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「正統」は「異端」である?!「環境問題はなぜウソがまかり通るのか?」〜武田邦彦http://takedanet.com/2007/05/post_69d7.html
(貼り付け開始)
「環境問題はなぜウソがまかり通るのか?」という本を出したら、猛烈な反響があり、マスメディアに出演したり、インタビューで記者の方とお話をしたり、またメールで読者からの感想を読む機会が多くなった。
そして、最近、とても奇妙なことに気がついたのである。
それは「武田は異端だ」と思われているらしいことだ。私のような学者にとって「異端」とは賛辞だから、それはとても満足しているが、どうも奇妙な感じがする。そんな賛辞をいただいて良いものか?
つまり、私がその本に書いたことは、
1) 地球温暖化しても北極と南極の氷では海水面は上昇しない。
2) ダイオキシンは人間に対して毒性が低い。
3) ペットボトルとプラスチック・リサイクルは資源の節約はゴミの減量になっていない、
という3点である。
それぞれ特に驚くことでもない。北極と南極の氷のことは基礎的な物理学ですぐ判ることであるし、ダイオキシンについてはその方面の学者がすでに言っておられる。
リサイクルは、19世紀半ばより人類が今まで確信をもっていたこと、「永久機関は出来ない(エントロピー増大の法則)」「複雑系(合成の誤謬」」「大衆の反逆(民主主義)」を単にリサイクルに適応したに過ぎない。
つまり、私が本に書いたことは、余りにもまともなことで、今更、驚くようなことではない。なぜ、それが驚くことなのだろうか? テレビにでると女性のアナウンサーが決まって「えーっ!」と驚いてくれる。
気分は良いが何となくしっくり来ない。私は残念ながら異端ではないからだ。
正統が異端になり、異端が正統になる現在の日本社会、実に奇妙だと感じる。それを少し書いてみたいと思う。
1. 地球温暖化と極地の氷
この問題は、物理的には「アルキメデスの原理と蒸気圧と霜の問題」であるが、世俗的には「地球が温暖化しても北極と南極の氷の影響は関係ない」というのはIPCCの公式見解である。
つまり、2007年2月までに発表されたIPCCの公式見解では、
1)北極については触れていない。
2)南極については「今までは変化していない」
3)南極のこれからは「氷が増える」
としている。
だから「武田は本にIPCCの公式見解を整理して書いたに過ぎない」。これがなぜ「異端」になるのか??これが異端ならIPCCが異端になる?
ところで、日本に「地球が温暖化したら北極と南極の氷が溶けて海水面が上がる」と言っている専門家はいるのか??・・・まだ見つからない。
日本の専門家が「極地の氷が融けて海水面があがらない」と言っているのに誰が「上がる」と決めつけているのだろうか?
第一の原因は「官製粉飾」である。IPCCが15年にわたって「極地の氷は海面上昇には関係ないか、あるいは下がる方向だ」と報告しているのにそれを無理矢理「上がる」と環境庁は言い続けた。
「政府の支持する正式機関」が発表した「正式報告」を国民に知らせた私が「異端」ということ自体に現代の日本の環境問題を象徴的に示している気がする。
なお、日本でももっとも権威のある学会の一つ(金属学会)は私の提出した論文に対して「この論文に記載されていることは、社会の認識とは違うが真実なら論文の価値がある」として審査し、論文として認めてくれた。
社会よりは学会の方が事実を尊重してくれることもわかり、ややホッと一安心したものである。
2. ダイオキシン
人間に対するダイオキシンの毒性については、もっとも権威ある和田先生(東京大学医学部)が2000年2月に、続いて渡邉正先生(東京大学先端研)が書籍で続き、毒性が低いことを。またその前に科学評論家の日垣さんが1998年にダイオキシン猛毒説について強い疑念を示している。
現在、ダイオキシンの毒性に関する第一線の研究者は「ダイオキシンでは世界で一人も犠牲者がいない」としている。ダイオキシンの研究者はダイオキシン自体の毒性を研究することが大切であるというスタンスだが、人間に対する毒性自体が強いとは言っていない。
日本で「ダイオキシンで患者さんがでている」と言っているの専門家は存在するのか?・・・これほどの猛毒、これほど身の回りにあるものでなんで犠牲者がでないのか、その理由を説明している学者はおられるのか?
今更、「もともとダイオキシンの毒性は問題ではない。多くの化学物質が製造されるのが問題だ」などと問題のすり替えは論理を混乱させる。単純にまずダイオキシンの人体に対する毒性はどちらが「異端」なのかはっきりしたい。
ダイオキシンで私が異端になった原因は1996年以来の爆発的なダイオキシン報道と市民運動だろう。ただ、毒物議論で難しいのは「洗剤と石けん」と同様な様相を呈してくるからである。つまりかなり感情的なことと非常に微細なことが大きな話になりがちだからである。時間的な余裕がないからか、事実―解析―意見―感情 の順序にならずに逆になる。
ところで誤解が起こらないようにしたいのは、
1)ダイオキシンの毒性に関する研究は重要である、
2)毒性のある化学物質を無制限に使って良いという訳ではない、
ことを断っておきたい。
社会が忙しくなったせいか、ダイオキシンはそれほど猛毒ではないと言っただけなのに、「おまえはダイオキシンの研究が不要だというのか!」とお叱りを受けたりする。日本社会は本当にギスギスしてきた。
ダイオキシンの毒性は、動物の種類によって大きく異なったり、前進的な症状が出たりするので毒物と生体の関係については優れた研究対象であると言える。だから大いに研究を盛んにして知見を積み重ねるのは大切である。
3. リサイクル
リサイクルは地球温暖化やダイオキシンに比べると、筆者の専門でもあり、理論計算も実績も武田の研究の一環であるところがややこしい。
日本にはプラスチック系の資源材料学の専門家は私しかいないし、分離作業量の理論計算をできるのも私だけなので、専門性から言えば私が「正統」と言いたいところだ。ただし「お国の方針と違う」という点で「異端」である。論文数、著述物(分離、資源関係)は日本で私が圧倒的に多い。
だから、リサイクルに関して私が「異端」と言われるのは結構で、賛辞と思っている。特にまだ日本社会がリサイクルを始めていない時に推定した数字が合ってるかどうかは私の関心事でもある。
最近になってペットボトルのリサイクルの数値が出てきたが、石油から作れば6円、リサイクルで18円であり、コストの内訳は25%が人件費、75%が資源である。だから資源で比較しても3倍違う(廃棄物の専門家、西ヶ谷さん計算)。
また政府は平成17年3月にリサイクルに掛かっている経費を公表したが、ペットボトルについては600億円としている。(政府の発表はいい加減だということになると、これもいい加減かも知れないが)これから計算すると14万トンが再商品化(業者間受け渡し量)であるから、キログラム430円程度になり、これをキログラム100円ほどの価値の樹脂として使うので、やはり4.3倍になっている。
これに対してリサイクルが始まらない前に武田が発表したのは石油から作れば7.35円、リサイクルして27.4円だから、3.7倍だからほとんど同じである。
日本にリサイクルすると資源の節約になると言っている人がいるのだろうか?・・・いない。「リサイクルは資源の節約になる」ということを「前提」にしている人はいる。
かなり前に私の講演をお聞きになった方が「武田先生、無理ですよ。みなさん、リサイクルをすることから頭が始まっているのだから、リサイクルが意味があるかと言われても何を言っておられるのか分からないですよ」と言われた。
また新聞の主だった論説委員の方に講演したところ、ある新聞社の論説委員が「武田さん、もう、政府がリサイクルすると決めているのに、そんなこと言っても無駄じゃないですか」と言われた。これにはビックリ。
ところで、人間は「まとまった資源を分散させ、高いエネルギーを持っているものを低くし」それによって「人間の活動」を引き出している。これに逆らう試みは19世紀に「エントロピー増大の研究」によってケリが付き、永久機関はすでに公的には存在しない。
循環型社会というのは「永久機関の材料版」であり、これまで学問をしてきた人にとって踏み込んではいけない踏み絵だが、踏み込んだ方が「正統」となった。
4. 「異端」議論のおもしろさ
「異端」とは、集団内で「主流」とされる立場や考えに同調しない意見を持つ少数派や個人を、貶める目的などで使用される場合が多い。 ただし、芸術など独創性が高く評価される分野においては、「孤高」にも通じる賞賛の言辞として用いられることもある。(辞書にこのように書いてあった。)
異端議論は実に面白い。次の特徴がある。
1)「正統」を名乗る人がいない。「正統」は上品だから姿を隠す。
2)現代日本では「政府は正統」という定義である。昔から?メディアは反政府?
3)「学問的事実」より「社会的認知度」が正統を決める。納得できる。
最初は少し腹も立ったが冷静に考えてみると、昔から「異端」とはもともとは「正統」である。イエス・キリストを正しく継いだら異端になる。人間とはそういうものだ。
「温暖化したら南極の氷は増える」・・・これは学問的事実である。だから異端になる。「エントロピー増大の法則があるからリサイクルは成立しない」・・・これも学問的事実である。だから異端になる。
ところで、環境問題における異端発生は、1970年までは無かった。イングランドの森林が破壊されたのは1800年だ。高圧蒸気機関が大量の還元炭素を求めた。その時のイングランド一人あたりの鉄鋼生産量は現在の日本の500分の1である。そして1960年までは環境保護が異端だった。
でも1970年代の石油ショックから環境がビジネスになった。そこから異端が誕生する。
これまで「省エネルギー」は生産拡大の手段だったが、それが突如、生産抑制の王道になった。実に奇妙である。変わり身が早いと言えば速いし、因果関係なしに社会が動いていると言えばその通りだ。でも、社会は必ず因果関係を含んで時代が流れる。
江戸時代。元禄までは発展段階にあった。行き詰まり、青木昆陽がサツマイモを作り、天保の改革が行われる。何もかにもだめという時にエレキテル、解体新書と続き、それややがてスヌービング号に変身し、日本海海戦の大勝利となる。時代は流れなければならない。
バイオマスは「植物を取るのにエネルギーを投入する」という関係を、そのまま「植物をエネルギーにする」というのだから、とりあえず「2倍のエネルギーを使って、1のエネルギーを取る」ということになるし、それがアメリカ農業関係者の発案であることも明々白々である。ここでも時代は流れる。
やがて人類は「自らが快適と思う方向が善である」という不文律を捨てなければならない時が来る。その時にはまた新しい異端が必要となろう。
(貼り付け終わり)