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オスロ合意 夢の跡 14年後のガザ地区ルポ
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20070305/mng_____tokuho__000.shtml
国際社会が絶賛したパレスチナ和平の出発点「オスロ合意」から14年。先行自治を飾ったガザ地区で見たのは和平の残骸(ざんがい)だけだった。再生の道は遠い。パレスチナ側でのイスラム急進派政権の発足後、国際社会は自治政府を「懲罰」している。だが、イスラエル側の入植地拡大は見て見ぬふり。そんな二重基準に希望はなえる。住民らの無力感が漂う「夢の跡」をたどった。(パレスチナ・ガザ地区で、田原拓治、写真も)
コンクリートの割れ目に咲いた草花が生を謳歌(おうか)している。航空機の代わりにロバがのんびりと歩く。
「いまは夢の跡だ」。ガザ地区南端にあるガザ国際空港。破壊された滑走路上で空港職員サーミー・メディアン氏がつぶやいた。
■希望の象徴 空港無残
空港からは約一キロ先にイスラエル軍の監視塔が見える。手前の自治政府議長専用機の格納庫は骨組みだけ。管制塔も弾痕でハチの巣状態だ。だれもいない空港事務所の床にはガラスの破片と書類が散乱し、荷物を運ぶコンベヤーのゴムは焼けただれていた。
同空港は一九九八年、開港した。離着陸の許可権をイスラエル側が握ってはいたものの、それは「独立」への希望の象徴だった。当時、会った職員は「年間七十五万人の利用客を見込んでいる」と胸を張った。
だが、二〇〇〇年の第二次反イスラエル民衆蜂起で空港は閉鎖。〇四年には、三千八十メートルの滑走路の中心部が幅約二十メートルにわたりイスラエル軍に切断された。切断は土中のケーブルまで切る念の入れようだった。
さらに昨年六月の侵攻で空港は破壊された。「常駐職員はゼロ。給料はもう十カ月滞っている」。メディアン氏はうつむいた。
世界が熱狂したオスロ合意。空港は間違いなく「オスロ」の産物だった。「当時は未来を信じていた。だって、和平は約束だったからね」と同氏は回想する。「でも、完全に終わった」
東西四十キロにすぎないガザ地区。昨年六月の侵攻の跡はあちこちで生々しい。東西をつなぐ橋は修復中。爆撃された発電所も修理中で、いまでもガザ市中心部を除き停電は頻繁だ。
舗装された道が突然、泥道に変わった。ハマス政権の発足で欧州連合(EU)からの建設援助が途絶えてしまったためだ。
「アフリカと違い目に見えにくいが栄養失調は深刻。五歳未満の42%がタンパク質不足だ。先の侵攻で、大人も含め48%が心的外傷後ストレス障害(PTSD)に侵されている」
北部ジャバリア難民キャンプにあるアルアウダ(帰還)病院の渉外担当、モナ・ファラさんはそう説明した。「電力が途絶えてポンプが作動せず、飲料水事情も悪化。いまごろになって肝臓障害が増えている」
ガザの労働者の多くは日々イスラエルへ出稼ぎしていたが、昨年三月以来、イスラエル側は検問所を封鎖。加えて経済制裁で公務員給与も滞りがちだ。
最低のカロリーは人口の三分の二弱に施されている国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の配給で賄える。ただ、内容は小麦粉、米、食用油、砂糖などで「肉を食べられるのは中流で週一回。難民キャンプの住人で月一回」(住民の一人)という状況だ。
欧米諸国、日本などは制裁によるハマスの弱体化を狙っているが、実相は逆効果になっている。というのも、貧困が進むほどハマスの草の根福祉機関に頼る人たちが増えているからだ。
同じように〇五年九月のイスラエルによるガザからの入植地撤収についても、国際社会は「英断」と評したが、実態はどうだったのか。ガザ中部のカファル・ダルーム入植地(二十三ヘクタール)の跡地には、撤収前に爆破した家屋のがれきがそのまま残されていた。
「良い点はなくはない。何より、こうして庭で客と話せる。以前は禁止だ。外出のたびに、うちの敷地に勝手に監視棟を設けていたイスラエル兵の許可が必要だった」。隣家のハリール・バシール氏が話した。
「でも、整地して返還する約束は守られず、世界が英断とたたえているうちにヨルダン川西岸では逆に入植が進んだ。カムフラージュだった。入植地はなくなったが、住民はガザから出られなくなってしまった」
■空には監視の飛行船
一種の監獄か、と聞くとバシール氏は「監獄より悪い。爆弾が降ってくるんだから」とおどけた。家のあちこちに銃眼が開けられていた。昨年六月、再びイスラエル兵が押し掛け、前線基地にされた。いまも空を見上げると、カメラを搭載したイスラエルの飛行船が住民たちを監視している。
和平の時代は去り、パレスチナは日々細っている。ガザのみならず、ヨルダン川西岸では各入植地をつなぐイスラエル専用道路や分離壁の建設が進み、自治区だった地域は寸断された。
自治政府が将来の首都と目している東エルサレムですら縦横無尽に分離壁が走り、つながっていた西岸地区は遠のいた。旧市街のパレスチナ人居住区にもユダヤ人住民が急増した。
国際社会は和平交渉再開の前提として、パレスチナ側の暴力(テロ)撲滅をとなえるが、同じ前提であるイスラエルの入植地建設凍結については破られても見て見ぬふりをしている。
「オスロ合意の破産で夢を奪われ、パレスチナ社会には無力感が漂っている。大義よりカネという風潮が強くなった」と前出のファラさんは嘆く。「世界の人に聞いてみたい。ハマス政権にイスラエルを認めろと言う。それなら、その国の国境はどこなのか、と」
<メモ>オスロ合意 ノルウェーでの秘密交渉の後、パレスチナ解放機構(PLO)とイスラエルが1993年、ワシントンで調印した5年間の暫定自治合意。ガザ地区などを皮切りにパレスチナ自治区を段階的に拡大。信頼を醸成しつつ、国境や難民帰還などを最終地位交渉で解決しようとした。
<デスクメモ>戦禍に苦しむ中東の話は日本からは想像しにくい。そこでイスラエルの特産死海の塩のエステパックで美容し、パレスチナ名産のオリーブオイルでおいしいパスタ料理をつくったらどうだろう。その実感がかの地の人々の思いを理解する近道のような気がする。いつかハトがオリーブをくわえ飛ぶのを願い…。 (蒲)