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クリント・イーストウッド監督による第二次世界大戦中の硫黄島をめぐる日米の攻防を描いた映画二部作が話題を呼んでいる。映画は双方で二万六千人以上の戦死者を出した激戦と、戦争そのものの不条理さをあぶり出しているが、“玉砕”の島から生き残った、当時十七歳の兵士が見た真実とは。 (竹内洋一)
志願して海軍通信兵となった秋草鶴次さん(79)は一九四四年七月、硫黄島に赴任した。米軍は四五年二月十九日、島南部の海岸から上陸。秋草さんは島内の「玉名山送信所」に勤務しており、そこから米軍上陸を監視していた。島中央部にある南方諸島海軍航空隊本部壕(ごう)(南方空壕)の電信室に米軍の動きを知らせる役目だったからだ。
米軍は二月二十三日、島南部の摺鉢(すりばち)山を攻略し、山の中腹あたりに星条旗を立てた。だが、秋草さんはそれが翌二十四日朝、日章旗に替わっているのを目撃した。すぐさま米軍に撤去され、星条旗に差し替えられたが、なんと翌二十五日朝には再び日の丸がはためいていた。
秋草さんは「有名な星条旗は撮影用に立てられた別のものだと思う」と話す。そして「激しい攻撃にさらされながら、生き残った日本兵が旗を立てたんです。その戦友の気持ちは、半端じゃない。硫黄島を死守しようとした兵士たちの気持ちを伝えたい」と強調する。
二月末には、送信所は米軍の激しい砲撃を受け、通信不能の壊滅状態になった。秋草さんは三月一日夜、戦況を報告するために、南方空壕に向かった。だが、米軍の艦砲射撃の雨にさらされ、一発が秋草さんの左後方で爆発した。
「熱湯を頭からかぶったような感じでした。体全体がジーンとして、痛いのか、かゆいのかも分からない。右手で体中をまさぐっても何も感じない。『あー、首がなくなったかな』と。左手で体を探ったら、首はついていた」
秋草さんは右手の三本の指を失っていた。左足も大けがをしていたが、何とか起き上がり、砲弾の雨をかいくぐって南方空壕前の塹壕(ざんごう)に転げ落ち、同僚兵士に救われた。秋草さんと一緒に本部を目指していた同僚八人のうち五人は即死だった。
南方空壕が制圧されるのも時間の問題だった。三月八日に、秋草さんがいた玉名山地区隊は決死の総攻撃に打って出た。壕では傷病者が取り残された。
「おれも連れて行けと頼んだんだけど、誰も連れて行ってくれなくてね。じゃあ、おれは死なないっていう気持ちになった」
米軍からの攻撃に加え、飢えと渇き、負傷で極限まで追い込まれた日本兵同士の殺し合いも起きた。手りゅう弾で自決する兵士も相次いだ。軍の階級や指揮系統はまったく機能せず、「弱肉強食」の世界になった。
秋草さんは壕の中で独り飢えと渇き、痛みに耐えたが、その後意識を失った。気づいた時には、グアム島の捕虜収容所にいた。その後、ハワイや首都ワシントンなどに移送され、四六年一月四日、船で帰国した。
極限状況を生き抜いた秋草さんはこう振り返る。
「ほかの傷病兵が『苦しい』『痛い』と言っていたら、健常な兵士が『うるさい』と撃つこともあった。傷病兵に歩み寄ったら、食糧目当てに殺しに来たと誤解され、撃たれる可能性もあった。生き地獄だった」
帰国した秋草さんは、不自由な右手に鉛筆を握り、大学ノートや原稿用紙に、自身の体験をつづってきた。その分量は原稿用紙千枚分を超える。この原稿をもとに今月「十七歳の硫黄島」(文芸春秋)を出版した。
「最初は、子どもなり、孫なりが読んでくれればいいという気持ちでした。小学生のころから、復員まですべて書きましたが、自分で書いていても泣けてくることが多いから、これを両親が見たらと思うとこれまで表に出せなかった」
今年、米映画「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」が公開され秋草さんはいずれもみた。
「すごい。必ずしもすべて硫黄島で撮影したわけではないでしょうが、よくできています。特徴をよくとらえている。硫黄島の歴史を風化させないためにも、ありがたいことだと思う」
来年一月には、地元・栃木県足利市の中学校で講演し、戦争の悲惨さを語る。だが、戦死した戦友のために何をどうすべきなのか、今でも悩む。秋草さんは横須賀海軍通信学校の同級生で、硫黄島で命を落とした影山昭二さんに問いかける。
「『影』のことを世に知らせたいが、今はこれしかできないんだ。おれはあと何をしたらいいんだ。どうすればいいんだ。今のところは、これしか浮かばないんだ。これで勘弁してくれ」
■日米同盟強化変質する平和
そして、若くして硫黄島で玉砕した戦友たちのことは「犬死にじゃない。六十年以上続くこの平和の人柱だと思っています。内地の犠牲者も含めた人柱の上に立っている平和。そう思いたいですね」と自身に言い聞かせるように語る。
戦後、日本は米国と同盟関係を結び、自衛隊が米国の戦争を支援するところまで、同盟関係は強化されている。日本が求める「平和」の維持のあり方は確実に変質している。
「先の戦争も“平和のために”ということで始まったんです。八紘一宇(はっこういちう)の精神だとか、東洋平和のために、戦争にかり出されていったんですから。私自身もそういうことで硫黄島に行ったはずなんです。今は米国に押しつけられた平和なのかもしれないけど、平和の路線を敷いてくれたのは事実ですから。そこにどういう枝をつけ、花を咲かせるのかは、今度は日本の側が考えるべきことです」
■日米2万6800人死亡
硫黄島は、小笠原諸島に属し、東京とサイパンのほぼ中間に位置する(地図)。東西約八キロ、南北約四キロ。現在は東京都小笠原村の一部だが、海上自衛隊の基地があり、一般人は許可なく立ち入れない。
太平洋戦争末期の硫黄島は、米国にとっては日本の本土攻撃への足がかりとして、日本にとっては本土へ向かう米軍機の早期警戒基地として重要な拠点だった。
一九四五年二月、米軍が硫黄島に上陸。当初、米軍は五日程度での占領を考えていたが、日本軍の激しい抵抗に阻まれ、戦闘は一カ月以上に及んだ。日本軍は二万一千人の兵のうち、約二万人が死亡。米軍は、約六千八百人が死亡、約二万人が負傷した。
同年二月二十三日、AP通信のカメラマンが、島で一番高い山・摺鉢山で米兵が星条旗を掲げる様子を撮影。この写真を通じて米では硫黄島が広く知られた。
一方、日米ではクリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作の公開をきっかけに、硫黄島への関心が高まっている。
今年十月に公開された「父親たちの星条旗」は、英雄に祭り上げられ、戦争のプロパガンダに利用される元兵士たちの苦悩を、今月公開された「硫黄島からの手紙」は、戦闘の指揮をとる栗林中将や、新婚の若い兵士ら日本兵の思いを描いている。
「硫黄島からの手紙」は、ニューヨークの全米映画批評会議、ロサンゼルスの映画批評家協会で、いずれも最優秀作品賞を受賞した。
あきくさ・つるじ 1927年、群馬県矢場川村(現・栃木県足利市)生まれ。パイロットにあこがれ飛行兵に志願した後、通信兵に。横須賀海軍通信隊から44年、硫黄島に赴任した。帰還後は、東武鉄道に勤務。現在は足利市で電気保安管理事務所を営む。
<デスクメモ>秋草さんは著書の中で眼前に広がる米軍の巨大艦隊に「神も奇跡も信じられない。なんということをしたんだ。全滅疑いなしだ」と記している。開戦前、栗林中将もそれを自覚していただろう。戦争の悲惨とご都合主義。イーストウッドはブッシュと同じ共和党だが、“今”を見据えて描いたのは間違いない。(蒲)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20061229/mng_____tokuho__000.shtml