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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20071009/137145/?P=1
今回と次回にわたって、昨今の教師バッシングや教育改革論を用意した、より大きな背景に戻って考えてみたいと思います。あらかじめ結論を言えば、ここ最近の教師バッシングや教育改革論には、子どもの成長を「プロセス」として考えることができない、世の大人たちの「せっかちさ」みたいなものが孕まれているのではないかと思うのです。
「学校が○○をやっていないから、子どもがひどいことになっている」と決めつけて、過剰で性急な要求を学校に押しつける。こうしたせっかちな要求をぶつける先が、教師であれば教師バッシングになるし、「今までのシステムはおかしいぞ」という話をすれば教育改革論になる。
いずれにせよ、ここには子どもの成長や成熟を待ちきれないで、大人側のいろんな願望が入り混じった性急な要求が、教師や学校改革論にぶつけられているという構図が見られます。
しかし、学校も教師もドラえもんの四次元ポケットではありません。それどころか、行政や家庭から無理難題を突きつけられて、パンク寸前になっているのが現在の学校の実態です。
少し先回りして言えば、こうした現状に、いたずらに要求を積み増ししても、さらに消化不良を起こさせるだけで得策とは言えません。大切なのは、「あれもこれも」ではなく、学校でやるべきこと/やらなくてよいことを峻別すること、さらに、各学校段階で子どもの発達に見合ってやるべきこと/やるべきでないことを区別することです。
「規範が身につかずに育っている」のウソ
私の見るところ、道徳教育の強化という議論も、そうした「あれもこれも」の1つです。そこで今回は「今の子どもは規範が身につかないまま大人になっている」という議論はウソだという話をしたいと思います。道徳教育が必要だとか、徳育を教科にしろとか、そういう主張の背景にある現状認識は、果たして正しいのかどうか。
2003年に提出された中央教育審議会の教育基本法の見直しに関する答申では、「教育の現状と課題」についてこんなふうに書かれています。
「教育は危機的な状況に直面。青少年が夢を持ちにくく、規範意識や道徳心、自律心が低下。いじめ、不登校、中途退学、学級崩壊が依然として深刻。青少年の凶悪犯罪が増加……」
これを読むと、教育がひどいことになっている。誰でもそう思うでしょう。しかし、この種の「今の子どもたちは大変な状況だ」という言説は、中身のバリエーションを違えながら、1960年代にも、70年代にも、80年代にも、90年代にも繰り返されてきています。明治の終わりだって、大正期だって、同じように青少年の問題は語られていました。大人が教育を語るときのステレオタイプであるとも言えます。
確かに、今の学校には、さまざまな解決すべき問題がある。また、すべての子どもが学校にうまく適応し、親や先生の言いつけをよく聞いて、まじめで規律正しく生きているわけではないでしょう。
しかしながら、人が成長・成熟していくプロセスは直線的なものではありません。誰もが多かれ少なかれ、「イライラ、モヤモヤ」を抱えながら彷徨するのが、10代半ばの時期の子どもたちだと私は思います。
考えてみるべき重要なポイントは、「子どもたちは規範が身につかないまま大人になっていっているのか?」という問いです。私の答えは「NO!」です。大人が用意したマジメな規範の世界からはみ出して生きている子どもたちが少なくないことは確かです。でも、その「イライラ、モヤモヤ」のプロセスを経て、ほとんどの子どもは、ちゃんとした大人に成熟しているのです。
図1は窃盗検挙者数の推移を年齢別に見たものです。子どもの場合は万引きと自転車泥棒が多いのですが、この図を作ってみて私が驚いたのは、10代の発生率と20代以降が対応していないということです。
ご覧のように、10代の窃盗検挙者数は、1960年代半ばや70年代末〜80年代初頭のところに山ができています。しかし、もし規範を身につけないまま大人になっているんだとしたら、窃盗少年たちがずるずると犯行を繰り返し、この数年後に20代の山ができるはずです。ところがそうなっていないんですよ。万引き少年がたくさんいた世代が、大人になって、大量に事務所荒らしになっていく、といったことにはなっていない。
「では、凶悪犯罪はどうなのか?」という疑問が出ますよね。図2は戦後の殺人(未遂含む)検挙者数(※)の推移を年齢層別の人口比で表したものです。
これを見ると明らかなように、10代では1960年代から70年代にかけてぐっと下がって、現在まで非常に低いところで横ばいで推移しています。20代でも大体同じですね。
※特命助手による脚注
「検挙者は減ったけれど、殺人の認知件数は増えている、要するに捕まらなくなっただけなのでは?」という疑問を持たれる方もいらっしゃると思いますが、殺人の検挙率は長い間90%台で推移しているので、(日本に限って言えば)殺人検挙者数の減少は殺人件数の減少と考えて差し支えありません。
戦後で飛びぬけて少年が凶悪化していたのは、1960年前後。「わしらの頃は〜」とか言っている団塊よりちょっと上の世代の人たちが青春時代を送っていた頃です。団塊の世代も、今の若者と比べたらかなり凶悪でした。つまり、若年成人が規範を身につけないまま大人になったというのは、60年代には当てはまるけれど、近年ではそうではないというのが分かります。
「10代後半〜20代の凶悪事件が沈静化」こそ真相
なぜ1960年代〜70年代にかけて少年の凶悪事件が減ったのか。日本が経済的に豊かになったことは大きな理由として見逃せません。特に日本では、90年代に至るまでずっと若年失業率が低く、子どもたちがそれなりの豊かさを享受する生活を手に入れてきたことが大きかった。
同時に、問題を抱えた子どもたちの面倒を高校が見るようになったから、ということも重要だと思います。60年代までだったら、職を転々とし、社会で孤立しながら、粗暴犯や凶悪犯になっていたであろう子どもたちが、70年代以降には、むしろ教育困難校といわれる学校の中で、先生という大人とまがりなりにも関わりをもって、難しい時期の3年間を過ごすようになった。このことの意味を低く評価すべきではありません。
さらに10〜20代の殺人検挙者数を細かく区分してみた図3を見てください。低い年齢層の殺人率が高まっているのではなく、この年代の中の比較的高い年齢層――10代後半〜20代前半の層――の検挙者数が大幅に減少しているのだということが分かります。
メディアでは「凶悪事件の低年齢化」が騒がれていますが、実際はそうではなくて、比較的高い年齢層の少年や若年成人が、殺人事件を起こさなくなっているんですね。で、相対的には10代半ばまでの低年齢層の比率は高くなっていることが分かります。
だから事実は、「凶悪事件の低年齢化」ではなくて、10代後半〜20代の凶悪事件が沈静化した結果、10代半ばまでの低年齢層の子どもの起こす凶悪事件が、数は少ないにもかかわらず目立つようになっている、ということなのです。しかも、豊かな社会の中での犯罪は、かつてより動機が不透明のように見えるため、「子どもがおかしくなった」と騒がれやすい。
しかし、殺人で見ると凶悪事件は増えていないし、年長の少年や若年成人の“殺人を犯す率”は非常に低くなっているわけです。強盗とか粗暴犯(暴行や傷害など)についてはここでは論じませんが、興味を持たれた方は、広田『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会)をお読みください。総じて、青少年の凶悪犯罪は減っているし、粗暴犯も戦後最低レベルです。軽微な犯罪も大人になる頃には卒業する。
要するに、非行の大半を占めている窃盗犯で、警察のやっかいになる子どもたちは多いんだけど、大人になるまでには悪いことはやらなくなっている。10代半ばでいろいろと問題を起こす少年たちも、そのほとんどはまともな大人になっている、というのが、この図から分かることです。
青少年はしっかり育っている。ならばなぜ問題が?
これらの図を踏まえて次のことが言えると思います。
1つは、現在の学校教育が、道徳的な社会化に失敗しているわけではない、ということです。子どもの規範が低下していると嘆く大人たちは、社会化途上の子どもの状態を性急に問題視しているだけではないか。子どもたちは、規範が身につかないまま育っているのではなくて、規範が身につくまでに時間がかかっている、と考えたほうがいいと私は思います。その点に教育学者や心理学者が注意を払わずに、「青少年がうまく育っていない」論を振りまいている。「こんな子どもたちが大きくなったら世の中大変な社会になりますよ」と。しかし先の統計を見ると、そういう人たちの言説はウソだというのが分かりますね。
もう1つは、中学校や高校は、社会化の「途上」にある、難しい時期の子どもたちを抱えている場所であるということです。窃盗の検挙者数を細かく見ると、非行のピークは14〜17歳に集中している。だから彼らと密につき合う中・高の教師の目で見ると、「子どもが大変なことになっている」と思えてしまうかもしれません。
「プロ教師の会」を主宰し、現役の中学教員でもあった河上亮一氏は、森喜朗首相(当時)のもとで開催された教育改革国民会議(2000年)で、「傷つきやすく、感情の起伏が非常に激しい不安定な子どもたちが大量に増えてきた」「義務教育が終わった段階で、社会的自立がほとんど不可能な子どもたちが大量に世の中に出ていく」といった発言をしています。こうした認識のもと、国民会議でも道徳教育の強化が報告書の中で提案されました。
確かに中学教師の河上先生の目から見ると、一番問題を抱えた子どもたちの状況が目につくはずです。要するに学校の先生というのが、一番困難な時期の子どもたちとつき合っているので、実感としては子どもが大変な状況になっていると感じる。それは分かるけれども、子どもたちの「その後」を統計的に見ると、必ずしも規範が身につかないまま育っていく、という筋では解釈できないんですよ。
いつの時代も「子どもが変!」だった
10代半ばにいろんな問題行動が集中するのは、なにも現代の子どもたちに特有の状況ではありません。この時期に自立や成熟に向けて子どもたちが悪戦苦闘するのはずっと続いてきています。
今の大人たちだって、若い頃はさまざまなネーミングで呼ばれていたじゃありませんか。1970年代前後だと「全共闘世代」、それが終わった後には「シラケ世代」とか「三無主義」「五無主義」。80年代半ばには「新人類」が登場して、90年代に入ると「キレる若者」とか。
つまり、どんな時代も、常に青少年の育ち方の問題点なり特異性なりを強調するような議論がなされてきているわけです。けれども、通じて言えるのは、各時代ごとに特有な状況の中で子どもたちは生き方を模索する時期があるのだと。また、その時期に新しい価値観や感性を探し出してきて、社会の規範状況をリニューアルしていく、そういう部分もあります。
全共闘世代が典型的ですけど、政治的な意味は別として、彼らが1960年代ぐらいまでの社会に広がっている価値観を一新したのは確かで、欧米に追いつけといったキャッチアップ型の近代的な価値観から、すでに近代化を達成した後の現代的な社会、文化的な価値みたいな問題へ視点を転換したのが当時の若者文化でした。
あるいは、三無主義とか五無主義というのも、若い世代の問題性を指摘するような議論としてよく言われたけれど、当時の若者がいつまでも無気力、無関心のまま大人になったわけではない。むしろそういう世代、つまり現在50代ぐらいの人たちが社会の中核として活躍しています。
だから、10代のいろんな生き方を模索している時期の若者の姿を見て、そのまま彼らが直線的に大人になっていくと考えるのはまちがいで、彼ら自体が社会の文化をリニューアルすることもあるし、個人レベルで言うと、既存の文化になじんで、落ち着くことも当たり前のようにある。
言いなりにならないのが子どもの証拠
ちなみに最近、自民党の選対委員長に就任した古賀誠氏の評伝を読んでいたら、高校時代の彼はケンカで九州中に名を轟かせていたそうです。あるいは参議院議員になった義家弘介さんも、ご存じの通り、ヤンキーでツッパっていた。彼らが、今になって「道徳が大切だ」とか言って旗を振るんだけど、自分たちの若い頃を思い出してみろ、と言いたいですね。
作家の清水義範氏は数年前にこんなことを書いていました。
「人間がどんどん悪くなってきて、お先まっくらで、未来はガタガタだ、ということをよく大人は言いますが、あれは実は、若い世代がどうも私たちとは違っている、ということをなげいているのです。前の世代が次の世代に対してする説教は、実は、おれたちの築いた世の中を壊さないでくれ、ということを言っているんです」
「若者が、いつまでも小学六年生のままで、大人と同じ価値観をマネして持っていたのでは、未来がないではないか」(清水義範「ガングロ女子高生の味方をする」『現代』2000年3月号)
その通りだと、私は思います。思春期の子どもたちは、いつの時代だって、大人の言いなりにならないことを求めています。これは精神的な自立の過程では当然のことで、イライラ、モヤモヤの時期を通過しながら、既存の価値を問い直したり、生き方を模索したりすることにつながっている。
そんな彼らに、「徳育」を教科化して、画一的に教え込もうとしてもムリですよ。むしろ、学校生活全体を通して、「自分」を考えるいろんな機会やきっかけを与えるような工夫を考えるほうが、よほど有益だと思います。9月半ばに中教審が「徳育」の教科化を見送る方針だ、というニュースを見かけましたが、私は適切な判断だと思います。
思考停止でキレているのは大人である
そろそろまとめに入りましょう。
難しい思春期にさしかかったわが子とどう口を利けばよいのか戸惑っている中年のオジサン・オバサンが、「学校できちんと道徳を教え込め」とか「個々の子どもをもっと理解しろ」などと言って、自分にはできない願望を学校に押しつけるのは無理無体です。親が1対1でできないことを、ひとクラス30人まとめて教え込もうとしたって、それはできません。
「青少年の問題をなくす学校教育」ではなくて、「青少年の問題と丹念につき合ってていける学校教育」という方向を、大人は考えるべきだと思います。現実の学校は、難しい子どもたちと何とか関係をつくり、教育的な意味を持つ空間を機能させようと努力しています。また、さまざまな問題を抱えつつ生きている子どもたちの成熟までの試行錯誤に、多くの先生がつき合っている。特に、中学校の先生や、高校の「進路多様校」の先生方は、大変な苦労をされています。
つまり、今の学校は、「子どもが起こす問題と向かい合う大人」の役割を必死に果たそうとしているのです。そして、そうした結果、少なくない子どもたちが、途中であれやこれやの問題を起こすものの、その大半は、次第に落ち着いてきて、悪いことを「卒業」し、まともな大人になっていっているのです。
そのことを理解できず、成熟までの時間をひたすらマジメでクリーンなものにしたがる短気な大人が、せっかちに学校を糾弾し、道徳の教え込みといったできもしない教育論を振り回している。
果たしてキレているのは、子どもなのでしょうか。例外的な事件が大騒ぎになるたびに、世の中の大人が思考停止してキレている。私にはそう見えてなりません。
(次回に続く)
広田照幸(ひろた・てるゆき)
1959年、広島県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。東京大学大学院教育学研究科教授を経て、2006年10月より日本大学文理学部教授。教育社会学、社会史専攻。実証にもとづいた切れ味鋭い議論が持ち味。著書に『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)、『教育に何ができないか』(春秋社)、『教育 思考のフロンティア』(岩波書店)、『教育不信と教育依存の時代』(紀伊国屋書店)、『《愛国心》のゆくえ』(世織書房)など多数。