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(回答先: シーア派の南部からも大勢がティクリートに弔問 [イラク情勢ニュース] 投稿者 white 日時 2007 年 1 月 05 日 17:01:06)
イマーム・フセインというのは西暦680年に惨殺されたシーア派の聖者なのだが、サダム・フセインと同じ名前だね・・。
犠牲祭の日に死刑になったというのも宗教的には微妙な意味づけになるだろう。(犠牲祭はイマーム・フセインとは無関係の日ではあるが)。
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http://homepage2.nifty.com/chasukekun/nk-499.htm
−日記帳(N0.860)2004年04月11日−
今日はアルバイーンの日です
今年の3月2日の日記(イスラム教について(9))で、シーア派最大の祭典とされるカルバラの「アシュラ」についてご紹介しましたが、今日はその「アシュラ」から40日目に行われる「アルバイーン」と呼ばれる記念行事の日です。
イスラム教の始祖ムハンマドの死後、暫くの間はムハンマドの友人などの弟子達が、一応合議によるとは言え、後継者(カリフ)をたらい回しにしましたが、いずれもムハンマドの血を受け継ぐ後継者ではなかったためムハンマドの親族の間では不満が高ぶっていました。ところが、4代目のカリフに初めて、ムハンマドの従兄弟のアリーが選ばれて漸くその不満が解消したかと思えたのに、その4代目カリフ、アリーがイランで少数勢力によって暗殺されたことから、再びムハンマド一族の不満が高まりました。
その結果、次の5代目の後継者(カリフ)を巡って、イスラム教は二つに分裂してしまいました。つまり、従来どおり、合議制で後継者(カリフ)を決めようとする、スンニ派と、あくまでの始祖ムハンマドの血を引き継ぐ者が後継者(カリフ)になるべきだとするシーア派の二つの派に別れてしまいました。
スンニ派は、暗殺されたアリーの長男ハサンにカリフの位を買収によって放棄させて世襲制ウマイヤ朝朝を確立し、アリーの次男イマーム・フセインからカリフの地位を要求されてもこれに応じないまま、両派は険悪な状態になっていました。(注:「イマーム」とはスンニ派の「カリフ」に相当する最高指導者の尊称)その最中に、イマーム・フセインはクーファの民からの救援要請を受けて、騎士33名、歩兵40名を含む総勢73名の部隊と婦女子130人を率いてクーファに向かいました。しかし、その途中のユーフラテス河を望むカルバラに着いた時、期待していたクーファの民の代わりにウマイヤ朝軍の数千騎に包囲され、食料も水も断たれ孤立してしまいました。
イマーム・フセインは和平を望んで交渉しましたものの、決裂し決戦となり、多勢に無勢、フセイン側は婦女子を除いてほぼ全員が虐殺され、フセインの首はダマスカスに送られ、ウマイヤ宮殿で首実検を受けました。これが世に言う「カルバラの悲劇」です。そして、そのイマーム・フセインが惨殺された日を「アシュラ」と称して、シーア派最大の祭典として殉教の聖地、カルバラでで記念行事が行われ、「アシュラ」から40日目が「アルバイーン」として、イラン、イラクのシーア派居住地で盛大に記念行事が行われます。
シーア派はイランでは多数派ですが、イラクでは少数派で、かってフセイン時代はフセイン大統領がスンニ派を擁護してシーア派を迫害したたため、シーア派はフセイン崩壊を喜び、米軍に対しても協力的でしたが、現在ではスンニ派とシーア派の武装勢力が「反米」で共闘する動きが始まっております。このようなことはかってないことで、米国にとっても脅威となっていります。
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http://tanakanews.com/990921iran.htm
とはいえ、上のような光景の中にも、イランにおける宗教の政治化が含まれている。9月14日が祭日になったのは今年からで、この宗教的な日を祭日とする代わりに、3月の「石油産業国有化記念日」という宗教的でない祭日が、休日扱いされないことになった。これは「政府が人々の宗教心を維持するための方策だ」と、ある知識人が説明してくれた。(この休日振り替えは反発が多く、国会で継続審議となっていた)
また、自分の体を鎖で鞭打つパフォーマンスは、もともとイランで信仰されているシーア派イスラム教にとって非常に重要な人物である、第3代の指導者(イマーム)だったイマーム・フセインという人物が、西暦680年に惨殺された命日にだけ行う、追悼の儀式であった。