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ガッサン・カナファーニーの作品は真正面から、正攻法で
1948年のナクバに立ち向かっていると思います。
ハビービーのこの作品では、同じナクバに立ち向かうにも、
いわばからめ手から、しかも奇想天外な設定や、
口調もくだけたものでアプローチしています。
だからといって、軽さは少しも感じません。
取り扱っているテーマは、重いし、
むしろカナファーニーの作品よりも、
色々と歴史的背景を多く知ることができました。
また訳者の気合の入った註からも多くのことを学べました。
訳者自身が「異例な数の脚注」と言っているくらい分量が多く、
註だけでも一冊の本になるのではないかと思えるくらいです。
例えば巻末にハイファ周辺の北イスラエルの地図に、
消滅させられた街や村が数十記載されているのですが、
本編でそれが一つずつ名が挙がる度に、その名前と地図を参照しました。
それはまるでもう存在しない街や村へのレクイエムであるかのようでした。
主人公はハイファ生まれのパレスチナ人です。
1948年のイスラエル建国前にイスラエル軍による攻撃から逃れ、
レバノンに避難していましたが、イスラエル建国直後、
イスラエルとなった故郷に密入国します。
父親が以前からユダヤ人の協力者という設定で、主人公もその後釜として、
イスラエルの諜報機関の協力者となるという設定です。
そういう設定であるが故に、かえってイスラエルの裏側の活動を
描けているとも言えると思います。
イスラエル軍事政権下での、
密入国、協力者、不在者財産没収法、移動制限、
奇想天外な非現実的な設定にもかかわらず、
そういうとてもリアルな現実をとても詳細に描いています。
1948年のナクバ以降のリアルな現実を学ぶことができました。
訳註では、アラブの歴史、文学、科学、化学、思想等も
実に丹念に書かれていて、それもまた学ぶことができました。
筆者は主人公と同じくハイファ出身です。
第一次中東戦争は、1948年のアラブ軍による侵攻により始まったという
神話に対してもハイファでは、それ以前にユダヤ側による占領が終わっていた
ということがリアルに描かれています。
主人公を密告者という裏側の家業に設定したことによって、
かえって、裏側から歴史を垣間見ることができるかのようです。
主人公の直接の上司は、アラブから帰国したアラブ系のユダヤ人。
イスラエルは、ユダヤ国家などではなく、
多民族、多宗教、多宗派国家であることが浮き彫りになります。
イスラエル国内での左翼、労働運動への謀略的な弾圧。
1948年に国外に逃れ、再度『密入国?』した人達。
かれら『存在しない者達』とそれを村ぐるみで庇う様子。
イスラエル軍が来ないか常時見張っている様子。
『未承認村』は現在も約50か所あるそうです。
例えば、あるパレスチナの村が破壊されずに残ったのは、
隣接するユダヤ人の村が、葡萄産業の安価な労働力の提供地だったから
パレスチナ人の村を破壊しなかったということも描かれています。
民族・宗教対立として現象している事象の
そのもう一つ奥にある階級対立ということも描かれています。
著者は、創設からのイスラエル共産党の党員で、
イスラエルの国会であるクネセトの議員も務めました。
共産党はその後四分五裂します。
ソ連スターリン主義による各国共産党の支配という背景もあります。
ソ連一国の利害に各国共産党を従属させるということです。
その手段としてのみ利用するということです。
ソ連が国連のパレスチナ分割案を受け入れたので、
イスラエル共産党も分割案を受け入れました。
当時の国際共産主義運動ではそれが当たり前だったのです。
地元の特殊事情も何もありません。
ソ連の方針が各国共産党の方針となるのです。
しかし現地のパレスチナの民衆はそれを到底受け入れられませんでした。
そもそも、果たして、この国連分割案がどうであったのかという
根源的な問い掛けがあります。
何故、ニ国家なのか。
何故、多民族一国家であってはならなかったのか。
そういう根源的な問い掛けは現在に連綿と続いています。
イスラエル国家でパレスチナ人が生きていくには、
旧ソ連での管理社会で生きていくこととも
同一性を有していると思います。
つまり、表の生活と裏の生活、建前と本音を
嫌でも使い分けなければ生き抜いていけないという。
しかしそういう主人公の生き方の只中で、
その息子はレジスタンスとして立ち上がる。
妻もまたその息子の側に立つ。
ただ一人、『こちら側』に取り残される主人公。
否定の否定という弁証法とも言えるのかもしれません。
非人間的な自らを否定することによって、初めて人間を取り戻せるのだと。
しかし主人公はそうではありません。
筆者はそれを声高に叫ぶ訳でもありません。
何故なのでしょう。
それほど、絶望は深いということでしょうか。
それとも、俺は駄目だったが、次の世代に希望を託すということでしょうか。
果たして当時のソ連共産党の方針をそのまま受け入れた
自らの思想的確信は、揺らいでいなかったのでしょうか。
国連分割案を受け入れことは正しかったのでしょうか。
そういう根源的な問い掛けは決して消えません。
酒井啓子女史の書評
http://book.asahi.com/review/TKY200701230222.html