★阿修羅♪ > 戦争89 > 258.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
P-navi info
2007.02.25
検問所、封鎖、そしてアパルトヘイト
パレスチナ人権センターによる週レポートによると、15日〜21日の間に2人のパレスチナ人が検問所による移動の妨害により命を失っている(その他、暗殺1人、負傷者12人、急襲40回など)。
亡くなったうちの一人はカルキリヤに近いベイト・アミーン村の22歳になるラシード・オマル・アデルさんで、18日(日)の夜に自分が乗っていたトラクターが横転し、ラシードさんはトラクターの下敷きになって重傷を負った。地元のタクシーがラシードさんを病院へと運ぼうとしたが、タクシーはアズン・アトマ村の唯一の出入り口のところにあるイスラエル軍の軍事検問所で止められた。兵士たちは1時間に渡って、タクシーの通過を許さず、その後、通過を認めたが、病院に着く前にラシードさんは亡くなった。
さらに21日(水)にはラマッラーに近いベイト・リーマ村の34歳になるモワファーク・エルハイミさんが検問所のために迅速な診療を受けられず、命を失っている。村の建設現場で働いていたモワファークさんは、午後3時半ごろ、猛烈な頭痛に襲われた。同僚たちが救急車を呼び、モワファークさんを病院へ運ぼうとしたが、この救急車はアターラ軍事検問所で止められ、内部の捜索などを受け、通過を妨害された。午後5時10分くらいにイスラエル軍は救急車の通過を許可したが、モワファークさんは病院に着く前に亡くなっていた。
( PCHR Weekly report: one Palestinian killed, 2 died at checkpoints, 12 injured, 46 taken prisoner より:パレスチナ人権センターの週レポート要約版は Weekly Report of Human Rights Violations (PCHR, 22 February 2007))
[二人とも検問所(チェックポイント)がなければ絶対に助かったとはいえないが、検問所で止められずに迅速に病院に運ばれていれば助かる可能性がなかったとは言えない。病院がない農村部では、たとえ近くの街に病院があったとしても、そこまでどれだけの時間がかかるのかわからないという状態に置かれている。救急車はせっかくあっても、機能を果たせなくなっている。急病や出産でのリスクは検問所のために格段に高くなっている]
*
Apartheid looks like this (「アパルトヘイトとはこんなものだ」)(Jonathan Cook, The Electronic Intifada, 23 February 2007)は、23日に発表されたばかりの西岸の検問所レポート。イスラエルの女性たちが作る「検問所ウォッチ」のメンバーとともに、西岸の検問所各所を巡り、そこで起きたこと、見たものを報告している。
「昨年の遅い時期までに国連人道問題調整部(OCHA)が出した調査では、西岸の検問所と道路封鎖は528箇所で、西岸の道路を数マイルごとに窒息させている。」
さらにイスラエルのハアレツ紙ではもっと多めの数字を出しているという:恒久的な検問所(人が常駐している)75箇所、移動検問所150箇所、それに加えて道路封鎖などが400箇所以上。
筆者のジョナサン・クックはこう書く。
「西岸のパレスチナ人(また、一方的「撤退」前のガザも)の生活を支配している検問所は、2000年の第2次インティファーダよりずっと以前、いや最初の自爆攻撃より前に出現している。検問所はオスロ合意に対するイスラエルの応答なのだ。オスロ合意によって生まれるパレスチナ自治政府が占領地の限られたエリアを統治するためのものだった。イスラエルはイスラエル内で働くパレスチナ人を出国許可を[イスラエルから]もらった者だけに限定することを始めていた。そして、軍事道路封鎖のネットワークの拡大が行われた。その後、すぐに検問所もまた占領地のなかで移動を規制するようになった。これらは表面的には占領地に建てられたユダヤ人入植地を守るためだということになっていた。」
500箇所以上に膨れ上がった検問所、道路封鎖は西岸でのモノと人の移動を「ロジスティックと費用のかさむ遅延の悪夢」にした。
「検問所では食物が腐り、患者は死に、子どもたちは学校へ行くことを阻まれる」
その検問所を巡って筆者が見た光景は、どこにおいてもパレスチナ人が理不尽な処遇を受けているものだった。
たとえば、ある検問所では入院している父親を見舞おうとしている青年が3時間も拘束を受けていた。この青年はかつて「不法」にイスラエルに入り、労働していた過去があった。そのことで青年は検問所で「罰されて」いた。ある検問所では外出禁止令を破り、大学に講義に行こうとしていた大学教授が拘束されていた。あるタクシー運転手は、IDカードと運転免許証をイスラエル警察官に取られ、それがないために検問所を通過できなくなっていた。
イスラエルの「検問所ウォッチ」の女性たちが監視し、介入し、少しは改善される部分もある。占領のイメージを悪くしないために、兵士や指揮官はこのイスラエル女性たちに対しては気を遣う。しかし、それも一時しのぎのものであり、根本的な検問所での人権侵害を解決はしない。
(現在、「検問所ウォッチ」のメンバーは500人。右派からは「イスラエルを悪魔的に描く」と非難されているこのグループには、オルメルト首相の「左より」の娘、ダナさんも参加している。検問所を定期的に訪れる仕事をしているのは200人とのこと)
あるとき、「検問所ウォッチ」が介入して、改善が行われたことがあった。赤ちゃんを連れた母親のための施設(おむつを変えたり、ミルクを与えるための部屋)がとある検問所に作られた。その開設の日には、メディアが招待され、「人道的な」設備ができたことが報道された。しかし、その2週間後、イスラエル軍はその施設を「パレスチナ人が使わない」と言って、閉鎖した。今ではドアに「人道的場所」という札がついたまま、空っぽの埃だらけの場所になっているという。
他にもたとえば、日除けがつけられた検問所……。「それは少しだけ検問所を「人道的」な場所にして、受け入れやすくするかもしれない」。けれど、それが何になるのか。「検問所ウォッチ」のメンバーの中には、メンバーは監視だけして介入をしないほうがいいのではないかという議論があるという。
この文章は、検問所を巡りながら、それをつなぐ道路の体制、さらに完全に地域を隔てる壁も視野にいれながら、旅を続けた記録になっている。
印象的なシーンはいくつも。
ある検問所で筆者は写真を撮り、兵士にカメラを没収すると脅かされる。が、「検問所ウォッチ」のメンバーが「何の権利でそんなことができるのだ?」と問いただしたところ、兵士は謝る前に筆者をパレスチナ人だと思ったと語る。すかさず、「ウォッチ」のメンバーが兵士に畳みかける。
「パレスチナ人だけが検問所で写真を撮ることを許されていないの?あなたは聞いたことがないのかしら?最新の携帯電話は写真も撮れるって。どうやって検問所で写真を撮らせないようにできるというの?」
だが、このようなことを兵士に言えるのはイスラエル人だからであって、パレスチナ人が同じ事を言ったら、おそらく拘束される。
検問所は辱め、嫌がらせを与える場所であるとともに、情報をでっちあげる場所にもなっている。
「検問所ウォッチ」のメンバーは自分の体験をこう語る。
「私が一日検問所を監視して、家に戻る。そして、家のテレビをつけると、私がずっといたその場所で4人の自爆攻撃者が捕まったということが聞こえてくる。そんなことがたびたびあって、私はとっくの昔に軍を信じることをやめてしまったわ」
オルメルトはアッバスに西岸での通行規制を緩和すると約束し、昨年の12月にイスラエル軍は44の土盛り(道路封鎖物)を取り除いたと発表した。しかし、後になって、最初からその44の土盛りは存在していないことがわかった。
この文章が冒頭で書いている──「多くの傍観者たちの印象とは裏腹に、ほとんどの検問所はグリーンライン(停戦ライン)の近くにすらない」、西岸の奥深くにあり、軍が「検問所ウォッチ」の訪問も拒否しているところが何カ所もあるということも頭に置いて置きたい情報だ。
Apartheid looks like this (「アパルトヘイトとはこんなものだ」)(Jonathan Cook, The Electronic Intifada, 23 February 2007)
[訳して出せるといいのだけれど、かなりの長文で、とてもすぐには手が回らないので、かいつまんで紹介してみた。検問所での虐待事件はひきもきらないが、検問所を集中的に回った文章というのは珍しい]
*
こちらはガザについて国連が出した報告書の記事。英国ガーディアン紙。 Occupied Gaza like apartheid South Africa, says UN report (「占領されたガザはアパルトヘイトの南アフリカのようだと国連レポート」)
体制としては異なるところもあるが、基本的な思想として、イスラエルのやっていることがアパルトヘイトとほぼ同じだという捉え方はこのところますます拡がり、定着しだしてきている感じは強い。(除くイスラエルと米国──元カーター大統領の書いた『アパルトヘイトではなく、平和を』という中東についての本が、総攻撃を受けている)。
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200702252343.print