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ヴィトゲンシュタイン 「私の言葉の境界が、私の世界の境界を意味する」 = NBonline
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20071001/136489/
大事な話が相手に伝わらないもどかしさを感じたことはありませんか?
話しが大事な時に限って、同じ言葉を使いながら、内容の理解が肝心なところですれ違う。マーフィーの法則ではないが、こんな経験をした方は僕だけではないだろう。この(話しが伝わない)原因はいったい何なのだろうか?
【1】言葉はそもそも多義である(辞書を引くと意味はたくさんある)、【2】文脈によって言葉は違う意味になる、【3】人によって言葉の意味が違う、などいくつか原因は考えられるが、僕は【3】人によって言葉の意味が違う、という性質が主犯ではないか、とにらんでいる。
とは言うものの、僕も、学校教育の強烈な刷り込みのせいか、若い時分は、言葉はある意味を定義しているものだと思い込んでいた。しかも、困ったことに、通じないのは相手が言葉の意味を理解できないのだと、本気で疑っていたのだから、相当の重症だったと言える。
しかしながら、仕事を続けていけば、次第に「言葉は曲者だ、人が違えば言葉の意味も違うもんだ」と気づくものである。しばらくすれば、言葉とは、
1. なんとなくは通じるが、
2. 人、文脈、時代とともに、意味に変容があり、
3. 意味の定義まで問われると、易々とは分かり合えない
ものだな、という程度には分別がつくようになる。そして、そう思えてくる頃には、唯一の答えがないように、唯一の言葉の体系もないことくらいは諦めがついてくる。
ただ、そう理解はしても、人間は易きに流れるものだ。当時の僕はといえば、「手っ取り早く真似すれば良い教科書みたいな「言葉のセット」の手本はないか」と、横着にもそう考えていた。
そんな問題意識の頃、今日のこの一言と出会うことになる。
ん? 一つ一つの言葉の意味は分らんではないが、文全体が何を意味しているのか分らない。おそらく、この辺が読者の正直な感想ではないだろうか。でも大丈夫。みんな同類である。ヴィトゲンシュタインは難解極まりない。彼の本を読んだことのある人なら、誰もが一度はそう思うだろう。正直、僕は今でも全体の内容が分かるとはとても言えない。
しかし、そんな難解な文章でも、一文だけなら、ある日、何かをきっかけに頭を離れなくなることもあるのだから面白いものである。しかも、要した時間は数秒である。ということで、この数秒を順に思い出してみよう。
まずは、通勤電車の中で立ったまま、カバンからヴィトゲンシュタインの著書を取り出し、読むというよりは、ただ、ぼーっと眺めている。すると、マイクロソフトの「ワード」のアウトライン機能を用いたような文体がヴィトゲンシュタインの特徴なのだが、その項目番号が5.6に差しかかった時、今日のこの短い1文に目が留まる。次の瞬間、
という1人称の2つのフレーズに展開され、まったく単刀直入に、
僕の思考=僕の言葉
という等式がメモに書き込まれる。そして、この等式に刺激をされたのか、頭の中で、次のような思考が展開する。
この時、自分の思考を経由しない言葉が、どうして空虚なのか、その理由がはっきりとする。一方で、まだ不明瞭ないことがあるのに気づく。思考に微妙な違和感が残るような感覚だ。「思考とは言葉の奴隷である」という概念は、僕の常識となにかが違うのである。
まもなく、この概念が、僕の思い込んでいる因果関係とは順序が逆なのに気づく。それまで、なんとなく、思考した結果が言葉だと思っていた。実は、この「なんとなく」こそが、思考の邪魔物なのだが、それはさておき、僕の思い込んでいた順序は、「思考が先で→言葉が後」だった。
一方で、この概念の因果関係の順序は逆である。この概念では、言葉を操ることが思考である。極論すれば、言葉が明瞭になることを思考といってもいいくらいだ。つまり、順序は、聖書の「まず言葉ありき」ではないが、「言葉→思考」なのだ。
さらにいえば、言葉は、この思考(言葉が明瞭になる過程)を経て、さらに切れ味のいい思考の道具として磨かれていくという、持ちつ持たれつの関係さえみえてくる。
つまり、言葉→思考(言葉の明瞭化)→新しい言葉→思考(言葉の明瞭化)→・・・と、無限に続く思考の流れが「考える」ということなのだ。まさに、思考とは自分の言葉つくりそのものだ。
さて、ここまでが決定的な数秒間のコマ送りであるが、こうなると、必然的に、諦めざるをえないことがでてくる。そう、手っ取り早く手本となる「言葉のセット」を捜し出し、コピーしようとした、僕の幼稚な企てのことである。真面目で賢い人には自明だったのかもしれないが、
人の思考を経由した言葉を、そのまま、僕の言葉として移植することはできない
要するに、自分の言葉を構築する近道はないのである。30歳にもならない当時の僕にとって、これはそれなりのショックだった。しかし、やがて思考停止の時期が過ぎ、徹底的に落ち込むと、諦めの境地にでもいくのだろう。気分一新とまではいかないが、できることから始めるか、と半ばやけくそではあるが、頭を入れ替えて考えることができるようになる。
そうして、具体的に始めることになった一つが、すでに紹介したサブノートの習慣だが、最後は、教訓から持論へ、今日の格言から「自分の言葉」を引き出して終わりにすることにしよう。
「言葉を大切にして、思考の足場となる自分の言葉を作れ」
僕の言葉ではこんなところだが、皆さんは、今日のメッセージからどんな言葉を引き出せただろうか?
(続く)