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http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2008/06/post_a6c8.html
また悲惨な事件が起きてしまいました。お亡くなりになった方はどんなにか無念だったことでしょう。心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、ご遺族の方々のお悲しみはいかばかりかと、只々お察し申し上げます。さらに、被害にあわれた方々には、一日も早いご回復を祈念いたします。
このような理不尽な事件の被害者となり、ご遺族となられた方々には、悲しみとともに、深い憤りがおありでしょう。犯人を殺してやりたいと思うとすれば、それも無理からぬ気持ちでしょうし、裁判となれば極刑たる死刑を望むのもまことに自然な感情だと思います。
ただ、それが当然の感情であり思いであると考えてなお、僧侶である私は死刑を肯定することはできません。その場合の理由は、死刑制度の是非にあるのではなく、私が「不殺生(ふせっしょう)」という戒律を受けた僧侶だからです。人情の問題でもなく、社会制度の評価の問題でもなく、仏教僧侶だから、この一点です。
私が僧侶として出家し受戒しようとしたとき、一番躊躇したのは、自殺ができなくなるということでした。それまでの私は、自殺を馬鹿げた所業だと考えてはいたものの、その一方でやはり、人生最後の切り札だとも思っていましたから、このカードを失うのは、本当に惜しいことでした。
と、同時に、戦争と死刑制度も認めない覚悟を決めねばならないと考えていました。このことは、世の中の成り行きによっては、社会的な孤立を招く危険があるとも思いました。
しかし、それでもなお、受戒し僧侶となるというなら、そこから先は、もはや人情や理屈の出番はありません。受けた戒律で立場を決めるだけです。それが僧侶であるということなのですから。
ただ、ここであえて理屈を言わせていただければ、人間が変わりうる可能性を完全に否定してしまう制度は、凡夫の成仏を信じる立場からは認められないでしょうし、その意味で「絶対に赦せない」と言い切って死刑を容認することは、僧侶の選択肢にはないはずだと、私は思います。
数年前、修行道場で一緒だった後輩が、修行を終えて師匠の寺に帰った後、急死してしまいました。路上で危険行為をしていた青年たちに注意をしたら、暴行を受け、殺されてしまったのです。
彼の葬儀には大勢の人々が参列し、悲しみを共にしたということですが、その最後に彼の師匠であり父親である住職は、挨拶の中でこう述べて絶句したそうです。
「それでも、赦さないといけないのでしょうかね・・・・・」
僧侶であることと父親であることに引き裂かれた、このギリギリの言葉を思い出すたび、私は自分自身に改めて覚悟のほどを問い直してみるのです。
さて、お詫びをしなければなりません。
6月7・8日の恐山参禅研修にお越しいただいた皆さん、お疲れ様でした。ただ、皆さんに来ていただいたにもかかわらず、私は一身上の都合で、急に研修に参加できなくなってしまいました。
院代が直接指導するだろうというお考えで、はるばる下北半島まで来ていただいた方々には、本当に申し訳なく存じ、深くお詫び申し上げます。
帰ってから、みなさん熱心に修行していただいたと聞き、大変ありがたく存じます。どうかこれに懲りず、是非またご参加ください。今度は必ず参加するように致します。