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□バスラでのイギリス軍の失敗とその真相 [イラク情勢ニュース]
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URUK NEWS イラク情勢ニュース (転送・紹介歓迎)
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2007/02/23 (金)
[飛耳長目録 today's news list]
☆バスラでのイギリス軍の失敗とその真相
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☆★バスラでのイギリス軍の失敗とその真相
Revealed: The true extent of Britain's failure in Basra
パトリック・クックバーン
インディペンデント 2007年2月23日
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http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2296829.ece
ブレア首相が今週発表したイラク南部からのイギリス軍部分撤退は政治的かつ
軍事的な失敗に続くものであり、現地の治安情勢が改善されたからではない−−
イラク問題専門家たちはそう指摘する。
『イラクにおけるイギリス軍の失敗The British Defeat in Iraq』と題するコ
メントのなかで、ワシントンにある国際研究戦略センターのアントニー・コーヅ
マン(イラク問題分析官)は、イギリス軍は2005年後半までにバスラ内外を
掌握できなくなっていたと認めた。
コーヅマン氏によると、イギリス軍は3年間にわたって、イラクの治安部隊が
独自に治安を維持できるように部隊の創設と訓練、装備を促してきた。しかし彼
は、「現地でイギリス軍が支援してきたイラク人部隊はシーア派のイスラム主義
者が他の手段で支配する以上のことにはならなかった」と結論づけた。
イラク南部におけるイギリス軍の支配は最初から不安定なものだった。イギリ
ス軍は活動地域における経験もなければ、信頼できる現地勢力の協力体制も持っ
てなかった。バグダッドにおけるアメリカ軍のように、彼らはサダム・フセイン
政権崩壊にともなう大規模な略奪をバスラで阻止することができず、法と秩序を
うち立てることもできなかった。
アメリカ軍とイギリス軍の当局者はスンニ派イラク人と同様にシーア派イラク
人のなかでも占領が不評なことを受け入れようとしなかった。ブレア首相は占領
が不評であることや武装レジスタンスを引き起こしたことを否定しさえした。し
かしサダム・フセイン政権崩壊以後の占領に対する怒りの高まりは、そのなかで
強力なスンニ派ゲリラとさらには犯罪的なシーア派民兵が増えたことを証明した
。
2003年6月24日にマジャル・アル・カビルで6人のイギリス軍憲兵が殺
されたとき、イギリス軍は地元住民を重武装させるという事態を招いた危険な状
況のなかで教訓を学んだ。2004年にムクタダ・サドルのマフディ軍が蜂起し
たときには、イギリス軍部隊はマイサン州の州都アマラで何度かの流血の衝突に
勝利した。
しかし2005年1月の選挙では、ブレア首相が今週語ったように、イラク・
イスラム革命最高評議会(SCIRI)がムクタダの父親であるモハンマド・サ
ディク・アル・サドルの支持者であるファヂラを抑えてバスラで最大の政党にな
った。後者の支持者はマイサン州では最大の政党になった。
コーヅマン氏によると、イギリス軍は2005年の同州における選挙で政治的
に敗北し、同じ年の秋には軍事的にも優位を失い、攻撃が増えたことで彼らにで
きることは装甲車によるパトロールだけとなった。2006年5月におこなわれ
たような軍事作戦も勢力バランスを変えることはできなかった。
イギリス軍が敗北したというコーヅマン氏の憂鬱な結論は、ワシントンの近東
政策研究所から発行された『嵐の前の静けさ:イラク南部におけるイギリス軍の
経験』(マイケル・ナイツ&エド・ウィリアムズ共著)という研究でも確認され
ている。イギリスの当初の野心を現在の実態と比較しつつ、報告書は「安定と統
一、そして政府と警察による法の支配といったものの替わりに、イラク最南部は
不安定かつ分裂、無法、泥棒の暗躍、民兵の台頭という状況になった」と結論づ
ける。
現地の民兵はしばしばイラク政府の支配が及ばないばかりか、バグダッドにい
る指導者と見られる者の統制外にある。現地勢力のために大金を稼いでいるのは
石油および石油産品の迂回であり、その利益が競合の元となったり武力衝突の原
因となっている。ナイツ氏とウィリアムズ氏は、イラク南部の支配には、「中央
政府と権力に関わりない人々の双方を脅かす武装した政治・犯罪集団」を必要と
した、と指摘した。
イギリス軍は異なる戦略を追求することができるだろうか? イギリス軍は民
兵をかくまってきいると非難されてきた。しかし現地に有力な支持勢力がいない
ために、それは変化しなかった。ブッシュ大統領とブレア首相が追求してきたこ
とはイラク人部隊を育成することだった。
イラク人警察と軍の数は26万5000人だが、問題は育成でも装備でもなく
、中央政府に対する忠誠心の欠如だった。民兵とゲリラは通常(占領軍にとって
は)残忍であったが、イラク国民の目には正統性があり、それはイラク政府の高
官たちに欠如したものである。周期的な浄化作戦でもこの状況は変えられなかっ
た。
情勢の悪化がブレア首相の描く明るい描写と対照的だったことは疑いない。ナ
イツ氏とウィリアムズ氏はこう指摘した−−「2006年9月まで、警察の訓練
担当者を警察署に送ったり、近くの病院にオモチャを届けるのにさえ、イギリス
軍は戦闘装甲車の一団を派遣する必要があった」。イギリス軍陣地の一部はイラ
ク国内の他のどこよりも多くの迫撃弾を浴びせられていた。地元の政治勢力との
あいだには絶え間ない摩擦もあった。
なぜイギリス軍は今もイラク南部にいるのか? そこでどんな良いことをする
というのか? 兵士の命が無意味に失われていることと失敗を認めるのはあまり
にひどすぎるので、ブレア首相は兵力を撤退しないのではないかという疑惑が大
きくなっている。それではアメリカに同盟国を失わせることにもなっただろう。
バスラ情勢に詳しいレイダー・ビッセルによると、イギリス軍が2003年バス
ラに「穏便に」上陸したことに注目が集まったあと、現地の人々はイギリス兵の
姿が街頭から徐々に少なくなり、民兵が跋扈(ばっこ)し始めたことに気づきは
じめた。
「そこで生み出された状況は、批判者に言わせると、イギリス軍の唯一のイラ
ク駐留目的は表向きは彼らの支配下にある南部で物理的な存在感を示すことであ
り、同時にイギリス軍の犠牲を少なくすることであった」とビッセル氏は指摘し
た。
言葉を変えて言えば、ブレア首相は形式的な駐留を終わらせて兵力を撤退させ
ることをためらっているので、イギリス軍兵士はこれまでイラク南部に駐留して
命を落としてきたし、今後もその状況が続くであろう。
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