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「物静かな読書家でジョークが好き」、 看護師が語る獄中でのフセイン元大統領 - 米国
http://www.afpbb.com/article/1207380
【ワシントンD.C./米国 2日 AFP】サダム・フセイン(Saddam Hussein)元イラク大統領は、熱心な読書家で、ジョークを飛ばしたり小鳥に餌をやったりするのが好きだった――2006年12月30日に死刑が執行されたイラクの元独裁者の獄中での意外な「素顔」が明らかになった。CNNなどの米メディアが1日、米国での拘束期間中にフセイン元大統領の担当看護師を務めたRobert Ellis氏(56)の談話として報じた。
当時、米陸軍曹長だったEllis氏がフセイン元大統領の健康状態を管理していたのは2004年1月から8月まで。米国がフセイン元大統領を拘束している間、健康状態を良好に保つようにとの厳命を受け、1日2回、元大統領の監房を訪れ、血圧や体温などをチェックし、適切な食事が与えられているか確認していたという。
■毎日書き物をし、ジョークを飛ばしていた獄中生活
Ellis氏は1日、CNNの取材に応じて、フセイン元大統領は「礼儀正しく物静かな人物だった」と語った。
「いつも奥さんや子どもたちのことを話していました。熱心な読書家で、書き物をするのが大好きでした。自分で書いたという小説をたくさん持っていましたし、あの当時も何かの論文を毎日書いていましたよ。私が監房を訪れるたびに、いろいろなものを読み聞かせてくれました」
同元大統領が人道に反する罪で死刑となったことについて、Ellis氏は「とても残念に思っています。フセイン元大統領は終身刑にすべきでした。そうすれば、予測されていたイラクでの治安悪化などを阻止できたかもしれません」と述べた。
Ellis氏によると、拘束期間中のフセイン元大統領は、生活の大半を読書や祈りの時間に費やしていた。また、抜群のユーモア・センスの持ち主で、よくジョークを飛ばして陽気な振る舞いを見せていたことから、「孤独にさいなまれてはいなかったようです」と指摘している。
Ellis氏が地元紙St Louis Post-Dispatchに語ったところによると、フセイン元大統領は短時間の散歩が許されていた時期、外に出ると雑草に水をやったり、ためておいた食事のパン屑を小鳥に与えるなどし、「自分は若い頃、農夫だった。自分の出自は決して忘れない」と話していたという。
拘束所では「ビクター」という暗号名で呼ばれていたフセイン元大統領は最初の頃、扉が閉ざされた監房にスロットを通じて食事で与えられていた。これに対して元大統領は「ライオンが餌を与えられるような形での食事は拒否する」として、ハンストを実施。その後、看守が監房の扉を開けて食事を与えるようになるとハンストを中止したという。
Ellis氏によると、フセイン元大統領が敵意ある態度を取ったことは一度もなかったが、一度だけイラク侵攻の理由を問いただしてきたことがあったという。
「ある日、マシンガンを撃つ仕草をしながら、私にこう尋ねたのです。自分がしたことはすべてイラクのためだった。イラク国内の法律は公平なものだったし、(イラク側の武装解除を監視した)国連武器査察団は結局、何も発見しなかった。なのになぜ、米軍は2003年にイラク侵攻を行ったのか、とね」
これに対しEllis氏は、「それが政治というものです。私たち兵士は、この種の問題にはまったく関心がありませんが」と答えたという。
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http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/8for_the_record/index.html
〔For the Record〕 小鳥に餌をやっていたサダム・フセイン
処刑されたサダム・フセインの獄中の様子が、看護にあたった米兵の証言で明らかになった。
バグダッド近郊の米軍刑務所、「キャンプ・クロッパー」でサダムの世話をした米陸軍曹長、ロバート・エリス氏が、セントルイス・ポスト・ディスパッチ紙(電子版、12月31日付け)のインタビューで証言した。
それによると、サダムの独房は6×8フィートの大きさで、ベッドと小さなテーブルが置いてあった。テーブルの上には本が何冊か。もちろん、コーランも。
プラスチックの椅子がふたつ。お祈り用の織物が1枚。洗面器が2個……それがすべてだった。
刑務所の人びとはサダムを「ビクター」と呼んでいた。そう、「勝利者」の意味を持つ、英語のファーストネームである「ビクター」と。
その「ビクター」の房をエリス氏は2日にいちど、見回った。房から自作の詩を読み上げるサダムの声が聞こえて来た。サダムと言葉を交わすようになった。
農民の子だったと言った。その出自を一度も忘れたことはないと。
自分の子どものことも語った。
読み聞かせしてして寝かしつけたことや、娘がおなかが痛いと言ったときのことなどを。
葉巻とコーヒーは血圧にいいといった。エリス氏に葉巻をすすめたこともあった。
米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだとも聞いて来た。米兵がマシンガンを撃ちながら突進する姿をジェスチャーで示しながら。
「(大量破壊)兵器の査察官は何も見つけなかったろう」とも言った。
不平を言わない模範囚だった。
いちど、ハンストをしたことがあった。
食事をドアの下の隙間から差し入れたときのことだった。
ドアを開けて食事を届けるようになると、すぐハンストをやめた。
「ライオンのように扱われたのを拒否したんだ」と、エリス氏は言った。
サダムは食事のパンをとっておき、小鳥たちの食べさせていた。草に水をやったりもしていた。
エリス氏が一度、きょうだいが死んで米国に戻らなくてはならなかったとき、サダムは「お前はもう、おれのきょうだいだ」と言ってエリス氏を抱きしめた。
◇
エリス氏のインタビュー記事を読んで、サダムの一面を垣間見た気がした。
罪を憎んで人を憎まず。
サダムの「犯罪」は糾弾されてしかるべきことだが、彼を「悪魔」だといってすべてを片付けるのは間違っている。
彼もまた、「イラク」の歴史と風土から生まれた、ひとりの人間だった。そのサダムという人間がおかした「人道に対する罪」は徹底追及されてしかるべきだが、その彼に人間性のカケラもなかったかというと、そうは言い切れない。
エリス氏の証言は、そのことを語ってあまりあると思う。
◇
このエリス氏のインタビューを読み終わって、サダムが「イラク国民」あてに書いた「手紙」(11月5日付け)の中身は「本心」から出たものだったかも知れない、と思った。
サダムの「遺書」は一方で、「イラク万歳、イラク万歳、パレスチナ万歳、聖戦(ジハード)と戦士(ムジャヒディン)万歳」とも書いていたが、他方、「わたしはまた、われわれを攻撃した他国を憎まず、為政者と民衆を区別するよう呼びかける」とも言っていた。
もしかしたらサダムはエリス氏との交流のなかで、そうした心境に達していたのかも知れない。
◇
わたし(大沼)はサダムと会ったことはないが、カイロ特派員だった一九九〇年の秋、エジプトのナセルの庇護の下、カイロで亡命生活を送っていたサダムが通っていたカフェを取材で訪ねたことがある。
カイロ大学に近いそのカフェは、なぜか「インディアナ」という英語名のついたカフェで、その老主人(エジプト人)はわたしに、サダムの思い出を語ってくれた。
青年サダムの女性を見る目は激しかったと語った主人は、サダムがイラクに帰国して権力の中枢に入り「出世」を遂げたあと、イラク政府代表として再びエジプトを訪れた際、「インディアナ」に立ち寄って、亡命時代の「つけ」をすべて支払っていった、とも教えてくれた。
どんな気持ちでつけ払いをしたかはわからない。しかし、借金を踏み倒さなかったことだけは事実だ。
◇
苛烈をきわめた反対派の弾圧。クルド人に対する毒ガス攻撃。
サダムの犯した罪は大きい。
それは否定できない事実でもあるが、その極悪非道の犯罪者が看護兵のエリス氏に垣間見せた「人間性」もまた、無視できない事実であるだろう。
人道に対する罪をおかしたものが、独房で示していた、独裁者に似合わない、ささやかなヒューマニティーのカケラは、彼がおかした「戦争犯罪」の数々とともに、記憶に残すべきことである。
世界の希望はたぶん、そこにある。
「サダム処刑」のあのシーンにわれわれが心乱したわけは、きっとそこにある。
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1981148,00.html
http://news.independent.co.uk/world/middle_east/article2112573.ece
http://news.independent.co.uk/world/fisk/article2112555.ece
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,,1980293,00.html
http://www.commondreams.org/cgi-bin/print.cgi?file=/headlines06/1229-04.htm
http://www.msnbc.msn.com/id/16389128/
http://news.yahoo.com/s/ap/20061228/ap_on_re_mi_ea/iraq_061228005143