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(回答先: Re: ReReRe:テストだべし 投稿者 きすぐれ真一 日時 2008 年 11 月 12 日 01:55:45)
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081027#p1【kom’s log】
27-10-2008
■[memo] ボクタチの闘争 71
「同じ人間だろ」は断固否定しなくてはならない。同じ人間ではない、という基本的な態度をとるべきなのである。
同じではないから、対話が必要なのであり、理解できる部分とできない部分を見極め、合意を形成し、ボトムラインの線引きを行う。ここからここまでは合意に達しましたね、ということで。同じ人間はそもそもありえない。同じ、ということはありえないと絶望しつつも合意が形成できることに僥倖を感じつつそこに社会関係がうまれる。
たとえばこのあたりにみられるように大騒ぎしている某府知事。バカだ、と一蹴すればよい話なのだが、そういっていられるのは実は今日明日の話であって、今後15年ぐらいのスパンで考えれば一蹴するわけにもいかぬ症状である。この人間が考えているのは競争だ。しかもその頭にあるのは、自分を競争という闘争の場から一歩引いて競争とはなにか、競争はこの場面においてあるべきか、といった思想ではない。本人がたとえば目の前にいる高校生と競争しているのである。あらゆる場面においてこの人間には勝つかまけるか、しかない。私人としてジャングルかどこかでやっているなら勝手にしろ、である。あるいは南アフリカの路上で銃をつきつけられて燃え上がっているならば実に頼もしい。だけどこの人の競争相手は、知事であるという立場上公僕として責任を負うべき対象であるところの府民、しかも高校生である。私学助成がなくなったら私は高校にこれ以上通うことができなくなります、知事であるあなたはどうにかしてください、というこれ以上はっきりした説明はありえぬ直訴に対して、その直訴をしかるべく取り計らう責任を持つ知事が「あなたが政治家になって変えてください」といってのける。たぶんこれでこの知事は勝った、つもりなのだと思う。いうまでもない。直訴した高校生はあまりのことにしばし絶句するわけだから。それでもかろうじて「それは私の仕事ではない」と反論した高校生は実に立派、見事である。
さて。なぜこの直訴した高校生に向かって「あなたが政治家になりなさい」と直訴を却下するのが間違っているのか。このメッセージは、時間軸を捻じ曲げている。直訴した高校生は被選挙権を得る年齢まで雌伏し、はれて政治家になって日本を変えてから高校に再入学せよ、という無理難題を吹っかけているのだ。通常このような反論は屁理屈と呼ばれる。屁理屈は競争において強い。なぜならばその場では勝つことができるからである。しかし屁理屈は対話ではない。したがって対話の場たるべき空間において、知事の発言は間違いである。合意が形成されることをはなから否定しているのだ。この某知事の頭に思い描いているのはたぶん競泳のプールのような世界である。それぞれにコースが敷かれ、よーいドン、でいっせいに選手がプールに飛び込む。懸命に腕をかいて息継ぎをしながら水面を突き進む。両隣のコースを泳ぐほかの選手の位置を息継ぎのたびに一瞬確認しながら、あ、負けそうだ、なんとかがんばらなければ入賞することはできない。腕に乳酸がたまり始めているが、懸命になって水をかく腕と手に力を込める。あとちょっと、あとちょっとだ…。某知事はあらゆる場面でこうした競争を行っている。ただし無分別ではない。たとえば高校生に向かって意気揚々と、競争こそが社会である、現実であると説く姿を眺めれば、自分よりも弱い人間であること、競争においてすでに差がついていることを確認してから競争を行っていることがわかるだろう。せこい話だが確かに喧嘩の必勝原理のひとつは勝つとわかっている相手としか喧嘩をしないということである。
とはいえ、こうした某知事の卑怯さは実はあまり問題ではない。バカにされて終わり、という人格の問題である。より大きな問題は、この某知事が高校生に対し君もボクも同じ競争の場にいるライバルである、という幻想を振りまいている点である。「あなたが政治家になりなさい」という人間の成長の不可逆性と時間軸を無視した屁理屈は、その背後にあるライバルという他者認識なくしてはでることのない言葉だ。みんな競争しているんだ、僕も君も競争しているんだよ。だから負けそうなキミにエールを送ろう。僕もこんなにがんばっている、だからキミもがんんばれ。やさしく言えばそんなことになるだろうか。いわば戦友としてのエールだ。しかしそこは戦場ではない。普通の人間は生活しているのであって、知事のように自ら招いた四面楚歌でわら人形その他大勢を相手に戦っているのではないのである。万人よ、四面楚歌を招聘せよ。万人の万人に対する闘争、とはよくいったものであるが、地方共同体の長が万人の万人に対する闘争を煽ってどうしようというのか。
万人の万人に対する闘争、とは裏返せば万人が闘争において平等である、ということである。闘う、という点において平等なのである。それはそうだ。世界の誰でもたとえば前田日明に闘争を申し込むことはできる。この点においてあらゆる人間は平等でありライバルになりうる。ポテンシャルがある。この点においてすべての人間は目を輝かすことができるかもしれない。そう、いつだってオレは・ワタシは前田日明と戦うことができるんだ!でもそんなふうにその平等な機会に目を輝かす人間はあまりいない。通常の人間は前田日明を殴り倒すことはほぼ不可能である。前田日明をひとめ見れば、あ、こりゃあかん。まともな判断力がはたらいて、そう判断する。あるいは前田日明が「みなさん、誰でもぼくと戦うことができますよ!」と声を上げたとしよう。その答えは「ご冗談でしょう!」が妥当である。
前田日明に対して挑戦状を送りつける平等を国家が保証したとしても、われわれは平等とはいえない。それは一種の冗談である。しかしながら万人の万人に対する闘争=平等原理は跋扈している。のっぺりと舗装された闘争のグラウンドが広がっている。スイミング・プールとしての世界。今回例に挙げた愚かな知事だけではない(註1)。ある場所ではそれを私は「文革2008」と呼び、別の場所では「ニコ現」と呼んだ。あるいは人民共同戦線を謳う<佐藤優現象>。半身不随の辺見庸が金融不安に際しかつての「鵺のような」なる文学的表現からさらに一歩踏み込んで国家社会主義の再来に警鐘を鳴らすのも無理はない。あまりにもすべてのタイミングがよすぎる、のである。あと必要なのは万人の万人に対する闘争=平等原理をあまねく照らし出す大いなる存在(いわずもがな、でも今回は戦前とは違うだろう)、ぐらいだろうか。
だから最初に戻る。「同じ人間だろ」といわれたら断固否定せよ。「わかるだろ」としなだれかかられたら拒否せよ。あるいは「ボクらはみんな闘っている」といわれたら却下せよ。ただ、わたしは違う、と。
註1:あるいはこの知事は自らは競争を勝ち抜いた前田日明であると思い込んでいるフシがあるが。