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http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20070105
2007-01-05
■[話題]アメリカの「味方」をしたらカミさんに非国民と言われた件
年末のある日、NHK-BS1でやっていたドキュメンタリーで太平洋戦争に従軍した日系米兵が日本との戦闘においては民間人であろうと撃つように指示されていたことを話していました。
カミさんがそれを見て御立腹。「民間人も撃つなんて非道い。鬼畜生だ」と言いました。
それに対して私はこういうようなことを言いました。「民間人を撃つというのは確かに非道いけど、仕方ない面もあると思うよ。当時の日本は民間人にも肉弾攻撃を強いていたのだから。相手が民間人でも武装して襲撃してきたら撃つしかないでしょ」
カミさんは納得せず、それから話が広がること数分。
「東京大空襲とか広島長崎への原爆投下とか民間人を大量殺戮したアメリカは鬼畜だ」というようなカミさんの言葉に対して私はこういうような言葉を返しました。
「確かにそれらは戦争犯罪だと思うけど、日本がもっと早く降伏していればそうして亡くなった人々は死なずに済んだんだ。マリアナが陥落した時点で本土が爆撃されることも、もう勝ち目が無いことも明らかだったわけで、ある意味、それらの人々は勝ち目も無いのに降伏を先延ばしにした当時の日本の指導者達の犠牲者でもあるんだ。敗戦の先延ばしといい、民間人への戦闘行為への参加の強制といい、当時の日本政府の国民に対する虐待といってもいいものだ」
そうしたらカミさんに罵られました。「ええい、鬼畜米英の味方をするのか。この非国民め」と。
私としては別にアメリカの味方をしたつもりは無く、こういう物事は簡単に白黒つけられるものではなく、どちらかが一方的に悪いというわけではないということを伝えたかったのですが「失敗」した模様。*1
まあ、カミさんが怒るのも分かります。「民間人であろうと撃つ」という部分だけを取り出せば、確かに非道いですから。そういう非道がなされるに至る事情を知らなければ怒るのは当然というものです。
そして、当然であるがゆえに心配。カミさんに限らず心配。
非道な部分のみを取り出した宣伝がなされれば、背景事情に関する知識が欠如している人が容易に扇動されてしまうであろうことも当然ですから。
自称中道な人にも基本的知識が欠如しているがゆえに宗教右翼の宣伝に騙され、非道に対する義憤に駆られ正義感に基づいて行動しているだけの人もいるでしょうしね。
■[話題]民間人への戦闘参加や自決の強制は自国民への虐待と思う件
「沖縄―日米最後の戦闘」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769821522/abysshobbyres-22/ )は日米双方の資料に基づく米国陸軍省による沖縄戦の記録。アメリカから見た沖縄戦が淡々と記されています。沖縄戦という太平洋戦争の一部の戦闘記録ですし、翻訳に難がある部分もあるので、太平洋戦争全体の流れや当時使われた兵器に関する知識を持つ人でないと読解の敷居が高い部分があります。普通の人はバカ弾(ロケット特攻機桜花の米軍側の呼称)と書かれているだけではそれがどういう兵器か分からないでしょうし。
しかしながら、沖縄戦での特攻機による被害、爆弾を抱えて肉弾攻撃をしかけばらばらに吹き飛ぶ日本兵、民間人の自決、民間人の戦闘参加といった日本では描写が避けられたり情緒的になりがちな部分も淡々と描写されており、そういう面ではお勧めの本です。(戦果や用語等に一部翻訳ミスがありますが)
以下、P177-178より引用。
掃討戦でのめぼしい抵抗といえば四月二十二日の夜から翌朝にかけてのそれだった。兵隊や民間人、それに婦人もまじった一群が、小銃や手榴弾をもち、爆薬箱をかかえて城山の洞窟陣地から、第三〇六連隊の散兵線に突入してきたが、米軍は一兵の損失もなく相手を殲滅した。
凄愴をきわめた伊江島の六日間の戦闘で、米軍は四千七百六名の日本軍を殺し、百四十九名を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。彼らは戦闘中、ぜんぜん兵隊と見分けがつかなかったからだ。しかも戦いすんで、死体を点検してはじめて、民間人であったことがわかったのである。軍服を着せられ、日本軍の兵器をもった民間人はおよそ千五百と推定された。おそらく戦死した米兵から取ったものだろうか、中には、米軍の軍服を着たまま死んでいる民間人もいた。
これを民間人への戦闘参加の強制と呼ぶのには異論もあると思います。軍服を着ていた人もいたわけで、その時点では「志願」や「徴兵」により即席軍人になっていたと解釈する人もいるでしょうし、「任意」だったかもしれないわけですし。
ただ、私はこういう事例も「拒否する」という選択肢が社会的には殆ど無かった以上、強制と解釈すべきと思います。
当時の日本は国民に対し特攻などの自殺攻撃を含む様々な自己犠牲を強いました。
日本軍による自殺攻撃が「軍人による正規の軍事行動であり自爆テロとは違う」と言われるとき、民間人に対する自殺攻撃の強制は忘れられています。
「イスラムの自爆テロは死後の世界における幸福を求めてのもので、崇高な自己犠牲である特攻とは違う」と言われるとき、日本では死んで靖国に行くことを至上の価値とし戦死することを尊ぶような教育が行なわれたことは忘れられています。
自殺攻撃による自己犠牲が美化されるとき、自殺攻撃による自己犠牲を強制する人々の醜悪さは忘れられています。
当時の日本の指導者達が率先して自己犠牲精神を発揮し「日本人戦犯を裁く権利を日本が得ること」に拘らずにさっさと降伏していれば多くの人々が死なずに済んだかもしれないというのに。
これは現代にも通じることですが、他人に愛国心とか公共心とか公徳心などの名の下に自己犠牲を厭わず行動することを求める人々にこそ、まず自己犠牲の模範を示してほしいものです。特に権力に従順で自己犠牲を厭わない人間を育成するためであるかのような教育方針を掲げる人々に。
愛国心それ自体は美しくとも、支配の道具としての愛国心のなんと醜悪なことか。
罰当たりな不謹慎
かつて爆弾を抱えて戦車の下に飛び込む訓練をさせられた少年の話を知ったときに思いついた不謹慎な言葉。
「日本は国民に爆弾を抱えて戦車の下に飛び込むように訓練した。一方、ソ連は犬を使った」*2
ソ連の地雷犬も非道いと思いますが、日本の「人間爆弾」の非道さはその比ではありません。
女子供を含む民間人にも肉弾攻撃を課し、そのための訓練もした大日本帝国は、自らは犠牲にならずにそういう自己犠牲により守られるであろう立場にある人々にとってはさぞかし「美しい国」だったでしょうね。