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(回答先: テスト 投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 10 月 01 日 19:51:48)
規制緩和 - 何をもたらすか(内橋克人,ジェーン・ケルシー,大脇雅子,中野麻美 著,1998年)より
すり替えられた規制緩和 内橋克人
規制緩和に反対すると非国民扱い>
私は、ジャーナリスト生活を始めて四〇年になります。その間に、一九六〇年代半ばの資本・貿易自由化もありましたし、一九七三年秋に始まったオイルショックもありました。また、それにつづく第一次の円高が、日本経済を直撃するなど、さまざまな困難に見舞われる日本を見てまいりました。しかし、その都度、多くの人々が汗と知恵をふりしぼって、何とか、危機を乗り切ることができたと思います。
ところが、九〇年代を迎え、バブル経済が崩壊致しましてから、私たちの社会はきわめて深刻な不祝に突入しました。この不況は、一般にいわれる資本主義経済に特有の、循環型不況とは趣を異にしているということです。危機の真因は、きわめて構造的なものであり、過去、日本をして経済大国たらしめた構造そのものが、今度は、日本の行き詰まりを招いているということです(私は従来より、私たちの国は生活大国になれない道を選んだからこそ、経済大国にたり得たのだと主張してまいりましたが)。
私は、九七年より、公正取引委員会の「政府規制研」に参加してまいりました。そこで議論されていることは、再販価格維持制度の存続の是非をめぐる検討です。再販価格維持制度というのは、書店あるいは新聞販売店が、新聞杜あるいは出版杜から最終の消費者に、予め決められた値段を守って販売する制度のことです。この制度のあるお陰で、遠隔の過疎地や地方で新聞を宅配してもらう料金と、便利な都市での購読料金が同一に保たれ、戸別配達が維持されているわけです。けれども、再販廃止論者たちは、地方と都市での値段が同じであるのはけしからんと、主張します。これはつまり、私たちが、民主社会に生きて、たとえば代表としての政治家を選ぶに際してその判断を下すのに必要な情報の対価が、地方に住めば住むほど高くなってもそれはやむをえない、コストが高く付いたところで高く売るのが正当な市場原理である、という理屈です。
再販制度が廃止されれば、中小零細な書店はなかなか経営が立ち行かない。本当にいい本が、世の中に流通しない。新聞についても、全国同一水準での戸別配達制度が成り立たない時代の到来が当然予想されます。
それでもなお、市場原理の例外なき貫徹こそが正義だ、日本人の幸せになる、と彼らは主張をつづけています。そうした彼らの論理からすれば、今日、ここにお集まりになっているみなさん方は、古い「既得権」にしがみつくけしからん人々だ、ということになります。
もう二、三年程前になりますか、『なぜ規制緩和は進まないか』というテレビ討論番組がありました。番組には私も登場致しましたが、要するに、規制緩和はすべて正しく、望ましいものだ、それがどうして進まないのか、というアングルでした。
新聞、テレビ、公共放送など、ほとんどのメディアがこうしたアングルで制作され、世の中を覆ってしまったわけです。最近の番組を拝見しておりましても、登場する経済学者あるいはエコノミストらはいずれも強烈な規制緩和論者です。とりわけ、行政改革委員会の規制緩和小委員会のメンバーなどが、金融ビッグバンについての解説、あるいはまた規制緩和に関連するメディアに相次いで登場しております。規制緩和をやらなければ日本は世界に遅れていく、国際競争力が弱くなってしまう、景気は回復しない、新しい産業フロンティアも開けない、そういう雰囲気がどんどん作られております。
恋愛は美しき誤解によって成立し、結婚は真実を見る目によって破壊されるといいますが、日本におきましては規制緩和に関しましても、美しき誤解によって、一世を風靡しやがて地獄を見ることによって初めて人々はその本質を知ることになるのではないでしょうか。
企業行動完全自由化要求運動
そこでまず、日本における規制緩和はどういう特徴をもって進んできたのか、項目に分けながらお話をしたいと思います。
戦後、わが国におきましては、経済民主主義が大変強調されてまいりましたけれども、現実には、今に至るまで
官僚独裁、行政独裁の構造
が大変長く続いてきました。何事も官僚、行政の裁量下にありまして、民は官のお伺いを立てなけれぼ物事を成すことができない状況です。こうした現実へのアンチテーゼとして、真の意味での民主的な社会を再構築するには、何よりもまず、行政官僚が掌握しておりました権力を民に再配分することが至上命題であり、規制緩和はそのための方策なのだ、と私たちは説得されてきました。
ところが、官から民へ、という権力の再配分の向かう先は、民は民でも市民ではなく巨大な民間企業に権限を移そうという方向であり、それがあっという間に進んでしまいました。国家権力の再配分先には市民はいうまでもなく、中小零細企業も、中小零細な商店も入っておりません。つまり規制緩和によってダメージを受ける当事者がすべて排除されたまま政策プログラムは進んでいるのです。その本質を一言で申しますと、いま進みつつある規制緩和とは経団連傘下にある巨大なる企業にとっての企業行動完全自由化要求運動にほかならないというべきです。経団連とは、いうまでもなく、五五年体制下の自民党支配を政治献金などによって支えた財界の組織です。私はこの現実を「すり替えられた規制緩和と呼んでおります。
四〇年間、日本経済を見てまいりました私には、長らく経団連が主張してきたことが今、規制緩和の名の下に、一挙に、あれもこれも実現されようとしていることが、とてもよく分かります。権力の多くが、官から民へと移る代わりに、官から業へ移っているというのが偽らざる実態です。
これまで日本社会の大きな弊害として、鉄のトライアングルと呼ばれる構造がさんざん取り上げられてまいりました。政、官、業の癒着です。今、これを打破しなければならないのに、政から官へ、官から業へと、その三者の仲間うちで権力、権限が回されている。
そうした中で、今、ショウケツを極めておりますのが、「規制元凶説」というものです。日本経済が活力を失い、成長力を衰弱させているのも、すべて規制が悪い、という議論です。そこから「例外なき規制緩和」というキャッチフレーズが飛び出してきました。
最近では、私どもの議論に影響を受げて、規制緩和一辺倒は必ずしもよろしくない、経済的規制は撤廃しろ、社会的規制は置いておけ、というふうな議論も出てきてはおりますが、こうしたささやかな抵抗などはすでに規制緩和推進論者があっさりと論破しておるところです。先般、NHKのETV特集で、三日間にわたって評論家の堺屋太一さんが規制緩和、構造改革について論じておりました。その中で主張されているもっとも大きな柱は、経済的規制も社会的規制も区別は無い、社会的規制という名の経済的規制がはびこっているんだから、という議論でした。いまは要するに「例外なき規制緩和」こそが社会正義なのです。
次に、二番目の特徴に移りたいと思います。
現代日本社会を覆っている行政、官僚に対する反感と反発、批判、これを追い風としているということです。要するに日本の行政組織と官僚が悪いんだ、これを征伐しなければならないという。こうした一般社会の雰囲気を追い風として、いつの間にか規制緩和は社会的正義となった。規制緩和に反対をすると、社会正義に刃向かう輩、ということになるわけです。いってみれば、戦前、戦時の国民精神作興運動に同じでしょう。日本において、何か出来事が起こりますと、たちまち精神運動に高められていく。
それとともに、行政独裁に代わって、アッという間に市場競争原理至上主義が登場し、今度は「自己責任原則」というスローガンが掲げられるようになりまた。この二つは、むろん裏腹の関係です。いま進みつつある規制緩和のもとで、庶民に強要される「自己責任」とはどういうものか。
たとえていえば、従来ですと、自宅が強盗にやられたと致しますと、悪いのは強盗だと誰もが考えた。ところがそのうち今度は、いや、鍵を掛け忘れたお前も悪い、ということになり始めた。お前も悪いといっている間はまだよかったのですが、今ではさらに、鍵を掛け忘れたおまえが悪い、と被害者の方が責められる社会が来ようとしています。
まもなく、「ぺイオフ」の時代が始まります。個人が一つの金融機関に一〇〇〇万円を超えて預金をしておりますと、万一その銀行が倒産に陥つた場合、一〇〇〇万円を超える分は戻ってきません。二〇〇〇万円までは預金保険機構の保険によってカバーされるけれども、それ以上は自己責任だ、そんな銀行に預けたお前が悪いんだ、とそういう社会になろうとしている。これが、自己責任であります。
このように、いまになって声高に叫ばれる自己責任論というものについても、私たちは、真の意味というものをきちんと見抜くことが大事だと思います。
いうまでもなく、真の意味での、規制緩和は進めなけれなりません。あまりにも過剰に行政官僚の手に集中した権限、すなわち規制というものを取り払つて、権限を市民の手に移していかなけれなりません。そのための規制緩和は、必要です。しかし、残念ながら、その規制緩和があっという間にすり替えられて、
政、官、業の内輪の、権力の仲間回しの規制緩和が進んでいると指摘したいのが私の二番目の主張です。
それから、三番目です。いま、私たちの社会で進みつつある規制緩和については、光の部分、いわゆる薬の効果の面だけが強調され過ぎている。規制緩和さえすれば不況から脱出できる、新しい技術が開発され、産業フロンティアが開ける、人間の自由な創造力が解放され、これまで個人を縛ってきた桎梏からも自由になれる、そういうイメージで語られます。けれども、たとえ官から業への規制緩和でありましても、その中にはもちろん、薬でいいますと副作用がある訳です。その
副作用についてはほとんど全く触れられていない。
たとえば、私たちは、力の大と小の間の公正な競争とは何か、公正な競争を確保できる制度のある社会を望んできたわけです。たとえば、巨大な資本もあれば、同時に中小零細な地方の商店街もある。そういう商店街の零細な自営業と、欧米の資本とも十分対抗できるような巨大な流通資本とが、同じ土俵の上で、剥き出しの競争をすればどうなるかについて、多くの経験を持っています。ですからこそ、作り上げてまいりましたのが、「調整」の精神を軸に据えた、社会的調整のための各種の制度でした。
大規模小売店舗法(大店法)もその一つとして生まれたものだと思います。その大店法も、今や市場の自由をそこなうということで、完全撤廃に向けて進んでいます。
壊滅する商店街
ところで、そうしたことの結果、いま日本社会で何が進んでいるのでしょうか。もう少し具体的な現実をみていきましょう。
みなさん方は多分、本日は雇用・労働という、限られた分野に限っての問題意識でもってお集まりになっている方が多いのではないでしょうか。しかし、雇用・労働は重要なテーマではありますが、その雇用・労働における規制緩和に異を唱えようとするみなさん方は、同時に消費者なのであり、その消費者であることの中身とはいったいどのようなものでしようか。仮にみなさん方が日々、単にモノの値段が安ければいいのだという消費行動、あるいは、何かといえば便利な車で行動する、というような生活スタイルを日常のものとしておれば、そのような生活行動が「消費者主権論」を勢いづかせている訳です。
ここに、『岩手日報』という地方紙の全面広告があります。九七年六月三日の紙面です。私はここのところ全国の商店街をずっと歩いており、むろん、この盛岡の街にも行ってまいりました。いまその盛岡で何が起こっているでしょうか。
この全面広告は「盛岡の街を守りたい」、という訴えです。いったいだれから街を守りたいのか。巨大ショッピングセンターの進出からです。みなさんも消費者として日常的に買い物なさるでしょう。クルマを飛ばして郊外の超マンモスのショッピングセンターへ出かけるでしよう。その巨大ショッピングセンターがいま境制緩和の名の下で、日本全国で何をしようとしているでしょうか。
この全面広告には、樹と水の都、盛岡を守りたいと書いてあります。「みんなが育んできた美しい町が巨大ショッピングセンター(SC)の進出で失われようとしています」「
あまりにも無謀な大きさ
です」「言わば、既におなかが満ちている赤ちゃん、その口に、無理やり三本の哺乳瓶を突っ込むようなものです」、と書いてあります。内容を読みますと、とてもいい文章です。
何が起ころうとしているのか。状況を紹介しましよう。計画によりますと、東北自動車道のインターチェンジに沿って、三つの巨大なショッピングセンター、が生まれようとしているということです。たとえば、その内の一つ、ダイエーのショッピングセンター計画の大きさは、売り場面積だげで一〇万平方メートルです。残りの二つのSC(ショッピングセンター)を合わせまして、合計実に一八万平方メートルです。一八万平方メートルの売り場面積が、どれほど大きいものか。少しでも事情に明るい人ならたちまち仰天するでしょう。これまで、盛岡の商圏において営業を営んできた小売店は全部で四〇〇〇店を超えます。その四〇〇〇店の売り場面積の合計が、一五万平方メートルです。四〇〇〇店の合計面積を二割以上上回るほどの巨大なショッピングセンターが、しかも車を使わなければ行けないような郊外に、三拠点もできる。私は、そのなかの一つに、現地まで行ってまいりました。
盛岡の方々は、岩手山(盛岡市北部、標高二〇四〇メートル。岩手富士とも呼ばれる)を、とても愛しています。私たちがまいりましたときも、山の頂上の辺りは、黒味を帯びた夏の雲ですね、夕立でも降るんでしょうか、夕立雲の垂れこめる風景の中の岩手山は大変に美しい姿でした。その岩手山を遠望しながら広い国道に沿って、豊かな田んぼがどこまでも広がり、いまを盛りとばかり早稲が、頭を垂れて黄色く色付いておりました。こんな素晴らしい風景の、そのどまん中に巨大ショッピングセンターができる訳です。その田園地帯は実は巨額の税金を投入して育んできた農業振興地域です。その田んぼをすべてアスファルトで埋め尽くし、最低五〇〇〇台の駐車場を造る計画になっております。盛岡市街地から車でわずか一五分位の地点です。
市民は、盛岡には盛岡の伝統がある、宮沢賢治の碑が至る所に見られるような街の、そして独特の雰囲気をもつ商店街が危機感に襲われ、一般市民もまた、これに歯止めをかけたい、街を守りたい、と訴えるのは当然のことではないでしょうか。
規制緩和を主張する人々は、「消費者主権」、「消費者の利益」という言葉を大々的に叫びます。零細な小売店が複雑な流通経路を経てモノを売るから日本は高コスト体質になるんだ。だから、中小零細な小売店の集合体である商店街など早く潰してしまえ、大規模ショッピングセンターに集中するほうが、日本の高コスト体質の解決にプラスになると広言しています。その論拠の一つが、小売店の生産性の低さだということです。
やはりNHKの番組で、私はある規制緩和論者と討論致しましたけれども、その時、彼が持ち出してきたデータは、多くがこの生産性。国際的に見て、日本の流通業界の生産性がいかに低いか、というものでした。
私は、では、あなたのおっしゃる生産性の数値の中に、何が入っていて、何が入っていないでしょうか、と反論したわけです。たとえば、地域の商店街は、過去、どのような形で地域社会とつながってきたでしょうか。たとえば祭りをやる、お御輿を担ぐ、これなど生産性の数値からすれば、マイナスばかりです。私が今住んでおります地域におきましては、いまだ御用聞きがあります。電話によって、御用聞きをする、あるいは奥さんが午前中、住宅街のお得意さんを歩いて、その日の注文をとってきます。そして、魚の半身一枚、夕刻に届けて来る。私は別にその事だけが大事だといっているのではありません。そのような地域社会をケアする、という営みは、生産性という数字の中のどこにカウントするのか。地域杜会に貢献すればするほど生産性などという数値はマイナスになってしまう。
地域の商店街の果たしてきた社会的役割について、そのような経済学者はどう考えているのか、それを問うているのです。以上のような現実は、経済学者のいう生産性という数字のどこに入ってくるのでしょうか。
再販制の問題を検討する公正取引委員会においても、多くの人々は、「新聞再販は消費者の利益に反する」といいます。ではいったい消費者とは誰なんでしょうか。
口を開けば、消費者の利益ということを正義の御旗として押し立てますが、盛岡の事例からも分かりますように、いま消費者と生活者、消費者と市民が、対立しているのが現実ではないのですか。
こうした集まりで、いつも思うことがあります、行政が縦割りでタコ壷だ、といいますが、市民運動もまたタコ壷ではないのか、と。環境は環境、労働は労働、教育は教育。みんな分かれてバラバラに孤立しています。それでお互いに、俺たちだけが大変なことをやってるんだ、と思い込んでしまう。
インテグリティという言葉があります。全体的な整合性という意味ですが、私たちの思想、行動もこのインテグリティをもたなければ、結局、やられてしまうでしょう。もし規制緩和に異議を唱えるのであれば、雇用・労働という限られた平面だけでどれほど大きな声で叫んでみても、最終的には押し潰されてしまうでしょう。
「市民主義」に対峙する「市場主義」
終わりに、いま進みつつある事態について、さらに二点、軽視できない背景事情に触れておきたいと思います。
第一に、一九七八年の航空自由化に始まったアメリカのディレギュレーション、つまり規制緩和の流れは、その後、「市場原理至上主義」として世界経済に決定的な影響を与える一種のイデオロギーにまで高められていく訳ですが、その論理的根拠はシカゴ学派と呼ぼれる経済学、すなわち 新古典派経済学(新自由主義学派とも呼ぱれている)によって築かれた、という事実です。つまり、背景には経済学の一学派が存在するということです。
それは、ケインズ理論を基礎とするニューエコノミックスに対立して、ミルトン・フリードマン米シカゴ大学教授らによって唱導されつつ登場し、たちまち全米の学会を席巻するに至る学派ですが、何よりも、自由な価格機能の復活、市場機能の絶対視、通貨供給量の重視、そしていわゆる「小さな政府」を最善のものとする理論において、他の学派とは決定的に違っていること、などに特徴をみることができるでしょう。
一言でいえば、何事も市場に委ねさえすればうまくいく、市場機能の働きによって最適の資源配分が達成される、というもので、雇用・労働もまたその例外ではありません。
レーガン政権の時代、この新古典派経済学は現実の経済政策形成の場において強い影響力、発言力を発揮しつつ興隆し、やがて全米の経済学を制圧していったといわれます。
現在では、世界銀行、IMF(国際通貨基金)などが、経済危機に瀕した新興工業国、開発途上国を救済する、という国際的な経済活動の分野においても、新古典派経済学がべースとなって「新古典派型開発戦略」がとられるようになりました。したがって、経済援助の条件として「国営企業の民営化」「政府介入余地の縮小」「投資環境の整備」「賃金コストの抑制」などが義務づけられるようになっているわけです。
これがすなわちビッグバン・アプローチと呼ばれるものです。
日本の経済学と経済学者がその影響を受けないはずがありません。学問的影響どころではなく、その口移しともいえるほどの“そっくりさん”がたちまち猛威を振るうに至った、といえるでしょう。元祖を上回る「規制緩和一辺倒論者」「市場競争原理至上主義者」が多くの大学に輩出し、今日、キャンパスで石を投げると新古典派の大小の経済学者に当たる、といわれるまでになった。彼らが日本における規制緩和の強烈な唱導者となってメディアに頻繁に登場し、大衆説得に力を発揮している。当然、予測された事態であったというべきでしょうが・・・。
第二に、重要なことはこのような理論的根拠をもつ新古典派経済学がまさに日本財界・経済界にとって好ましいばかりでなく、期せずして新しい理論武装のための最強の武器になり得たという事実です。
この点についていま少し詳しく掘り下げておく必要があるでしょう。
日本の財界は長い間、「自由経済を守る」という大義名分を全面に押し出すことによって、多くの日本的な経済の仕組みを保持してきました。たとえば経団連を介しての特定の政権政党に対する政治献金などは民主主義の原理そのものの否定であるわけですが、「これは自由経済を守るためのコストだ」といって巨額の献金を正当化することができたわけです。
ところが、冷戦構造の崩壊によってこのような論理はもはや通用しなくなりました。「自由経済を守る」などといっても、周りの、ほとんどすべてが自由経済、市場経済化し、市場経済が世界全体を包み込む原理になってしまった以上、いったい誰から自由経済を守るのか、ということになるでしょう。冷戦構造の崩壊、旧社会主義圏の崩壊は、同時に、日本の“経団連的論理”の崩壊を意味することにたってしまったのです。
当然、日本の経済界は新たな論理を構築する必要に迫られることになりました。
しかし、望まれる新たな論理は次のような複雑は条件を満たしたものとして立ち現れる必要があったのです。
何よりもまずかつての日米貿易摩擦のように、アメリカの国益に真っ向うから逆らうものであってはならないこと。アメリカ主導のグローバリズム(国際化)の波に棹さすものであってはならないということです。
次に国内では、過去の官主導・行政独裁の政治・経済体制が、すでに限界と矛盾を露呈しつつあるなか、官僚に対する国民の反発は急激に高まっており、したがって新しい論理もそうした「反官僚」感情への同調、つまり官僚への国民の反感と反発に応える方向性に沿ったものになっている必要があったでしょう。
それにもまして、新しい論理は何よりも昨今、急速に高まりつつある「市民主義」への対抗力を十分に備えたものでたければならなかった。市民主義というのは経済の領域に関していえば、企業行動を「市民社会的規制」のもとにおく、という思潮です。
市民主義は、地球環境問題に限らず、街づくりから安全問題まで、広範な社会的責任を企業に迫る体質のものであり、財界からすれば、社会的コストの内部化というさらなる負荷を企業に求める「市民主義」への警戒はきわめて強いものがあったわけです。
市民社会的規制も含むあらゆる規制の撤廃、つまり「例外なき規制緩和」という言葉こそ、以上に述べてきたような事情の集約的表現であったことがよく理解できるのではないでしょうか。
こうして「市民主義」に対峙できる「市場主義」が時代の思潮として、日本経済の主流をなすような財界人の世界に、激しく台頭することになりました。
「市場主義」こそ、以上に述べてきたような、すべての条件に適合していたからにほかなりません。
それはまことに力強い大衆説得力をも兼ね備えた学説であり、反官僚、自由、開放、自立の代名詞として押し立てるのにもっとも好都合の思潮でもあったからです。
加えてバブル崩壊後の、深刻な不況からの脱出を願う中小零細な企業家たち、また一般サラリーマンの人々への説得性においても抜群の力を発揮する思潮でした。
当初、規制緩和が見事な「万能論」として登場してきたのはこういう歴史的背景によっていたということができます。
この戦列にただちにマスコミが馳せ参じたことは繰り返すまでもありません。規制緩和はマスコミにとってもまたお誂え向きのスローガンでした。
やがて運動は「改革」のキャッチフレーズのもとに集約化され、高揚し、結集されていくのですが、いまにして振り返ってみれば「改革」の真意とは何であったのか。
医療改革ひとつ、改革という名の国民負担の増大にほかならなかったことが、もはや見事に証明されている、といえるのではないでしょうか。
「消費者」とは誰か
いま、行革旋風の吹き荒れるなか、職を失う立場の、ごく普通の官庁職員の雇用・労働について、私たちはいったいどう考えるべきなのでしょうか。
官庁職員の人数を減らし、職員の首を切って行政をスリム化しなければ、国民負担がますます重くなるばかりではないか、というような国民感情や論理に対してどう対応するのか。どう考えるのか。「国民感情」という、とらえどころのない、しかし、決して無視できない空気のなかにも人間を労働の材としてしか認識しない「市場主義」がしのび込んでいることを、私たちはシャープに洞察することが望まれていると思います。
同じこと規制緩和をめぐる議論のなかで強調される「消費者利益」についても、いえることです。
大店法撤廃で地方の商店が壊滅しても、郊外の巨大ショッピングセンターで安い買い物ができるようになるからいいではないか、消費者の利益になるではないか、と規制緩和一辺倒論者たちは公言しているわけですが、これに対してタコ壷型の市民運動なら多分、容易に双手をあげることでしょう。
現にガソリン価格をもっと下げろ、クルマ社会をもっと便利にせよ、と熱心に運動を展開している市民団体、消費者団体が各地に数多く存在しているのですから。
タコ壷型思考から脱する、とは具体的にどういうことでしょうか。
たとえば、市場において私たちは「消費者」という言葉に還元されてしまうわけですが、しかし現実には、一人ひとりの個人は「生きる」「働く」「暮らす」の統合体として生存しています。「暮らす」ということの条件をより良くするには、同時に「働く」という条件が良くなってくれなげればならないでしょう。この二つの条件が良くなってこそ、「生きる」という三つ目の条件もまた充実するはずです。
もともと三つの条件はバラバラにあるのではなく、いつも三位一体のものとして現実の中で統合的に展開しているわけですから・・・。具体的にいえば次のようになるでしょう。
たとえば、消費者であれば、モノは何でも安く買えさえすればいいのだ、というのではなく、安いのは結構だけれども、ではいったいこれはなぜ安いのか、そう問う消費者、私はそのような人びとを「自覚的消費者」と呼んできましたが、そのような自覚的消費者を一人でも増やし、また自らも日々の消費行動のなかで目指していくこと、それがすなわち「全体的な整合性(インテグリティ)」を追及する道ではないか、というふうに思います。
実際に、破壊的に値段の安い商品が店頭に並んでいたとして、いったいこれはなぜかくも安いのか、生産者はこれで生産費さえもまかなうことができているのだろうか、あるいはひょっとすると生活費さえもまかなうことができないような条件で、この商品は調達されてきたのではあるまいか。
「開発輸入」の商品であれば、それを生産している第三世界の国の人々は、いったいこのような交易条件で果たしてどんな苦境に陥っているのだろうか、そう問う消費者でなければ、ということではないか、と思うわけです。
安ければそれでいい、中小零細な小売店はつぶれてもよい、駐車場のないような商店街など不便で行けない、しかし、公務員である自分は公務員の整理だけは反対、という論理では、「全体的整合性」を求める運動とはいえず、今日、もはや国民的支持を得ることもむずかしいでしょう。
雇用・労働の規制緩和に異を唱えるのであれば、いま述べましたような「思考の分裂」から如何にして脱却していくのか、そういう大きな課題に取り組んでいくほかに道はない、と思いますが、如何でしょうか。
かつてアメリカではケネディの時代、「消費者・四つの権利」宣言がなされました。四つの権利とは「商品を選択する権利」「安全な商品の提供を受ける権利」「知る権利」、さらに「意見を採り入れさせる権利」というものでした。
「知る権利」ということでいえば、先に紹介したような盛岡の市民は、巨大SCの進出によってこれから先、自分たちの生きるコミュニティがどうなっていくのか、将来の街の運命をも知る権利がある、ということになります。
同時にまた、そのような消費者の権利の中には、巨大なSCの進出で予想される、車による騒音被害や交通渋滞などの環境悪化から、地域社会を守るため巨大流通産業に対して「意見を採り入れさせる権利」も含まれるはずです。
ケネディの時代に行われた「消費者の権利」宣言は、いま日本で唱えられているような、モノを安く買えさえすればそれで消費者の利益は満たされる、というような「消費者主権論」、あるいは一元的な「消費者利益」論とはまったく異なっていることは明らかです。
経済の問題を市場の問題に矮小化する、このような言説によって利益を受けるのは、結局、私たち当の消費者ではなく、巨大SCとか、市場から中小零細な「日本的自営業」を最終的に駆逐してしまう、製造業も含む巨大資本そのもの、ということになり兼ねないでしよう。
消費者とはいったい誰なのか、を問うことが同時に「雇用・労働における規制緩和」の正体を見抜く道に通じるはずです。
以上、まず問題提起として「いまそこにある危機」について話しました。
私たちが、まさにその渦中に生きる一九九〇年代の十年、世界の資本主義・市場経済はどのような内実へ、と変質しつつあるのか。これからのジェーン・ケルシーさんのお話、またそれに続くシンポジウムの中で明らかにされていくことを期待しながら、ひとまず私の話は終わりたいと思います。
ニュージーランドで何が行われたか ジェーン・ケルシー
それはどのようにして始まったのか
日本における規制緩和についての討論に参加して、お話しする場を与えていただいたことに感謝します。外国の方々にお話しするときに、ニュージーランドの経験から得たもっととも重要な教訓としてお教えしたいことがあります。それは、規制緩和のなるべく早い段階で、開かれた、活発な、しかも十分な情報に基づいた議論の場を持たねばならないということです。ニュージーランドではそれがありませんでした。今日は、そのために私たちと私たちの国にどんな結果がもたらされたかということをお話ししたいと思います。
多くの方々は、日本とニュージーランドにいったいどんな共通点があるのかとお考えでしよう。ニュージーランドの面積は日本の三分の二で、人口はわずか三六〇万人にすぎません。これは名古屋とほぼ同じ規模だと聞きました。両国は歴史も、文化も、経済システムや政治、法律のシステムも違い、世界における役割も大きく異なつています。それでも最近は、日本から多くのグループがニュージーランドにやって来ます。経済界、政府、ジャーナリスト、労組活動家、それに女性のグループも一つ訪れました。彼らはニュージーランドは世界の模範だと聞かされてきたのです。OECD(経済協力開発機構)や世界貿易機構、APEC(アジア太平洋経済協力閣僚会議)などの国際組織、「エコノミスト」といった雑誌や、それからもちろん世界中にいるニュージーランド政府代表者たちがそう宣伝しています。
彼らは、ニュージーランドの一三年にわたる規制緩和は成功だったと主張します。しかし、誰のための成功だったかは語りません。ニュージーランドの規制緩和は、資産家と、企業と、外国投資家のエリート層にとっては、間違いなく成功でした。しかしニュージーランドの一般大衆にとっての規制緩和の実態は、これとはまったく異なったものでした。
規制緩和の犠牲になった人々は、大きな対価を支払わされました。とくに、マオリ族(ニュージーランドの先住民)、女性、子どもたち、高齢者は深刻でした。しかし、被害を受けたのはこれらの人々だけではなく、社会そのものが犠牲になったのです。伝統的な価値観は退けられ、共同体意識は利己的な個人主義にとって代わられました。
聞くところによると、現在日本では規制緩和への大きな力が働いていて、多くの人々は規制緩和を良いことだと信じているようです。とくに、官僚があまりに力を持ち過ぎていると大方の人々は考えています。しかし、大切なことは規制緩和とは官僚から市民に権力を移すことではないということを理解することです。それは、社会のエリート層の集団内での権力の移動であり、個人や市民のコントロールの及ばない経済エリートと世界市場の手に権力を与えることを意味しているのです。
規制緩和は市民の力を強めるのではなく、資本と市場を強化するのです。これこそがニュージーランドの経験でした。
今日は、過去一三年間のわが国の経験と、世界でもっとも徹底しているとよくいわれる規制緩和の実情についてお話ししたいと思います。
一九八四年から一九九〇年の、ニュージーランドにおける規制緩和の最初の六年間は、労働党の社会民主主義政権の手で実行されました。これは大変重要です。なぜなら、多くの人はそんなことを予想していなかったからです。私たちはみんな、社会問題や反核問題に目を奪われ、経済の場で何が起ころうとしているのか知らなかったし、知ろうともしなかつたのです。しかし経済の場で起きたことが、後になって社会政策や労働政策や、私たちの暮らにのしかかってくることになります。
労働党は伝統的な哲学を捨て、伝統的な支持層を切り捨てることを決定しました。しばらくの間は労働党は新富裕層の支持を得ましたが、やがて彼らからも見捨てられました。そして一九九〇年、保守党である国民党が政権につきました。彼らは労働党が始めた規制緩和を継続し、それを新たな分野にまで拡大しました。
ニュージーランドの規制緩和、一つの実験でした。一九八四年以降に実行された政策は、理論に基づいてなされました。その理論を裏付ける研究も、起こりうべき結果に対する調査もありませんでした。これを実行したのは、政治家と役人の少数のグループで、彼らはニュージーランドに革命を起こすことが自分たちの責任だと思い込んでいました。変革を起こすこと肝心であり、そのための政治的、社会的犠牲は意に介しませんでした。彼らは心から、それが国家と国民にとってよいことだと信じたのです。いろいろな意味で彼らは宗教信者に似ています。
政府における推進役は大蔵省で、これは政府部内で唯一、拡大を続けた部門です。議会という民主的な討議の場を回避するために、委員会や機関がたくさん作られました。彼らは民間の大企業の代弁者たちから貴重な支援を取りつけました。ニュージーランドでは経済円卓会議と呼ばれています。日本ではこれと似たもので経団連があると聞きました。
経済は危機状態にあり、だからこそ変革が必要なのだというのが彼らの主張です。経済は危機だと聞かされるたびに、より多くの人々が本当にそうなのだと信じるようになりました。
これは単にニュージーランドだけの現象ではありません。規制緩和に取り組む政治家や官僚を結集した国際的な研究が行われていて、政策実行のための共通の筋書きがあるのです。それによれば、議論をリードする中心的な政治家、官僚、民間人を持つことが非常に重要だとされています。また、ある種の危機感を創出し、人々に他に方法がないと信じさせることが大切だともいっています。さらに、いったん規制緩和のプロセスを開始したら、できるだけ急速に、できるだけ多くの政策分野で事を実行しろと述べています。国民が先週の変化について考えている間に、来週の変化を準備せよというわけです。そうなれば国民はいつも状況対応で、決して議論をリードすることはないというのです。
また、相互に関連したさまざまな分野のすべてにおいて、政策を持たねばならないとされています。つまり、あらゆる政策変更の分野を一つの論理が支えているのです。そのため、将来、これら密接に絡み合った政策のなかの一つを修正することは、非常に困難になるのです。それから、メディアの強力な支持を得ることの重要性も指摘しています。権威者たちが変革支持の論調を張り、これへの批判が片隅に追いやられます。批判する者たちは死滅しゆく恐竜か、国家よりも自分の利益を優先する既得権層だといって退けられるのです。変化を支持する者こそが、無私の人だとされるのです。
ニュージーランドの革命のリーダーたちは今、世界を回って、彼らがいかにして変革を実行したかを各国政府に説き、同じ道を歩むように説いて回っています。彼らはよくいいます。「国民は、何が彼らのためになるかがわからない。だから、事前に事を知らせてはいけない。規制緩和の価値は、それを実行しなければ理解できないのだ」と。このような姿勢がわが国における民主主義の危機を招きました。ところが、あまりに多くの権力が民間部門に移されたため、私たちが勢力を盛り返し、民主主義的政権を作ったとしても、私たちの生活に影響を与える多くの分野で政府は力を行使できないのです。
規制緩和の五つの側面
それでは、どんな変革が実行されたのでしょう。
私たちは今、ニュージーランドで行われたことを構造調整政策だと表現しています。そこには、世界銀行やIMFが第三世界に押しつけた構造調整プログラムのあらゆる要素が含まれています。
そこでニュージーランドの構造調整策の基本的な要素についてお話ししたいと思います。
主として五つの側面があるので、それぞれについて説明します。
最初は経済の規制緩和です。これには地方の農業と産業に対する支援の廃止、援助金の撤廃、安価な輸入品からの保護策の廃止があります。その背景には、支援なしには競争力を保てない産業や農業は消滅しても仕方ないという考えがあります。そして、それらが死に絶えた後に新たな、より競争力のある産業と農業が育つだろうというのです。
また、ニュージーランドは他国からの資本輸入なしには成長できないとして、外国投資に対する規制も撤廃しました。そのため、ニュージーランドのほとんどのインフラストラクチャー、銀行システム、通信、運輸、メディアは今や外国資本が握っています。
経済の規制緩和はまた、企業と金融部門を自主規制にまかせることを意味します。こうすれば、長期的な経済成長が実現されるだろうといい聞かされました。しかし国内経済を顧みると、一九八五年から一九九二年にかけてニュージーラソドが経済不振ないしは不況に陥ったことがわかります。その後三年間、きわめて堅調な経済成長があり、その後また下降線をたどり始めました。九七年の第1四半期は、経済成長はマイナスを記録しました。これはとても健全な経済とはいえません。わが国経済は激しい景気の上下動を繰り返しているのです。
二番目の側面は、国家の制限です。
ニュージーランドはかつて、大きな福祉国家でした。官僚組織は拡大を続け、政府は経済建設できわめて広範な役割を果たしてきました
。こうした政府活動の多くの部分は、民間企業に移され、そこでは利益が求められて社会的責任は捨て去られました。郵便や、電気、林業、その他多くの政府活動がそうです。この過程では大勢の人が失業しましたが、共同体もその多くが消滅し始めました。なぜなら、そうした政府の活動は単に商業的な理由だけでなく、雇用や地域開発や環境、その他それに類似した目的のために設立されていたからです。今や、これら政府活働のほとんどが民営化されています。政府に残った部分も、民間企業と変わらないようになりました。政府の各省庁は、民間会社のごとく仕事をするように求められています。政府職員は、民間企業流のやり方で採用され、その数は一九八七年に比べてたったの半分になりました。政府があまりに縮小されたために、必要な計画策定の多くができません。
教育システムを例にとると、政府は一九八九年に教師の数が多すぎると断じました。そこで、一九九六年にはより多くの教師が必要になるという予測があったにもかかわらず、教師の養成数を削減したのです。九六年、教師の不足は限界に達し、三〇〇人以上の教師を海外から“輸入”しました。彼らは一週間の研修を受け、学校に配置されました。九七年は八八○人の教師を輸入しています。今後数年間に、さらに五〇〇〇人の教師が必要だと予測されています。これを埋め合わせるために政府は、国内における教師の養成期間を縮小し、研修内容を低下させました。同時に、教師の賃上げを拒否したために、毎年一〇%の人がよりましな賃金を求めて退職しているのです。九六年、教師たちがストライキに立ち上がりました。これを親や地域の人々が強力に支持して、一二%の賃上げを獲得しました。ところが政府は、教師の賃上げ分は他の教育予算を削除して埋め合わせたければならないというのです。
三つめの重要な側面は、労働市場の規制緩和です。ニュージーランドでは伝統的に、同じ産業で働く労働者は全国どこでも同率の賃金を得るというシステムにたっていました。この全国協定が、一九九一年に破棄されました。代わって、すべての労働者は彼らと使用者との間で個入契約をしているものとして扱われます。集団的契約は、使用者が同意した場合にのみ締結されます。契約は、労働者と使用者との個人的なものとされ、他の労働者には仲間の賃金額を知る権利はないのです。このため、雇用契約法の影響について調査することも非常にむずかしいのです。
この法律には労働組合という言葉は出てきません。法律上は労働組合は消減したのです。これに代わって、「交渉代理人」という言葉が出てきます。個々の労働者は、使用者と自分で契約交渉してもいいし、代理人にそれを委任してもよいとされています。代理人は弁護士でもコンサルタントでも、使用者ないしは労働組合から推薦を受けた者がなれます。しかし労働組合は、所属組合員の一人一人から委任状を受理しない限り、交渉で組合員のために活動することはできません。だから、交渉のたびごとに、労働組合は全員から委任状を集めねばならないのです。
これは政府職員にも、民間労働者にも同じように適用されます。
この政策の目的は労働者の脱組合化であり、その影響は現れてきました。労働組合加入率は、一九八九年に四四・七%で最高潮に達しました。雇用契約法は、深刻な失業に見まわれた一九九一年の一二月に施行されました。それ以来、労働組合に加入する労働者の数は二二%以下にまで低下したのです。このシステムのもとでは、ほとんどの組合は有効に機能することができません。
現在、一〇人以下の職場ではほとんどの組合は活動できていません。雇用契約法の下ではまた、ストライキの権利が大幅に制限されています。
規制緩和の四つめの側面は、人々にとってなかなか理解しにくいのですが、通貨政策、またはインフレーションのコントロールです。日本では当面はインフレの心配はないでしょうが、ニュージーランドでは、おそらくこれが経済にもっとも重要な影響を与える政策でした。ニュージーランドは非常に高い金利と為替レートによって、インフレを抑制してきました。ニュージーランドの現在の実質金利は七%で、OECD諸国の中では、もっとも高い実質金利です。
ニュージーランドでは完全に規制が撤廃された金融市場と、自由な資本移動が保障されているため、高金利をめぐっての投機資金が出入りしています。これが為替レートを非常に高く押し上げてきました。三ヶ月の短期国債の形で日本とヨーロッパから投資された資金は、九六年の一〇月だけで一五〇〇億円でした。これは、国際的金融業者がニュージーランド経済をきわめて高度に投機の対象としていることを意味します。
為替レートが上昇すれば、国内輸出業者は生き残れません。実質金利が非常に高いまま固定されると、産業への圧力は増大します。借金を抱えた貧困家庭への圧迫も、とても強くなります。ところが法律によって中央銀行は、雇用と生産性への影響は無視して、インフレ率ゼロを目指すこの政策を推し進めなげればならないとされているのです。
外国投資家たちがニュージーランド経済を信用できなかった結果、九七年、突如として投機資金が引き上げられる事態になりました。経済がすでに不況局面に入っていたこの時期での突然の為替レートの下落は、先に延べた悪影響をさらに深刻化させました。わが国は、国際金融業者の利益に大きく左右されるような、非常に不安定な経済となっているのです。
政策変更の最後の側面は、財政政策、または政府予算の問題です。これはいくつかの方法で実行されました。一つは、高額所得の個人と企業に対する減税です。ニュージーランドの最高税率は、現在三三%になっています。政府は減税の代わりとして、食料品を含む全商品に対して消費税を新たに導入しました。これにより、税負担が富裕層から貧困層に移し替えられたのです。
さらに、政府の諸活動に対する支出が、保険・衛生などの分野への実質支出を含めて削減されました。また福祉手当や、失業者、貧困者援助のための支出もカットされました。それから、医療費を含めて政府サービスに新たな料金制度を導入しました。こ
れらすべての政策で過去三年間、国家財政は黒字を生み出したのです。政府はその黒字を、削減した予算の復活ではなく、対外債務の支払いと富裕層へのさらなる減税のために使ってきました。
労働の在り方はどう変わったか
これらの政策による総合的な結果として、単にニュージーランド経済だけでなく、国家の役割と民衆の生活も根本的な変化に見舞われました。そこで今度は、労働者にとって、この変化がどのような影響をもたらしたかをお話しします。
私たちは規制緩和によって雇用機会が増大するといわれてきました。一九八五年のニュージーランドの公式失業率は、一九九二年に一一%を超えて最高水準を記録しました。それが九六年は、五・九%まで低下しました。現在は、再び上昇を見せはじめ、今の公式失業率は六・七%です。私たちが非常に長期間にわたる経験をしていることが、おわかりになると思います。しかし、知っていただきたいのはニュージーランドの公式の定義では、失業者とは一週間に一時間未満しか働いていない人を指すということです。つまり、一週間に一時間ないしそれ以上働いていれば、その人は就業者とみなされるのです。
失業者の苦しみは、平等に与えられているわけではありません。とくにマオリ族の人々へのインパクトは強烈でした。ニュージーランドの先住民たちの失業率は、一九八七年には一〇・八%でしたが、一九九二年には二六%近くまで上昇し、現在も一六・六%となつています。ニュージーランドが労働者不足に困っていたときに、太平洋信託統治諸島から連れてこられた移民労働者たちは、さらに高い失業率を示しており、一九九二年には二九%、現在でも一五%となっています。
一方ヨーロッパ系のニュージーランド人の方は、その失業率ははるかに低く、最高の時で八・一%、現在では四・七%です。
したがって、失業対策としては規制緩和は有効であったとはいえません。しかし同時に、就業の内容も問題です。なぜなら、就業者数の増加の大部分はパートタイム労働だからです。以前に比べて、現在ではパートタィムで働く労働者は一〇万人以上も増えています。そしてパートタイムの就業機会は、二〇万件以上も増加しています。ところがフルタイムで働く人は、一九八七年から一万二〇〇〇人増えているにすぎません。これらの人の多くは複数のフルタイム労働を経験しています。現在のフルタイム就業機会数は、一九八七年から増えていないのです。つまりニュージーランド経済における新たな就業機会の増加は、主としてパートタイム労働であり、そしてパートタイム労働者は女性に偏っています。このことから、全労働力中の男性と女性の比率に重要な変化があることがわかります。働く女性の数は一%近く増大しました。ところが、男性労働者の数は一九八六年より四・五%減少しているのです。
他方では、高所得者層と低所得者層のギャップが拡大していることがわかります。全国協定システムがもはや適用されなくなったため、熟練労働者は高賃金を得る一方で、未熟練労働者やパートタイム労働者には何の保護もありません。このことは、女性労働者と男性労働者の所得格差が一貫して増大してきたことも意味します。この格差は当初からあったのですが、雇用契約法の施行以来、増大してきたのです。
政府は規制緩和によって労働生産性が向上するといってきました。しかし一九九一年以降の平均的な労働生産性は、規制緩和が行われる以前より低下しているのです。昨年の労働生産性は、一・六%低下しました。現在ニュージーランドは、二重労働市場と称される状態にあります。一次的労働市場は、安定雇用の高熟練、高賃金労働者で構成されています。ここでは大きな問題はありません。しかし二次的労働市場には、多くは短期契約やパートタイムの低賃金・未熟練労働者がいて、さらに失業者がいます。彼らは失業と単純労働を頻繁に繰り返します。就業者数が増加したのは、まさにこの二次的労働市場でのことなのです。
家庭の出費は増え続けた
もちろん規制緩和を経験したのは労働者だけではありません。私たちは家族や、各世帯や地域コミュニティで何が起こっているのか、大きな観点でとらえる必要があります。これらの点について少しお話しします。
規制緩和が実行された間、各世帯の収入は、人口の一〇%の高額所得者を除いて、著しく低下しました。民間労働老の場合、インフレ率を勘案して彼らの所得を見てみると、一九八九年以来ほとんど毎年実質賃金は低下しています。公務員労働者の場合は、収入の減少はさらに深刻です。それがあまりにひどいので、九六年には公的部門が機能停止に追い込まれました。すなわち学校や、裁判所、税務署、土地登記所、その他多くの重要な政府サービス機関でストライキが勃発したのです。政府は一定の賃上げに同意しました。ところが、景気が再び悪化したので、これ以上お金は出せないといい出しています。これ以上支出したら財政は赤字になり、したがって富裕層への減税ができないというわけです。
賃金労働に就いていない人に対しては、福祉手当も削減されました。先に述べたように、一九九一年に諸手当は大幅に削減されています。ニュージーランドでは国庫のいろいろな分野からの援助が受けられるために、賃金は一貫して低く押さえられてきたのです。
先にニュージーランドの現在の最低賃金についてお話ししておくべきでした。成人の一時間あたり最低賃金は五二五円です。若年者はその三分の二です。失業手当受給者の受給額は大幅に削減され、若年の失業者にいたっては二五%近くの削減です。疾病給付金の額も厳しくカットされました。母子家庭、また父子家庭への給付金も、大幅にカットです。こうして、世帯当たりの収入は低下していったのです。ところが、世帯の支出額は増えています。先に述べたとおり、実質金利が高いために貧困者、つまり借金を抱えている人はいっそう高い利子を払わねばなりません。しかも、税金まで高くなっているのです。
政府が補助を打ち切ったために、他に重大な変化が起きました。民営化された電力部門は、補助が打ち切られて、電力価格への規制が撤廃されました。電話部門の民営化で、携帯電話や国際電話料金は値下がりしましたが、家庭の出費はこれまた増大です。交通部門の民営化と商業化で航空運賃は値下げになりましたが、公共サービスに頼らざるをえない貧困者が利用する公共交通は、料金値上げです。
しかし、政府の補助削減でもっとも重大だったのは、住宅家賃でしょう。今までニュージーランドは、貧困者を支援するために家賃の補助金を支出してきました。家賃のための出費は、家計の二五%を超えるべきではないとされてきたのです。政府は、今や民間業者のように住宅政策を行っています。多くの貧困家庭は、収入の五〇%以上を家賃に出費しています。住宅問題はニュージーランドの貧困の最大の原因 と見られているのに、政府の住宅会杜は今年(一九九七年)、一億一一〇〇万ドルもの利益をあげたのです。
これに加えて教育部門では、義務教育において「任意負担金」制度が導入されました。富裕地区にある学校は、両親たちから高額の寄付金を得ることができます。貧困地区の学校では、子どもたちに教える前に食べさせなければなりません。貧困地区の学校には教師が来てくれません。子どもに教育を与えることができないのです。
医療や基礎的保険サービスのための新たな保険料が、家計に課せられています。保険システムが後退したために、適確なサービスを得るためには民間保険に契約しなければなりません。実際公立病院さえも、今では民間業者と同じになっています。病院の規制緩和と民営化により、治療待ちの人数は五〇%も増加しました。
かつて国がやってくれたことを自力でできる人は、医療費や年金や教育、それに労働補償金や大学の学費のために、保険をかけたり利用したりできます。ところが貧困者は、生活の質の低下を味あわねばならないのです。そのことはニュージーランドの貧困統計に見ることができます。
貧困という言葉は、ニュージーランドでは一九八四年以前には使われませんでした。何年にもわたる規制緩和の結果、貧困状態で暮らすと見られるニュージーランド人の数は、一九八九年から一九九二年にかけて三五%増加しています。つまり、これらの人々が基本的生活水準に達していないのです。手許にある一九九三年の最新の統計では、六世帯の内一世帯が貧困状態にありますが、子どもの場合は三人に一人が貧困状態で暮らしています。ニュージーランドの若者の自殺率が、OECD諸国のなかで最高なのは驚くにあたいしません。
政府は、貧困状態の人は自立して生きていくべきで、それができなげれば慈善事業に頼るしかないといいます。ニュージーランドでは、貧困者のために食料の包みを与える、いわゆる慈善食料銀行の数が増えました。一九九三年には、二五〇〇万ドル分の食料が分け与えられています。この問題は、経済が回復すれぼ解消するのだといわれてきました。九七年は再び不況に陥ったため、食料銀行への需要は増えていると報告されています。こうしたなかでの最大の犠牲者は、女性であり、マオリ族であり、子どもであり、高齢者なのです。
すべての人が参加・所属できるような社会を作るという政府の役割を、単に生存不可能な人のための最低限の保証だけに止めようとする政策の結果として、こうした問題はあります。しかも、その政策自体も行き詰まっているのです。
誰のための規制緩和か
こういうわけで、ニュージーランドの規制緩和は成功だったという人に対しては、誰のための成功なのかと問いかけます。規制緩和は、私たちの社会を危機に陥れました。多くの人々と家族の生活を破壊し、約束していたはずの経済繁栄はどこにもありません。彼らは長期的な幸福のためには、短期的な痛みは仕方ないといいました。私たちは散々痛めつけられましたが、幸福がやってくるとは思えません。
こうした経験を日本で回避することは可能です。しかし、そのためには実状をしっかりと知り、大胆に発言し、そのためのリスクを恐れない心構えを持たねばなりません。そして影響力と力を持った人々が、女性や、少数者や、力を持たない人々といっしょに声をあげる決意が必要なのです。孤立の中で闘っても勝利を得ることはできません。連帯してのみ、勝つことができるのです。そして、なるべく早い段階から闘いに立ち上がることが大切です。ニュージーランドでは、一三年の革命的変化の後で、元に戻ることは不可能です。また私たちの多くはそれを望んでもいません。旧来の官僚制と、福祉国家と、経済体制には多くの問題がありました。私たちに今必要なのは、まったく異なった、私たち自身の世界に向かって、いかに前進するかということです。
みなさんには、私たちのような状況になる前に、違う道を行くチャンスがあります。そこで一番大切なことは、単に規制緩和に反対するだけの議論ではなく、あなたがた自身のオルタナティブな道、日本の民衆の利益>に合致する、よりよい道を提案することです。それに向けてみなさんが建闘されることを祈ります。
・・・・・・
ニュージーランド以上に苛烈な日本の規制緩和
司会
私自身が労働運動の人間ではないのにこんな言い方を許していただけるならば、多分労働運動自体が、やはり個別の利益、個別の権益を守るところからもう一段階、別の位相、普遍性に迫っていかなければならないと思います。
そこで、どういう対案を出して行くかという方向に向けて議論をしていきたいと思います。
ご質問にお答えする前に、遠いニュージーランドからわざわざ来日いただいたジェーン・ケルシーさんに心からお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
ところで、いま、お話しをうかがいながら、私はまるで遺伝子操作で生まれたクローン羊を見るように、両国の状況が全くそっくりだ、ということを、改めて痛感しました。「ニュージーランドの実験」を私たちは反面教師の先行指標として十分に学ばねばならないと思います。
と同時に、日本とニュージーランドとの間に大きな条件の違いがあることも、ここで再確認する必要があるのではないか、と考えました。
それはまず第一に、日本の場合、重大な「日米関係」というものがあるということです。日本の規制緩和に関しましてはアメリカからのプレッシャーがとても大きい。日本は国際的に見まして、貿易収支において大変な黒宇一国貯めこみ構造を形成してきました。ですから「日本市場を開放せよ」というアメリカの強烈な要求が規制緩和旋風の発生源のひとつになっているということです。
規制緩和推進計画は、そもそも細川連立政権の下でスタートしました。
余談になりますが、この連立政権が誕生いたしましたとき、政治学者はじめ多くの知識人は、これでヨーロッパ並みの連立政権時代がいよいよ日本にもやってきた、と高く評価したのに対して、私は、これは政権をバレーボールのボールのように、疑似与党と疑似野党の間で行ったり来たりさせることを真の狙いとする、疑似連立政権の誕生にすぎない、という指摘を復数のメディアで行いました。
いま、振り返ってみて、まさにその疑似野党が以後どのような迷走ぶりを呈しているか、お分かりでしょう。その意味で私は、大脇先生にはたいへんに申し訳ないけれども旧日本社会党の、当時、果たしたマイナスの役割は、残念ながらとても大きかったと思います。
このようにして生まれた細川連立内閣のもとで規制緩和はスタートしたわけです。
日本の政治経済と規制緩和は、以降、どのような経緯をたどっていったでしょうか。
細川内閣が唱えた「政治改革」が、結局、例の小選挙区制に矮小化され、いまになってさまざまな弊害が指摘されるようになっております。けれども当時、とにもかくにも「政治改革」のプログラムを一巡させた細川政権は、次の話題を作る必要に迫られておりました。そこで、どのような手順がとられたのか。何をスローガンとして目をつけたのか。
当時、経済政策研究会、通称「平岩研究会」といわれる細川さんの私的諮問機関があり、東京電力の平岩外四さん(当時会長)が主宰しておりました。どんなメンバーだったのか。官僚OB、財界人、そして軽井沢グループと呼ばれる特定の経済学者たち、そういう人ばかりでした。まさに、この研究会において「例外なき規制緩和」というスローガンが高々といわれ始めた、というのが事の経緯です。
さて、日本とニュージーランドとの事情の相違の第二点は「円高」です。一九九〇年から九一年を皮切りとしたバブル崩壊後の不況の中で、日本経済は資産デフレの進行に加えて「円高」という二重のパンチに見舞われました。急速かつ大幅な円高が突然襲ってきて、円は一時一ドル七〇円台にまで急上昇したわけです。
このラジカルな円高が実はアメリカ政府の手によって誘導されたものであったことが、いまにして明らかになっておりますが、急激な円高への対応を迫られた日本の製造業は、次々と生産拠点を中国やアジアヘ、と移転させていきました。雪崩を打つように日本列島から離脱する産業資本は、まず資本(投下資本=工場の設備などの形態で)の移転を通じて、また他方ではアジアで生産された「日本製アジア製品」(後述)の日本列島への逆流入による「価格破壊」を通じて、日本経済に追い打ちをかけ、不況からの脱出をさらに困難なものにした、という点があげられます。
こうして深刻さを加える経済的困難の解決こそが国民的願望になったわけです。
規制緩和さえすれば不況から脱出でき、景気は良くなる、日米貿易摩擦は解決する、物価は安くなって内外二重価格差は解消し、日本は高コスト体質から脱して再び国際競争力を回復できる、というような「規制緩和万能論」がまことしやかに通用するようになった。
さらに第三に、少し問題は複雑になりますが、大企業をも含む日本企業の、先進国にもまれな低収益構造をあげなければならないでしょう。
残されたフロンティア(未開拓の産業領域)が少なく、悪くすると量産効果を追及するためのコストの方が肝心の量産効果を上回ってしまうような構造に、日本企業は陥っており、そうした中では企業は、これまで手つかずだった「公共」、たとえば自然や景観、安全、また美しい海岸線など、本来、誰のものでもない、国民全体の共有資産というべき領域にまで分け入り、利潤追求の対象に組み入れることで期待収益を向上させる、という手法に、次の活路を求めざるをえなくなっている。こうした事情の重要性をとくにここで指摘しておきたいと思います。
こうして「社会的規制」も含む「例外なき規制緩和」がどうしても必要だ、ということになり、世論づくりが強烈に盛り上げられていった、ということです。
併せて中小零細企業の領域もゲートレス(垣根をはずす)な状態での開放が迫られた。そのためには「調整の思想」(中小企業の事業領域に大企業が資本力にものをいわせて殴り込みをかけたりしない、という考え方)もまた御破算にする必要があった。新たな利益チャンスの源泉を求めて、ということになります。
第四に、すでに触れてきましたように行政独裁ともいえるこの国の政治の現状に対する市民の強い反発があり、それも強い追い風となった。すでに指摘したところです。
国民の間に高まる、このような空気を追い風として「官僚征伐」の装いも凝らした規制緩和が、急速に社会的正義へ、と昇華されていく。むろんその実態は、官僚製規制緩和が進行しているにすぎなかったのですが・・・。
ところで、以上に挙げたなかでも、とりわけ円高不況のもとで進行したアジアヘの「生産拠点の移転」との関係に注目することが重要です。
いま、日本の資本、とりわけ巨大メーカーは多く生産拠点を中国、アジアに移しています。
日本の資本と技術、日本のマネジメントをアジアに持ち出し、そして現地の安価な経営資源、なかでもとくに安い労働力と組み合わせて製品をつくる。私はこれを「日本製アジア製品」と呼んでいるのですが、その本質は、要するにアジア製品と見えて実は形を変えた日本製品であるということ。日本に逆流入させ、ちょっと手を加えれば日本市場でそのまま通用する、あるいは日本製品として輸出できる製品のことです。
いうまでもなく、この「日本製アジア製品」のコスト競争力は抜群に強い。
では、このように価格競争力の強い日本製アジア製品に対して、日本列島から離脱できず日本の中でしかモノづくりを続けるほかにない「日本製日本製品」(日本列島のなかで日本の賃金水準によって製造される商品)はどう対抗していくのでしょうか。
実は、ここにも「雇用・労働の規制緩和」というテーマが企業にとっての必然として急速に浮上してこざるをえなかった大きな理由があるのです。
アッセンブラー(大手の組立産業)のケースを例に話しますと、その一つの方法が“アジア(アジア的なるものを自分の足元に呼び寄せる、というやり方でした。アジアに出ていく代わりに、できるだけ同じような低賃金水準で活用できる外国人労働力を下請け協力工場などに招き入れ、コスト切り下げをはかるという方法です。
アジア的なるもの、つまりはアジアで生産するのとあまり変わらない安い賃金コストで、ということですが、それでもって日本外島のなかでモノづくりを続けていこう、ということです。
外国人労働力も派遣会社からの派遺労働として受け入れ、日本人従業員とは異なった体系の低い賃金で使う。また日本人従業員については、できるだけ常傭雇用を減らし、パートや派遣労働など総労働コストの安い非常傭の雇用に置き換えていく、というやり方が一般化していくようになったわけです。
要するに「雇用・労働版のカンバン方式」といえるでしょう。
このように「日本製日本製品」のコストを、「日本製アジア製品」に合わせて引き下げるためにも「雇用・労働の規制緩和」が資本の側にとっては避けられない課題として浮上してきているわけで、どの国であれ、資本というものは、結局、このような道筋で進んでいく、ということを、私たちはよく見極めてかかる必要があるのではないでしょうか。
だからこそ、冒頭でも話しましたように、たとえば雇用・労働の規制緩和は反対だ、しかし、その他の規制緩和はどうでもよい、モノが安く買えるようになるのなら、むしろ賛成だ、というようなタコ壷型の運動では、大店法廃止の荒波にもまれる中小零細な小売店なども含む多くの人々の支援を獲得することはむずかしく、まして現在の流れに待ったをかけることなど、大変にむずかしい、そういうふうに重ねて強調せざるをえない、ということになるわけです。
グローバリゼーションにいかに対抗していくか
司会
ケルシーさんには、とくに規制緩和とならんでナショナリズムの動きが出ているということに関してはどうなのか。それから労働組合が、ニュージーランドの場合、日本より強かったと思われるのに、なぜ抵抗できなかったか。また、規制緩和に対する総体としてのオルタナティブをどう考えるのか、という三点についてお答えをいただければ、と思います。
ケルシー
ニュージーランドでの経過は、世界的に行われている構造調整策に典型的に見られるものです。そして構造調整策問題がしばしば「ワシントン合意」と称されるのは、根拠のないことではありません。この表現は、新自由主義理論が復活した場所を示すとともに、その理論がもっとも強く推進された場所、とくに世界銀行とIMFのことを指しているのです。
ニュージーランドの経験が示すのは、構造調整策はその実行を強制された国だけで行われるのではなく、ニュージーランドのような国も自主的にそれを行いうるということです。ニュージーランドにはアメリカからの直接的な意味での圧力はなかったにもかかわらず、構造調整理論の重要な実験場となったのです。
こうなった理由のある部分は、ニュージーランドに特有のものです。しかし、ある部分は、資本と企業と増大した金融資本のグローバリゼーションの一環であり、また技術革新と、さらには国際機関と巨大な経済権力の役割の変化に原因があります。
ニュージーランドは、ヨーロッパの保護市場の上に構築された福祉国家でした。そのなかで私たちは経済学を理解していませんでした。左翼陣営のほとんどの人は、社会問題や環境、平和と反核問題に目を向けていて、経済は無視してきました。一八九〇年以来、ニュージーランドでは労使関係は政府と、使用者と、労働組合が合同で調整してきました。労働組合の強力な争議行為はほとんどありませんでした。行動を起こしても、すぐに鎮圧されました。ニュージーランドの政治は、根本的な変革に対抗するには、あまりにも態勢が整っていなかったのです。
この変革が労働党政権によって始められたために、人々が立ち上がるのがさらにむずかしくなりました。労働組合は、自分たちの政党に表立って刃向かうことをためらい、政党内部で方針を変えさせようと試みました。しかし規制緩和を推進する勢力の力は強く、党をガッチリと握っていました。こうして労働組合は、失業による組合員数の減少と、政治的討議の場から排除されることにより、まったく弱体化してしまったのです。
一九九〇年に労働党が敗北し、保守党政権ができると、彼らはただちに雇用契約法を導入しましたが、これに対して主要な労働組合は闘うことを放棄しました。全国的な反対運動を組織するだけの力がないといったのです。今では、それが間違いだったことを認めています。たとえ負けたとしても、ただ黙って死ぬよりは闘うべきだったと考えています。しかし、当時はそうしなかった。このことから人々は、労働組合と労働党に、まったく幻滅してしまいました。
労働党は、自分たちが規制緩和を始めたために、それが失敗だったと認めたくありません。彼らは規制緩和は続けるとしつつも、それに人間的側面を与えるのだといっています。私たちにはどうしてそれが可能なのか、理解できません。
かつて存在した多くの労働組合が、今はありません。拡大している労働組合もありますが、それは、労働組合をビジネスととらえているような組合です。彼らは組合員を、バランスシートの勘定科目の一つと考えています。他の労働組合を乗っ取る彼らのやり方は、もっとも悪辣な使用者のそれと同じです。
規制緩和の一三年がすぎた今、ニュージーランドにおけるこの実験は明らかに失敗だったと多くの人々は考えています。流れが変わり始めているのです。経済界やメディアの中にさえ、こうした計画を選択したことが賢明だったのかと疑問の声が上がっています。
しかし、一般の人々にとっては、彼らの生活に何が起きたのかいまだに正しく理解できず、その反応はきわめて感情的なものになっています。ナショナリズムが高まっているのは、それをもっとも鮮明に示しています。外国からの投資反対、民営化反対、移民反対と叫ぶ人々は、自分たちの生活が部外者にかき回されることに反対しているのです。しかし彼らは、「国の扉をもう一度、閉じろ!」と主張する以外、どうすればそれを実行できるのかがわかりません。もちろん、今となっては国の扉を閉じることなど、できません。外国資本はしっかりと食い込んでいるし、ニュージーランドはGATT(貿易関税一般協定)合意など多くの国際協定に調印していて、その中で現在の姿勢を継続することを約束しているからです。
したがって、私たちに今問われているのは、「規制緩和は間違いだった」と人々がいうときに、いかにして現状に代わる道、人々の苦しみに応えられるような方策についての、建設的な議論を提起できるかということです。
民営化の問題をめぐって、よい例があります。
いまだ完全に民営化されていない分野として、政府所有の林業があります。国民は九六年まで、林業のこれ以上の民営化に強く反対してきました。森林は国内の大企業だけでなく、外国企業に対しても売却されようとしていたからです。森林売却に反対する運動には、労働組合や、自分たちの土地の上に植林されたマオリ族、地域のコミュニテイ、環境保護活動家などが結集しましたが、譲渡をやめさせることはできませんでした。そこで、みんな新しい政権を作れば問題は解決すると確信したのです。そして前回の選挙の結果、選挙公約で民営化反対、外国投資反対を主張した政党が議席を増大させました。ところが、選挙が終わると彼らは前政権与党と連立を組み、一夜にして「民営化オーケー、外国投資オーケー」と変身してしまったのです。
現在、私たちは再び民営化、とりわけ林業の民営化の問題に取り組んでいます。
今ニュージーランドでは、日本企業にかかわる論争が起きています。ある日本企業が森林と製材工場を買ったのですが、そこは地元のマオリ族が買いたいといっていた所です。工場で働いているほとんどの労働者はマオリ族の人々です。ところがこの企業は、工場の一部を閉鎖するといって、多くの労働者をレイオフにしました。この問題が起きて、再び労働者、地域コミユニテイ、マオリ族、環境活動家が結集したのですが、今回はこれにニュージーランドと日本の市民が連帯して、会社に圧力をかけたのです。
この問題で私たちが人々に訴えようとしているのは、規制緩和を止めるのに政党や政府に頼っていてはだめだということです。政治的力を持ち、国の内外に連携を作り出すような新たな道を探らなければなりません。そして規制緩和によって権力を得ているもの、つまり政府ではなくて国際的な資本に対して圧力を加えなければならないということです。
最後に、重要な点を述べて終わりにします。私たちがグローバリゼーションについて語るとき、しばしばそれがまるで世界を征服する全能の力を持っているかのようにいいます。世界銀行やWTO(世界貿易機関)について語るときも、それが無敵の力を持っていて、私たちの生活や国を乗っ取るのを阻止できないかのよに思ってしまうのです。これはとても危険なことです。
たしかに、事態の進展の中でわれわれのできることは狭められた。しかし、私たちが政府を押さえつけて、協定交渉の場で好き勝手にさせないようにすることは可能です。さらに、こうした国際フォーラムでの彼らの行動に異議を申し立てることはできる。また国際的な場面で政府を困らせることもできる。私が海外に行く目的の一つは、ニュージーランド政府に外から圧力をかけることにあり、これは国内でやるよりも効果がある場合が多いのです。
そのためには、低抗し、暴露するだけでは不十分です。私たちに今強く問われているのは、オルタナティブな道を作り出すことです。
グローバリゼーションは現実に起きています。それが何を意味するか、深く観察する必要があります。しかし私たちは、私たちの抵抗をもグローバライズすることができるのです。進行している事態に対して、連帯して効果的に反撃することが可能です。その一方で、各国の違いも理解しなければなりません。世界経済政策に対するオルタナティブはあっても、その内容は、それぞれのコミュニティの価値観と優先順位に基づいたものでなければならず、政府にそうした価値観と優先順位を反映させ、尊重させなければなりません。
規制緩和の推進者たちが、人間的価値を取り戻し、社会の現実とそれに対する責任を問題にしていくことが私たちに課せられた任務です。それは可能だと私は信じているし、その確信を持たなけれれば目的は実現されないのです。
内橋
いま、進みつつある規制緩和の政策プログラムの背景に市場競争原理至上主義の経済学がある、ということを話してまいりました。その核心をなすものは古典的な「商品交換の自由」であり、いわばその“お化粧直し”が季節はずれの花盛りを呈しているのが現状ではないかと思います。
いうまでもなくこの「商品」なるものの概念のなかに労働が含まれているわけです。
産業革命以降、資本主義勃興期において、新興ブルジョアジーは絶対主義へのアンチテーゼとしてこの「商品交換の自由」を押し立て、最高の基本的権利に昇華させてきました。
いわば近代資本主義におけるもっとも古典的で原初的な「自由」であったということです。
歴史をひもといてみれば誰でもお分かりのように、自由の概念はその後、集会や結社の自由、あるいは労働者の団結権や生活権などを含む市民的な自由へ、と進化してきました。
それはたとえば「児童労働」の禁止のように「商品交換の自由を拒否する自由」として確立されてきたものです。労働や環境、自然、文化などの分野での「商品交換の自由を拒否する自由」つまり幅広い市民的自由を無視して、すべてを狭い「商品交換の自由」にひき戻してしまおう、というのが現在猛々しく叫ばれる規制緩和論の本質なのではないでしようか。
「児童労働」について、ここで少し触れておきたいと思います。
産業革命以降、イギリスにおいて「土地囲い込み(エンクロージャームーブメント)」がショウケツを極めました。資本が土地を囲い込んでいったために多くの農業従事者が経済的基礎を失って崩壊し、貧困家庭がぞくぞくと輩出したわけです。破綻した農民の多くは都市に流れ込んでいきましたが、当初、貧困家庭の児童、孤児たちの面倒をみたのはキリスト教の教区であったわけです。が、その教区に属する人々の経済的負担が重くなってきた。
そこで貧困家庭の児童、あるいは孤児たちは、労働力として、当時、勃興期にあった繊維工場へと送られた。今日、語尾にシャーのつく地方、たとえばヨークシャーなどが、その典型例ですが、それらは繊維工場の集積地であったわけです。劣悪な環境の工場に児童を送り込んで、疲れて倒れるまで働かせ、倒れればベッドに寝かせるわけですが、代わりに、そのベッドで寝ていた児童はたたき起こして連れ出し、工場で働かせる、というような過酷な労働が待っていた。ベッドの数は児童の数の三分の一しかなかった、という記録も残っているほどです。
このように悲惨な児童労働に対して、これは禁止すべきだ、という運動が勃然と起こるわけです。たとえば工場法の制定を呼びかける運動もその一つでした。が、この時、そのような工場法の制定に対して「それは商品交換の自由に反する」といって反対したのが、当時の有力な経済学者たちであったことはよく知られた事実です。
遅れて、日本においても工場法をつくろうとしたとき、真っ先に反対したのが、いまでは偉人扱いの、先駆的な学者たちだった。歴史は繰り返す、とはよくいったものですが、この時も「商品交換の自由に反する」というのが彼らの主張でした。また国際競争力からみて時期尚早だと猛反対した人がいまは“偉人”として畏怖されています。
しかし、時代の流れのなかで、その後、工場法は成立し、同じ「自由」でも「商品交換の自由を拒絶する自由」というものがあることを人々は確認するようになりました。
このように営々として、真の自由とは何か、真の人間の尊厳を守るための権利とは何か、その確立に向けて人々は努力してきた。これがすなわち自由の歴史である
わけです。
戦後日本においても、同様の苦労と引き換えに、さまざまな労働に関する基本権を獲ち取り、長い時間をかけて労働に関する基本的な権利が確立されてきました。それがいま、これまで述べてきたような経緯から、見事にご破算になろうとしている。まさにいま進もうとしていることの真の意味がここにある、と思います。
こう見てきますと、マスコミの責任というものがいかに重いか、よく分かります。このような規制緩和万能論の旗振り役を、もっとも熱心に、かつ積極的に果たしてきたのが巨大ジャーナリズム、なかでも中央の大新聞各紙であったことは明らかだからです。ところが、もろ手を挙げて例外なき規制緩和をはやしてきたそのマスコミが、ひとたび自分の足元に再販制度廃止という、規制緩和の波が押し寄せてきますと、自分たちだけは別だ、例外だ、と叫んでいます。
私は、少数派の発言権を保護するのはまさに民主主義の基本であり、そこに、新聞、出版ジャーナリズムの使命があると思いますから、その故に、再販制度廃止論に対しては強い反対意見を主張してきました。これをもし市場原理に任せてしまうならば、まず発言者そのものが限られてくる。多数派の意見を代表する人や議論しかマスメディアには登場しなくなってしまう恐れがあるからですが、それにしてもこのような日本のジャーナリズムの勝手な理屈のこねように対して異論を呈している人が如何に多いことでしようか。付け加えるまでもないところです。
このまま再販制度が廃止されれば、新聞、出版界においても寡占化、独占化が進むに違いありません。文化、環境、さらに資源問題、都市問題などは、まさに市場原理のラチ外に立つべき、より上位の概念だと思いますが、民主主義の根幹をなす少数者の発言権の擁護も同じように市場原理に優越するもっとも基礎的な原理、原則とみなすべきです。
これと正反対に規制緩和を進めるべきはまさに「情報」についてでしょう。
現在の日本では、官僚がハンコ一つ押せば、それでただちに国家機密になる。国民を代表する国会議員ですらその情報に接近できない。こういう裁量的秘密主義が、圧倒的な行政優位の状況、そして政官業の癒着を生んできたわけです。ですから、規制緩和論者の説くように「官から民へ」というのであれば、何をおいてもまず情報公開から進めねばなりませんが、官僚の情報囲い込みに対して、実質的に「知る権利」を保障すべきジャーナリズムが、残念なことに、なかなか事の本質を見抜くことができていない。まことに残念きわまりない限りと私は思います。官僚の裁量的秘密主義を打ち砕くに足る調査報道、それを支える使命感は、「新聞もまた売ればいいのだ」というような経済的競争の勝敗とは、全く異なる次元の問題であることをあえて最後に強調して、私の話を終わりたいと思います。
ケルシー
もう一度、一つのことを強調して、終わりたいと思います。
つまり、規制緩和と人権および社会的責任は両立しないということです。政府は今、規制緩和に関連して、人権と社会的正義の分野でみずからの果たす役割はないといっています。自由市場がすべてを提供するのであり、その中では個人が自分の生活に責任を持つのだというのです。
しかし、振り返って見れば、一九世紀の自由市場と今世紀の資本主義が、基本的人権と社会正義を実現できなかったからこそ、その責任を各国政府が担うようになったのです。
九六年にニュージーランド政府は、民間労働者に適用される年齢、障害の有無、性別による差別を禁じた人権法を、二〇〇〇年までに政府部門に適用するといいました。ところが早くも今は、それを見直す法律が提案されています。政府職員には、民間部門と同じ基準を当てはめなくてもよいというわけです。次には、民間労働者に適用されている法律を改悪してくるでしよう。
これに対して私たちは、国際的フォーラムの中で政府に対抗してきました。雇用契約法はILOの場で攻撃されました。貧困と社会正義に関しては、コベンハーゲンの社会開発サミットで批判されました。九七年、ジュネーブで開かれた子どもの人権に関する国連委員会に、政府が基本的国際法に違反しているとの報告が提出されて、彼らはおおいにまごつきました。しかし彼らはそれを無視しています。
私たちが共同で活動してきたいくつかの国、たとえば南アフリカでは、政府が一定のバランスをとろうとしています。経済政策に社会的監査を導入する、あるいは市民的権利に関する指標を設けて、それを経済政策の価値を検討する際の基礎にしなければならないといった要件を制定することを検討しているのです。また、特定の年までに達成すべき社会的目標を、政府が教育、保険、福祉などについて宣言し、それがどこまで達成できたか報告を義務づけられるような指標システムを作ろうとの提案もあります。
ニュージーランドの政府は、そうした取り組みをする意思を持っていません。私たちはその代わりに、市民社会として私たち自身そうした指標を設け、社会的責任と社会的正義という中心的指標に照らして、政府と民間の権力者を判定することを考えています。そしてもし政府が、人権と社会的正義に関する責任を放棄したら、政策の優先順位を正すために行動を開始するのです。
私は、日本のみなさんが同じような方法で闘いに立ち上がっているのを聞いて勇気づけられました。そして社会正義と人権のための闘いの中で、再びみなさんの多くとともに活動できる日を楽しみにしています。
司会
有り難うございました。