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〔イラクから〕 そしてジョニーは死を選んだ 生還した海兵隊員 苦悩の果て ミネソタに死す
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2007/01/post_25c3.html
米ミネソタ州の新聞、「スター・トリビューン」(電子版、1月26日付け)に、イラクから生還した海兵隊員が自宅で自殺したという記事が載っていた。
読んで、ちょっと驚いた。海兵隊員が帰還後、暮らしていた場所が「ニュー・プラーグ(プラハ)」だったからだ。
はっきりした記憶ではないので確かなことはいえないが、わたしはいちど、たぶんこのミネソタの田舎町のレストランに立ち寄り、チェコ料理を食べた。
そのときの町の様子が目に浮かんだのだ。あの町のどこかで、若い海兵隊員は苦しみの果てに死を選んだ……。そう思うと、切なくなった。
1月16日の夜だった。ミネソタの片田舎、スチュアートに住む両親のもとに、元海兵隊員、ジョナサン・シュルツさん(25歳)から電話が入った。これから自殺するという。同じような電話は、彼の友人のところにもかかっていた。
通報を受けたニュー・プラーグの警察官がドアを破って中に入ると、首を吊って死んでいた。蘇生術を試みたが、ダメだった。
ジョナサンさんは2005年の後半、イラクから生還を果たした。
戦地から父親に書いて来た手紙には、「生きて帰れるよう神様に祈っている。ひとつのからだのままで」とあった。その通り、五体満足で生還した。
ジョナサンさんは海兵隊で重機関銃の射手をしていた。仲間は彼を「ジョニー」と呼んだ。年中、パーティーをしているような、明るく愉快な男だった。
ジョニーは2004年4月のラマディーの戦いに参加した。同時期のファルージャ戦はよく知られているが、ラマディー戦は実はそれ以上の激戦だった。(わたしはこのことを、目下翻訳中のP・コバーン著、『イラク占領』で、つい最近知った)
ジョニーは戦地から、ベトナム戦争の実戦経験者の父親に、当時の模様を手紙に書き送った。
たった2日間の間に、仲間が16人も戦死したというのだ。
帰還後、実家を訪れた彼は泣きながら父親に語った。
仲間がどうやって死んでいったか、を。
自分がどうやってイラク人を殺したか、を。
眠ると、夢のなかで戦場に戻り、叫び声を上げたりした。酒を飲み、薬を飲んだ。老人ホームの復員兵を慰問したりもしたが、苦悩から逃げ出せなかった。復員兵の病院に入院を申し込んだが、順番待ちで断られた。
PTSDで苦しんでいた。なぜ、仲間が死んで自分は生き残ったのか、悔やんだ。イラクの戦地に戻ろうという気も起きた。
海兵隊の親友は言った。「ジョニーは感情のローラーコースターから降りられなかった」と。
葬儀はスチュアートのプライアー・レーク墓地で行われた。ジョニーは海兵隊の青の軍服姿で埋葬された。戦傷者に授与される「パープル・ハート」勲章を2個つけて、故郷の土に返ることになった。
トリビューン紙の記者は、冷たい風が墓地の上を切り裂いていた、と書いていた。
記事の最後に父親のジムさんのこんな言葉が紹介されていた。
He was a delayed casuality of the Iraq war.
ジョニーはイラクの戦場をミネソタに持ち帰り、遅れた戦死の道を選んだ。
わたしは三度ほどミネソタを訪れたことがあるが、春先でも寒さが身に沁みた。ジョニーの墓地を吹き渡る真冬の「ビッグ・チル」、北極下ろしは、どんなにか冷たいことだろう。
ミネソタの緑の大地を思い出しながら、ジョニーを死に追いやったものを憎んだ。
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http://www.startribune.com/462/story/963363.html