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(沖縄タイムス)
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200701151300_01.html
沖縄戦時下、慶良間諸島で起きた「集団自決」への遺族補償に関し、一九五七年に申請が始まってから最短で三週間、平均三カ月で補償が認定されていたことが分かった。「集団自決」犠牲者に補償を適用するのは困難だったとされてきたが、沖縄タイムスが入手した座間味村役所資料で、早期認定されていたことが判明した。琉球政府援護課の元職員は「本島に先駆け、慶良間諸島の被害調査を実施した。厚生省(当時)も人々を救おうとの熱意を感じた」と話す。一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため「『軍命』が捏造された」という主張の根拠がないことを示している。
座間味村役所の「戦闘協力該当予定者名簿」および「戦協該当者名簿」、厚生省から返還された県の記録を照合。
役所がそれぞれの戦没者について戦死状況などをまとめて申請した日から、厚生省が各戦没者が援護法の補償に「該当」すると認定した日までの日数を調べた。要した日数で認定が容易かどうかが分かる。
座間味村の申請は、十五次にわたり、申請から認定まで最短で三週間、平均三カ月で補償対象との判断が下されていた。
例えば、第十一次申請は、一九五八年九月七日に提出され、三週間後の九月二十六日に「該当」とされた。
申請が始まった年の五七年では、二次分の十一月十一日付申請は、三カ月後の翌年二月二十九日に「該当」判定されていた。
元琉球政府社会局援護課の職員で、全市町村向けの援護マニュアルを執筆した金城見好さん(72)は厚生省が認定に要した日数について「二、三カ月後の認定は早い。平均的には三カ月から六カ月かかっていた」と話す。「慶良間諸島は、沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており、住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた」と説明する。(編集委員・謝花直美)
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国の方針は明確/琉政・村元職員、証言
「慶良間諸島の沖縄戦時の状況ははっきりしていた。集団自決の犠牲は『準軍属』として処遇することは明確だった」。一九五六年、琉球政府援護課に奉職した金城見好さんは、当時の国や琉球政府の方針を明快に説明した。また援護課が五三年の発足後に、援護法適用に向け慶良間諸島を独自に調査したことも明かした。「軍命」の存在は「調査担当者ではないわれわれの耳にも入った」と証言し、「『軍命』捏造説」を否定した。
琉球政府・金城見好さん
「当初から準軍属」
琉球政府に援護課が設置されたのは、五三年。業務開始から早い時期に、援護課は慶良間諸島を単独で調査したという。金城さんは「『集団自決』が軍によって命令されたことや、住民の苦悩などが当時伝わっていた。援護業務開始に当たって、『集団自決』で悲惨な体験をしたこと、最初に地上戦が始まった場所である慶良間諸島を特別に調査した」と説明する。
「調査を行った人々から、われわれにも(軍命があったことを)聞かされた」と振り返る。琉球政府は家族構成、避難状況、死亡状況について聞き取り調査を行っていた。五七年の戦闘協力者の申し立てでは、渡嘉敷村、座間味村ともすぐに申請を行うことが可能だった。事前の調査が元で「早い時期に申請ができた」と言う。
渡嘉敷村・小嶺幸信さん
認定難、感じず
渡嘉敷村役場の援護担当だった小嶺幸信さん(78)は、当初、戦争で焼けた戸籍の整備を担当し、住民の沖縄戦での死没状況の詳細を調べた。五七年からの「戦闘協力者」の申し立てでは、書類作成を一人で担当、何百通の書類を書き上げた。
渡嘉敷村でも援護法に向けた準備は、適用の前から進められており、「五四年に役場に入った時にすでに前調査が行われていた。兵事関係の担当者が防衛隊などから話を聞いて戦況をまとめてあった」という。そのため、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない」と振り返る。
(編集委員・謝花直美)