月6日、35歳のとき、爆心地より1.7キロの広島市内平野町の自宅で被爆。満53歳のとき、県立広島病院で原爆症による乳がんと診断され、2年後の1965年6月15日、自宅で死去した。54歳。19歳のとき、短歌誌に投稿を始め、短歌会「晩鐘」主宰の山隅衛、「短歌至上主義」主宰の杉浦翠子に師事した。
この私家版歌集は占領軍民間情報局の厳しい監視・検閲の目をくぐり、広島刑務所印刷部でひそかに印刷・発行された。
篠枝はこの歌集の書名の由来を後年(1962年)刊行した、『耳鳴り―被爆歌人の手記』の序文のなかで次のように記している。
「この〔原爆の〕悲惨を体験し、何故、こういう目に 会わねばならないのであろうかについて、他を責むるの みではなく、責むるべきもののなかには、己れもあるの だと思いました。そうして、不思議に生き残って、病苦 に悩まなければならない、自分を省みて懺悔せずにおれ ないのでありました。それで『さんげ』と、題をつけま した。」
篠枝は原爆症で苦しみながらも、1959年、「原水爆禁止広島母の会」の発起人となり、1961年に創刊された同会の機関紙「ひろしまの河」にも短歌やエッセイを寄稿した。また、亡くなる2ヶ月前の1965年4月に、篠枝が取材に応じたNHKテレビ番組「耳鳴り―ある被爆者の記録」が放映された。
死ぬ時を強要されし同胞の魂にたむけん悲嘆の日記
(この歌は本歌集の扉の見返しに描かれた原爆ドームの 下に添えられた篠枝自作の短歌である。)
炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗つかり夜の明け を待つ
ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらし て泣きわめき行く
筏木の如くに浮かぶ死骸を竿に鉤をつけプスットさしぬ
酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこ涙に光る
可憐なる学徒はいとし瀕死のきはに名前を呼べばハイッ と答へぬ
大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつま れり
(この歌は広島平和記念公園に設置された「教師と子ど もの碑」の台座に刻まれている。)
武器持たぬ我等国民(くにたみ)大懺悔の心を持して深 信に生きむ
篠枝が著した上記の『耳鳴り』によると、第2首は義姉が被爆して息を引き取るときにつぶやいて告げたものだという。この義姉は水泳ができなかったので死骸を筏木代わりにその上に乗っかるうちに段々と流れて死骸といっしょに本川橋の柱にひっかかったところを通りがかった人が助けてくれたという。しかし、この義姉も8月7日に息を引き取った。
筏木のように浮かぶ死骸に乗っかって生きながらえる――体験者にしか表せない赤裸々な写実は、技巧的な喜怒哀楽の心境描写、お手軽な「原爆体験の風化」論を寄せ付けない切迫感を読者に伝えずはおかない。
(最初の段落を除いた本稿は、左サイドバーの「詩歌に触れて」に収録した。)
☆コメント―
最近杉田次郎の歌う「戦争を知らない子供たち」の歌詞が改めて自分自身のこれまでの個人史を言い当てているとひとり苦笑するしかない心境になるわたしは、またまたそれを自覚することとなる。「ざんげ」はわかるけど「さんげ」ってなに?一晩考えて、今朝その意味を知る。「さんげ」つまり「散華」とは「花のように散る―戦死の美称」。サクラが満開になる・・・。